「……どういうこと?」

ーー僕が聞き返すと、おじさんは言った。


「高校を卒業したら、此処を出るんだ」


「…何で?通えない距離じゃないし、大学は此処から通うよ」

「だめだ」

強く否定されて、僕は思わず声を荒げてしまう。

「…此処から通うって、言ってるだろ!」

おじさんはとても驚いていたけれど、目を伏せてもう一度言った。

「ーーだめだ」


その日、僕らは初めて喧嘩した。







それは、大学の合格発表が行われた、当日のことだった。
美大に無事合格した僕に、おじさんは書類の束を手渡した。
書類には大学周辺の賃貸アパートの情報が書いてあったけれど、渡された直後はその意図がすぐに理解出来なくて、しばらく立ち尽くしてしまった。

「…何これ?」

「大学の近くのアパートだ」

「いや、それは見れば分かるよ。そうじゃなくて…」

質問が、途切れる。
理解した瞬間、頭の中がさっと冷めていくような錯覚に襲われた。
聞きたくなかった。聞かなければ、この話がなかったことになったりしないだろうか。
受け取った書類をテーブルに置いて、しばらく黙り込む。

「この辺りなら大学に近いし、中心街にも行きやすいと思うぞ」

「……」

何も言えない僕に、おじさんは続けた。

「…ずっと、決めてたことなんだ。お前を引き取ったあの日から、家に置くのは高校を卒業するまでだって」

「……」

「お前はずっと、他の子とは違う環境で育ってきた。辛い想いもしただろう。
でも卒業したら、お前は大人の階段を皆と同じスタートで登り始めることができる」

「……どういうこと?」


「ーー高校を卒業したら、此処を出るんだ」





脳裏を離れない、その言葉。
考えたくなくて、そのまま家を出てしまった。

とは言っても、行けるところなんてそう多くなくて。
しばらく悩んだ後、僕はとぼとぼと駅へ向かうことにした。
それから引っ掴んできた財布を覗いてーー祖父母の家へ行く為に、切符を買う。

駅で電車を待ちながら、現実逃避のようにどうでもいいことを考えた。

例えば、新幹線が好きなこと。
すごいスピードで過ぎていく景色と、それと一緒に自分も移動しているのだという不思議な事実が、もう当たり前になっているのにどこか現実味がなくて。
乗る前はいつもわくわくする。

けれど、今日は新幹線を選ばなかったこと。
ガタゴト、長い時間電車に揺られてみようと思ったこと。

自分の足が動いているわけじゃないのに、ゆっくりと目的の場所へ運ばれていく。
それってすごいことだ。
ただ乗り物に乗るだけで、自分の足だけじゃとても辿り着けないところまで、運んでもらえるだなんて。

そんなどうでもいいような、でも大事なことのような。
大きくなるにつれて「当たり前」が邪魔をして霞んでしまう、思考を。


鞄からノートを取り出して、書き留めて行く。
これが何になるかなんて今は分からないけれど。
いつか何かになるかもしれないと思って、ずっと書き続けているそれは、もうすぐ白紙のページを失ってしまう。

最後のページに何を書こう、何を描こう。

喧嘩したおじさんの顔を思い浮かべながら、僕は開いたページに想いを書き、隅の方に電車を待つホームの景色を描いた。



しばらくして、到着した電車に人が吸い込まれていく。
真似をするように、まるで電車を待ち焦がれていたみたいにして僕も乗り込んだ。

扉が閉まって、たくさんの人が運ばれていく。
ガタゴト、左右に景色を割って、線路を行く。

過ぎていく景色を描いてみたいのに、一瞬で移り変わるそれらを完璧には描けない。
開いたノートの真ん中を、ぼうっと鉛筆で叩く。

僕は未来に進んでいる。
描き続けたい過去があっても、それを未来にしたくても。
できないんだ。運ばれるだけの僕には、できない。

ノートを閉じて、僕は大人しく外の風景を眺め続けた。





電車を降りて、今度はバスに揺られる。

祖父母の家に着いたのはすっかり暗くなってからで、そんな時間に突然やってきた僕の姿に、二人はとても驚いた。

「秋樹、どうしたの。昴甫は?」

「…ばあちゃん…」

祖母は、僕の背中を優しく撫でて、迎えてくれた。



ーーそれから、夕飯を食べて落ち着いた頃。
今日あった出来事を、二人に聴いてもらった。

すると、祖父は言った。


「お前が大事で仕方ないんだな」

「……」


なぜそうなるのか分からなくて、僕は静かに首を振る。

「決めてたっていうけど…きっと、僕を追い出したいだけだよ」

「ーー秋樹。言葉の上辺だけを掬い取るな。絶対に、そんなことを言ってはいかん」

「……だって」

「昴甫はお前に、“普通”を与えたがっていた。そして、その愛情の深さはそれを超えるものを与えた」

「…、」

「だからお前は今、立派になって此処にいる…それは分かるな?」

頷くことも首を振ることもできなくて、ただ俯く。

「秋樹は、周りの子にあるものを失い、周りの子にないものを得た。その時点でお前は“特別”なんだ。
だから昴甫は、面倒を見るのは十八までだと決めていた」

「…どうして?」

「高校を卒業すれば、お前の生い立ちを気にする人間はほとんどいなくなる。独り立ちをして、親から離れるということは、大人になるということだ。
お前はそこから始めることが出来る。親元を離れた、一人の大人として」

「…大人…」

「だが、昴甫の側にいてはそれは叶わん。そうしたらまた、お前は世間の“特別”になってしまう」

「……よく…分からないよ。特別とか…」

混乱する僕の手を取って、今度は祖母が話して聞かせた。

「秋樹。あなたがどれだけ愛されてきたのか、測ることなんてできないけれど…感じることはできるでしょう。昴甫はあなたに、並々ならぬ愛情を持って接してきたのだから」

「…うん」

「昴甫は、あなたを理由なく突き放すようなひどい人間かしら。あなたを邪魔に思ったりするような、ひどい親かしら」

「……」

「あなたは賢いから、本当は分かっているでしょう。此処へは、“今”から逃げたくてきたんでしょう」

祖母の優しい声が、心に染みるように落ちていく。


「いくらでもいていいから、整理がついたらきちんと昴甫のところに帰りなさい。きっと今頃、なんて言おうか考えて待ってるわ」





祖父母の家で一日過ごし、僕は翌日おじさんの家に戻った。
緊張しながら靴を脱いで、恐る恐るリビングを覗く。

ーーおじさんは、リビングで金の額縁を見つめていた。


「……ただいま」


どんな声音で言うべきか迷って、何だか少し無愛想な言い方になってしまったけれど。
振り向いたおじさんは、寂しそうに笑った。

「…おかえり」

「…出て行って、ごめんなさい」

「心配したよ…無事で良かった」

怒られないことがどこか罰が悪くて、沈黙に耐えられず、口を開いたらすぐに謝ってしまった。
そんな僕に、ぽつりぽつりと言葉が振ってくる。

「決して、突き放したわけじゃないんだ。お前の為を思って…決めたつもりだった」

「……」

「どんなに言われても、心を鬼にして一人暮らしをさせる気だった。でも、正直…あんなに怒るだなんて思ってなくて、驚いた。喧嘩したってのに、ちょっと嬉しかったよ」

黙って聞きながら、額縁を見つめていたけれど。
何で一人暮らしをさせたかったのか、きちんと答えてもらっていないことがどうしようもなく腹立たしくて。

分かってる、ちゃんと分かってるんだ。自立だとかもう十八だからとか、そんなことは、分かっていても。

「ーーおじさんがどう思ってても、僕はおじさんと一緒にいたかったよ」

「…秋樹」

「大学を卒業しても、そのつもりだったよ。それが世の中では普通じゃなくたって、僕はずっと此処にいたかったよ」

「……」

「だって、終わりたくなかったから」

本の中は何度読み返しても変わらないのに、僕の日常は変わってしまう。
心地良かったこの日々が、終わってしまう。

「だから…」

それ以上言葉が出てこなくて、黙り込む。
すると、おじさんはゆっくりと口を開いた。


「ーー理由もなく生きることは、とても…虚しい。俺はずっと、ただ毎日を生きてた。でも、三歳のお前を引き取ったあの日から…世界が変わったんだ。
毎日毎日お前と過ごす中で…これが、“生きる”ってことかと、思ったんだ」

「……」

「お前がそれを、教えてくれた」


ーー笑ったおじさんの目から、涙が一滴流れた。
絵を渡した、あの時と同じ涙。
美しいそれは、僕の頭にずっと離れず残っていて。


「だから俺は…姉さんの為に、秋樹の為に。きちんと送り出さなきゃいけない。巣立ちの背中を、ちゃんと見届けなくちゃいけないんだよ」

「……」

「俺は、お前の…親だから」


ーーー僕は、小さく頷いた。


「…分かった」

「……」

「分かった…」




おじさんに甘えるわけでも、一生一緒にいたいわけでもなかった。

ただ、早過ぎたんだ。
毎日があっという間に過ぎて行ったから。繰り返していく毎日が、追いつけない速度で過ぎて行ったから。
もう少し、一緒にいたかっただけなんだ。





*     *     *     *     *






別れの日も、あっという間にやってきてしまった。
僕の荷物が運び出された家の中はどこかがらりとしていて、余計切ない想いにさせる。

「じゃぁ、元気でね」

「ああ…」

何と言えばいいか分からずにいると、おじさんは笑った。

「今生の別れじゃないんだから、長期の休みは絶対帰って来いよ」

「うん」

泣き笑いのように歪んだ表情で言って、気丈に振る舞われる。
僕はそんなおじさんに、最後に渡したい物があった。

押入れに隠していたキャンバスを運んで、リビングに置く。


「今日の為に、描いたんだ。もらってくれる?」


何度も何度も色を重ね合わせて、絶妙な色合いで仕上げたその絵はーーー僕にとって、最高傑作だった。

頬に一筋の涙の跡を残した男性が、流れ落ちた美しい滴を両手で受け止める。
天を見上げる瞳は輝きに満ち、唇はその幸せに弧を描いている。

「題名は、ずっと悩んでたんだけど…これにしたんだ」

僕は、この作品のために作った名札を、おじさんに手渡した。
金色のプレートに刻んだ作品の名前を、静かに口にする。





「窈寵のアモル」