「妻は私のことを忘れてしまいました。私を見ても『どなたですか』と……。私はお喋りな妻と話すのが大好きでした。とても楽しかった。……お願いです、もう一度だけ」


 どうやら、亡くなってはいないようだった。しかし話の内容からすると、彼の妻は高齢によって記憶が覚束なくなってしまっているらしかった。

 大好きな人が近くにいるのに、忘れられてしまった自分。高齢者の夫婦にとっては、珍しいことではないのかもしれない。でも十代の私が実際にそういった人たちにを見るのは初めてで、ひどく切ない気分にさせられる。

 でも、人間が年齢とともに病気になってしまうのは仕方のないことだ。これは、このおじいさんの頑張りだけでなんとかなることではないように思えた。

 紫月はどういう道を示すのだろう? お願い、叶えてほしいなあ。

 ――しかし。


「…………」


 紫月は男性に何も示さなかった。彼は肩を落としたまま、私たちに背を向けてトボトボと神社から去っていく。


「どうして何も言わないの……?」


 どこか遠い目をして、小さくなった男性の背中を見据える紫月に向かって私は言う。


「……残念だが、彼の妻はもう寿命が近い。自然の流れまでは、変えられない。それに今、彼に道しるべも示しても間に合わないだろう」

「そんな……!」


 仕方のないという紫月の言いぶりに、私はショックを受けてしまう。

 おじいさんが必死に懇願していたというのに。ただ一度だけ、自分の妻と話したいという、純粋な願いだというのに。

 老化による寿命が、人間の頑張りや医学でなんとかなるものではないことは、私だって分かっている。