「桜さん、遅いわね……」

 部室でスマホを見た月居が、小さく声をあげる。ショートホームルームが終わってすぐ、15時半には部室に来たが、1時間以上、部長は顔を見せていない。

 休みの連絡は回ってきていないのできっと部活はあるのだろうと思いながらも、どこで何をしているのか、絵コンテはどこまで進んでいるのかが気になって仕方がなかった。


「何か手伝えることあるといいんですけど——」
「それはないな」

 颯士さんの乾いた声が部室に響く。ドライにも思えるけど、実際それは悔しいほど正しい。
 この絵コンテは、脚本と監督を務める桜さんが1人でやらなければいけないことだから。


 脚本のどこからどこまでを1カットにして、どのように撮るか。絵コンテを描いたことがない俺でも、これを決めるのがどれだけ大変かは想像かつく。

 風景画なんかはその風景で1カット、と簡単に決められるけど、役者の動きが加わるとそうもいかない。結局、頭の中で模擬撮影するしかないのだ。

『アクション(Action)、アングル(Angle)、それにオーディオ(Audio)。絵コンテに入れる3つのAって呼んでるけど、その中でもアングルが一番大変かな』

 桜さんも石名渓谷の帰りに話していた。脳内ロケ地に脳内役者を配置して、脳内カメラを回す。
 カメラを回す、なんて簡単に言うけど、位置と高さを調節すればXYZ軸どの座標からでもカメラを映せるわけで。さらに撮影中にカメラ自体を動かしたりすることもできるのだから、パターンは無限大にあると言っていい。

 誰がどう動いて、アングルがどう変わって、1つのカットが終わるのか。それを200も300も絵に起こしていくなんて、面白いかもしれないけど、果てのない孤独な作業だった。



「17時か……」

 颯士さんの小さな声が漏れる中、短針が間もなく5に到着しようとしている。

 月居はヘッドホンをつけて静かに揺れ、颯士さんは「撮影とアングルの基礎が分かるビデオサロン」という厚めの本を捲っている。俺はと言えば「映画制作 虎の巻!」というサイトに見入っていた。
 部屋に響くのは、秒針がテンポよく走る音と、ページを捲る音だけ。

「お待たせ……」
「桜さん!」
「香坂!」

 よろよろと入ってきた彼女を、全員で立ち上がって迎える。月居も心配そうにヘッドホンを外した。

「ふう……」
 精も根も尽き果てたような表情、から一転、ニイッと胸元でピースサインを出す。

「絵コンテ、完成した!」
「デカした!」
「っしゃあ!」
「ありがとー! 280カット終わったよー!」

 まるでコンテストで金賞でも取ったかのような大はしゃぎ。全員でハイタッチする。おとなしい月居も、腰のところで小さくガッツポーズしてるのがなんだか可愛らしかった。

「香坂、ザッと読ませてくれ!」
「俺にも見せてください! 月居もほら!」
「はいはい、慌てない慌てない。原本破かれたら困るから、こっちのコピーの方見て」

 受け取った紙の束を3つに分け合う。4コマ全部埋まってるページと、シーンの区切りで2コマや3コマで終わってるページ、それらが入り混じる絵コンテを捲りながら、ちょっと跳ねたクセのある字を読んでいく。桜さんが一度脳内で撮った「きっと見抜けない」が、紙の中で再現されていた。


「へえ、結構凝ったアングルもあるな、これは撮影楽しみだ」
「へへっ、もちろんソウ君がその場で別のアイディア出してもいいからね。活躍の場はたっぷりあるよ」
「いやあ、香坂先生のアングルにケチつけるなんてそんなそんな……」


 3年生ふたりの冗談を聞きながら先のページを見ていくと、絵コンテの用紙とは異なる普通のルーズリーフが1枚混ざっていた。

 それぞれ丸で囲まれた「佳澄」「和志」という図形が平行に並び、その2つを真っ直ぐ通るように直線が引かれている。そしてその線の下側に、「カメラ」と書かれた四角とそこから伸びる矢印のセットが幾つか描かれていた。


「ああ、それはイマジナリーラインのメモ書きね」
「イマジナリーライン?」

 夢中で読んでいる颯士さんと月居の間を通り、桜さんが俺の前まで来てその絵を指す。

「2人が映る構図を撮るときに、その2人を結ぶ想像上の線よ、名前の通りね。んっと……簡単に言うと、カットを割る時に、この線を超えてカメラを移動させちゃいけないの。ちょうどいいわ。スズちゃん、ソウ君、ちょっと写真撮らせてね。2人とも向かい合って」

 そう言って、桜さんはブラウスのポケットからスマホを取りだし、まずは今いる場所から颯士さんをカシャリと撮影した。

 続いて再び2人の間を通り、奥に行って今度は月居を撮る。カメラを向けられるのは苦手らしく、月居は素早くふいっと視線を外した。


「ほら、見てこれ」

 2枚の写真をスワイプする桜さん。どっちの写真も、左を向いている。

「あ、そっか、カメラを反対に移動しかたら向きが同じになるのか!」

 閃いた俺に、「そういうこと」と、今日の授業のポイントに気付いてもらえた先生のように満足気に頷く。


「これをやると、お客さんからしたら変な風に見えるのよ。2人が映ってたとしても向きが統一されてなくて『これって一体どういう位置関係なの?』ってなっちゃう。そういうことがないように、イマジナリーラインを引いて制御するのね」

 編集の仕方でラインを越えることもできるけどな、と颯士さんが向きをくるくる変えておどけて見せた。


「さて、全カット揃ってるなら、撮影に向けて早速準備だな。まずは印刷室だ」
「印刷室? 何するんですか?」

 颯士さんは、まとめ直した絵コンテの束を、お面を被るようにバサッと自分の顔に当てた。
「出来たものを冊子にするんだよ」