***
正面玄関ではすでに二つの陣営が向かい合っていた。
御蔭寮陣営の中心に立つのは更紗さん。彼女を守るように左右背後に控えたオペレーションRの戦闘要員たちは、腕組みをして敵陣営をにらみ据えている。
対する熊野寮陣営は、一段下がった靴脱ぎに居並んでフォーメーションを組んでいた。
更紗さんはにっこり微笑んだ。まるで甘く熟れた毒林檎。香り高い誘惑に満ちた、危険な笑みだ。
「あら、寮長たるわたくしを呼び付けておきながら、そちらは熊野寮長さん直々のお越しではないのね。あなたは確か、渡辺さんだったかしら」
熊野寮陣営の今次の突撃隊長は、見覚えのある男だった。スクエア型のメガネを掛けた、いかにも癖の強そうな風貌。したたかな策略家で、御蔭寮は過去に一度、彼に寄って痛い目にあわされている。
去年、御蔭寮における放送室争奪戦の際、渡辺は寮住まいの幽霊の前で、禁則武器であるトウガラシ爆弾をちらつかせた。幽霊はそれを告発。協議の結果、渡辺は爆弾を使わなかったから罪に問われず、御蔭寮はY2条約違反による失格を言い渡された。
渡辺は芝居がかった仕草で手を胸に当て、浅いお辞儀をしてみせた。
「不満そうな顔をなさるな、御蔭寮長どの。熊野寮長は、自分がまもなくその座に収まる。今の寮長の座を奪ってな」
「クーデターということかしら」
「自分こそが寮長にふさわしいからだ。実力もないのに寮長の座に居座るほうが不自然というもの」
「今の熊野寮長が実力不足だなんて、わたくしは思いませんけれど」
「熊野寮は武断派でね。生ぬるい退屈を是とする今の寮長は、われわれ寮生と反りが合わんのだ」
沖田は焦れたようにわたしの袖《そで》を引いた。
「これは何の茶番なんだ?」
「寮間戦争っていう本気の遊びだよ」
「遊び?」
「本気のね。真正面から対等な条件でぶつかり合って競うの。缶蹴りとか陣取り合戦とか隠れんぼとか、雪が降ったら雪合戦とか、競技はいろいろあるけど」
「何それ」
「だから、寮間戦争。今日はオペレーションRだからレース、つまり競走。ロの字になってる御蔭寮の一階廊下を先に三十週したほうが勝ちの、雑巾がけ競走」
沖田はぽかんと口を開けた。
「雑巾がけ競走?」
「そう」
「そんな遊びが、襲撃?」
「そう。ちなみに、寮間戦争は三つの寮の間でおこなってるんだけど、勝ち星を二つそろえれば、自分が所属するところの寮長に交代を迫ることができるの。今回攻めてきたあいつは、そうやって今の熊野寮長を追い落とそうと考えてるみたい」
大学周辺にはいくつか寮がある。寮間戦争をおこなうのは、御蔭寮と吉田寮と熊野寮の三陣営だ。
三つ巴の寮の間には戦争があるだけでなく、交易もおこなわれている。扱う品目は、各寮の農園や工房で生産したもの。寮は百年来の栄励気の吹き溜まりだから、表から見える姿よりずっと広大だ。最大面積を誇る吉田寮なんか、裏山で狩りができる。
今、熊野寮の突撃部隊は、カゴいっぱいの卵を持参している。もちろん、熊野寮の牧場で採れたものだ。雑巾がけ競走に負けたらこれを置いていく、というわけ。逆に御蔭寮が負けたら、さて何を要求されるやら。
沖田は頬を掻いた。
「道場破りごっこっていうところ?」
「たとえ破られたとしても看板は下ろさないから、他流試合の定期戦かな」
「他流試合か。負けたら道場の名折れだっていう意地も、それなりにあったりするわけだ」
「負けるよりは勝ちたいと思ってるよ。わたしはそう熱心なほうじゃないけど、更紗さんは毎回本気だし」
沖田は力の抜けた笑い方をした。ははっと軽やかな声まで上げた。
「更紗さんって人は、近藤さんみたいだ。首や金を賭けてるわけでもないのに、全力でさ。あんたはおれと似てるかな」
近藤さん。
新撰組局長、近藤勇《こんどう・いさみ》のことだ。
「江戸の試衛館で、そんな出来事があったの?」
「他流試合ならしょっちゅうやっていた。あのころの江戸は剣術道場があちこちにあって、誰もが腕自慢の名乗りを上げていた」
「山南さんも他流試合がきっかけで試衛館に合流したんでしょう?」
沖田はうなずいた。
「おれたちのこと、あんたはよく知っているんだな」
「有名だから。新撰組」
「悪名高いんだろ? 薄汚い狼の群れだって」
「そうでもないよ。正義の味方って認識でもないけど」
沖田は右の手のひらを開いた。なつかしい手紙でも読み返すように、沖田は手のひらへと柔らかな視線を落とす。
その手は、剣客の手だ。皮が厚くて硬くて、ざらざらしている。わたしはそれを知っている。沖田が熱を出している間に、何度か触れてしまった。
「おれたちは、訓練の行き届いた軍団なんかじゃなくてね。近藤さんから教えを受けた天然理心流の使い手は、おれと土方さんと井上さんだけ。ほかはみんなばらばらだった。でも、だからこそ、うまく噛み合っていた」
「江戸にいたころのこと?」
「そうだね。おれたちが新撰組や浪士組っていう名前を持たなかったころ。京都に行くなんて思い描いてもいなかった。日がな一日、木刀を振り回して稽古をして、強くなれることが、ただ楽しかった」
更紗さんと渡辺の間で話が付いたみたいだ。御蔭寮の陣営が数歩下がり、熊野寮勢が靴を脱いで廊下に上がった。
御蔭寮の外観は洋館風だが、中はほとんど日本式で、靴を脱いで玄関を上がる。部屋は基本的に畳敷きだ。たびたび他寮の襲撃を受ける廊下は、雑巾がけレースによって磨き上げられ、つやつやしている。
更紗さんはこちらを向いて手招きした。かたわらには、水を張ったバケツと数枚の雑巾。
「沖田さん、いらっしゃい。走ってくださる?」
両陣営にざわめきが起こった。沖田に視線が集まる。
沖田は軽く手を挙げた。
「はいはい。居候は口答えしないよ。体を動かすのは久しぶりだけど、まあ、そんじょそこらの連中よりは速いんじゃないかな」
わたしは目を剥いた。
「まじでやるの?」
「やるよ、まじで。ちょっとこれ持ってて」
これ、と、まず押し付けられたのは二本の刀だ。次いで、袂《たもと》から取り出した小さな巾着袋。
「ちょ、か、刀って……」
「重いだろう? 死んでも落とすな。誰にも奪われるなよ、浜北さなさん」
名前を呼ばれた。ずん、と心臓が圧迫された。
沖田はわたしにとって契約の主だ。沖田もそれを理解して、使い魔や下僕を扱うように、わたしに刀を持たせている。
「わかったよ」
わたしは刀を抱き締め、巾着袋を懐に突っ込んだ。
更紗さんは再び沖田を呼んだ。熊野寮陣営の第一走者はすでに雑巾を構え、手首や脚のストレッチを始めている。
沖田は、袂から出した襷《たすき》で、くるりと袖をまとめた。わたしに軽く手を振る。笑った沖田の口元にえくぼができることに、わたしは気が付いた。
いつの間にか、天井に長江くんの唇が現れている。
〈両陣営の第一走者が決まったようですね~。スタートラインには雑巾がスタンバイしております。我らが御蔭寮陣営、沖田総司選手が今、ゆっくりとスタートラインに向かっています。さすがの風格。実にリラックスした様子ですね~〉
長江くんによる実況中継で、にわかに両陣営のテンションが高まる。
沖田が位置に就いた。
ざわり。
風のようなものが湧いた。いや、ただの風ではない。まるで熱波だ。沖田の袴がふわりと膨らむ。
「栄励気だ……次元が違う」
膨大な栄励気が、沖田の両脚に集まる。集まり続ける。やせた病身のどこにそんな栄励気をたくわえていたのか。人間がまとえる栄励気のキャパシティを超えている。あんなんじゃ体が壊れてしまう。
驚愕のざわめきが場に広がった。
沖田はそっと笑う。
スターターの長江くんが号令を発した。
〈用意……始め!〉
凝縮した栄励気が、その途端、解き放たれた。
沖田は飛び出した。消えたと錯覚する。それくらいの猛スピードで、沖田は駆けていった。
わたしは思わずつぶやいた。
「人間わざじゃないな」
病をわずらっているくせに、あの身体能力なのか。幕末の京都には沖田レベルの剣客がごろごろしていたというけれど。
あっという間にロの字の廊下を一周してきた沖田が、容赦なく熊野寮の走者を追い掛ける。御蔭寮陣営に歓喜の声が、熊野寮陣営に絶望の声が上がった。
***
だしの香りがふっくらと広がっている。
海の匂いだ。魚の匂い。けれども生臭くはない。
台所に常備された乾物の中でいちばん上等なトビウオの煮干しでだしを取っている。
北部九州ではトビウオのことをアゴと呼ぶらしい。長崎の離島出身の松園くんが今月初め、だし用のアゴを供給してくれた。
松園くんにとって、秋はアゴの季節だそうだ。十月になると、彼の育った漁師町は、アゴを焼く香ばしい匂いでいっぱいになるという。
だしに醤油を落とす。ほんの少しみりんを加えて、味を調える。
「こんなもんかな? 薄い? まあ、濃いよりいいか。薄かったら、塩でも醤油でも、好きに足せばいいもんね」
独り言をぶつぶつやったとき、炊飯器が仕事の完了を告げた。わたしは、途中だった作業に戻る。
卵の白身を泡立てている。かれこれ二十分は格闘しているだろうか。手応えはそろそろ、しゃりしゃり、さくさく、という感じになってきた。
もうちょっと足りない。あと少し、もう少しと、なおもしつこく混ぜ続ける。カチャカチャ、カチャカチャ。慣れていないから、泡立ての音はリズムが悪い。
混ぜて混ぜて混ぜて。さんざんやって、ようやくだ。くたびれた手で泡立て器を持ち上げると、ついに、ツンと真っ白なツノが立った。
別のボウルで掻き混ぜておいた卵の黄身を、泡立てた白身に合わせる。ふわふわをつぶさないよう、ヘラで手早く混ぜる。
突然、声がした。
「ねえ」
「うわっ」
わたしは飛び上がった。
誰もいないと思っていた引き戸のそばに、沖田が立っていた。沖田はわたしの驚きぶりを見て、吐息だけで小さく笑った。
「切石さんに、台所に行くように言われたんだけど。あんたが待っているからって」
沖田はひと風呂浴びてきたようだ。頬や唇の血色がいい。ざっくり結われた髪がまだ湿っている。
わたしは作業に戻った。卵を混ぜる。
「きみもわたしも昼ごはんを逃したからね。今作ってる」
「獣の肉ならいらないよ。どんなに血抜きをしたって臭い。死体の匂いを思い出しちまうんだ」
「わかってるから、食欲の失せることを言わないで。肉じゃないよ。見てのとおり、卵の料理」
沖田は足音も立てず、いつの間にか隣にいた。
「その料理、見たことある」
「卵ふわふわっていう料理。東海道の宿場町、遠州袋井の郷土料理だって」
「ああ、近藤さんが気に入っているやつだ。屯所でも、ちょっと銭が入ったときなんかに卵を買ってきて、料理のできる隊士に作らせてるよ」
「きみの時代だと、卵はけっこう値が張るよね?」
「そうだけど。話す相手を『きみ』と呼ぶのは、長州の連中が使う言葉だ。あいつら、おれたちの敵だよ。きみだのぼくだの、あまり気持ちのいい呼び方じゃあないな」
「慣れて。今の時代では普通の言葉なの。巡野は自分自身を指して、ぼくと呼ぶでしょ」
「初めはとっさに身構えたよ。巡野さんに悪気がないのはすぐにわかったけどさ。巡野さんも弁解してくれたし」
わたしは話半分に、卵ふわふわの仕上げに入った。
だしを沸騰させ、卵を加える。鍋に蓋をして、火を弱める。卵に熱が通るまで、しばし待つ。その間に白米を茶碗によそい、漬物を出す。
鍋の蓋を取った。
ほわりと、白い湯気が立ち上る。湯気の下に、淡く優しい黄色がのぞいた。滑らかに蒸し上がった、卵ふわふわの完成だ。
鍋をのぞき込む沖田に、わたしはおたまと鍋敷きを押し付けた。
「食堂に運ぶよ。これなら食べられるでしょ?」
「え……まあ、うん」
「こっち。付いて来て」
「はいはい」
食堂の隅のテーブルに、卵ふわふわの鍋をセットした。沖田を座らせておいて、わたしは食事の支度を整える。白米、漬物、箸と、取り分け用のお椀。
わたしは卵ふわふわをお椀によそうと、沖田の前に置いた。
「どうぞ召し上がれ。苦情は受け付けない。絶対食べて。あれだけ栄励気を放出したんだから、無理やりにでも食べないとぶっ倒れる」
はいはい、と沖田の口が小さく動いた。その手が箸を取る。
湯気が沖田の鼻先をくすぐっている。壊さないよう箸で器用に持ち上げた卵は、ふわふわ、ふるふると柔らかく揺れた。
沖田は湯気とたわむれるように何度か息を吹きかけ、それから、卵を口に運んだ。わたしから目をそらしたまま、ほう、と温かそうな息をつく。
「うまい」
ごく小さな声で、沖田は言った。
わたしは聞こえなかったふりをした。自分のぶんの卵ふわふわをよそい、手を合わせて食べ始める。
あつあつの卵は、口の中でほろりと溶けた。だしの味が、じゅんと染み出す。舌ざわりも味わいも優しい。
「よし。苦労した甲斐があった」
卵の白身を泡立て続けた右腕はぷるぷるしている。箸が震えるのをごまかして、わたしは卵ふわふわも白米も、がっつくように掻き込んだ。
沖田も素直に食べた。伸びた背筋も箸の使い方も案外、行儀がいい。そのくせ案外、食べるのが速い。
会話はなかった。目も合わせなかった。鍋が空っぽになるまで、わたしと沖田で、ただ食べた。
食べ終わって、もう一杯お茶を淹れた。ちょっと目を離した隙に、沖田は食堂からいなくなっていた。
「片付けくらい手伝えっての」
わたしは一人、ぼやくふりをした。ただのポーズだ。テーブルの上の空っぽの鍋に、口元が緩むのを止められなかった。
沖田がようやく食事を取ってくれた。それだけのことが嬉しかった。
帳幕の入口に垂らした布を、そっと持ち上げた。
「……何の用?」
わたしが起こすまでもなく、沖田はかすれ声でささやいた。まぶたは閉じられたままだ。
「入るよ」
「どうぞ」
わたしは沖田の布団のそばへと、膝で進んだ。布をもとに戻す。寮内のあちこちから聞こえてくる生活じみた音が、ふっと遮断された。
「熱、まだ続いてる?」
「さあね」
「息苦しそうだね。食欲は?」
「あるわけないだろう」
「飴湯、持ってきたけど、飲める?」
「ああ」
ようやく沖田はまぶたを開いた。案外、まつげが長い。熱っぽい目にまつげの影が揺れる。
沖田はゆっくりと起き上がった。わたしから湯飲みを受け取ると、浅い息を何度も湯気に吹きかけた。
「猫舌なんだね」
「江戸っ子のくせに粋じゃないって?」
「別にそんなこと思ってない。眠れてる?」
「一応ね」
御蔭寮は大小さまざまな部屋を増殖させている。沖田が居候しているのは、切石と巡野の部屋だ。広くて古い部屋で、壁の木目がとても美しい。
わたしはこの隣にある三帖間を使っている。まだ若い部屋だ。このところようやく天井が高くなり、普通に立って歩けるようになった。
沖田はここへ来た当初、相部屋を嫌がった。他人が立てる音や気配があると眠れないらしい。
わがままだ、と一蹴することはできなかった。眠りが遠いのは苦しいことだ。
剣客の研ぎ澄まされた感覚ほどではないにせよ、わたしも音や気配にぴりぴりするたちだ。自分ひとりの静かな環境でないと、寝付けない。相手が家族でさえ、神経に障ってしまってダメだ。
沖田の寝床を覆っている紗の帳幕は、結界の一種で、音と気配を遮断する。広さは畳二帖ぶんほど。わたしが日常的に使っているものを、今は沖田に貸している。
入寮してすぐのころ、不眠で悩むわたしに、当時は相部屋だった更紗さんが結界の作り方を教えてくれた。栄励気を操る、という感覚を初めて知った出来事だった。
沖田は、ごくりと喉を鳴らして飴湯を飲んだ。とがった喉仏が上下した。
「あんたが持ってくるものは喉を通るんだな」
「どういう意味?」
「寮の連中に勧められた菓子は食えなかったんだ。口に入れた途端、体が拒んで吐いちまった」
「そのへんの店で買ったお菓子でしょ。人工エレキで自動化された工場で加工されてるんだよ。そんな食べ物、きみみたいに天然の栄励気が豊富な人間は、百発百中でエレルギー反応を起こしちゃうって」
「天然じゃない栄励気があるのかい」
「あるんだよ、今の時代は。むしろ、エレキって言ったら、人工的に作ってるものを指す。天然の栄励気で技だの術だの使えるような人間はめったにいない」
沖田は飴湯をもう一口飲んで、まじまじとわたしを見た。
「あんたは本当にこの時代の人間なのか?」
「そうだよ」
「こんなものを作れるのに?」
沖田は上を指差した。紗の帳幕のことだ。
「生まれる時代を間違ったって、自分でも思うよ。きみ、こっちに来てから、本当に具合悪いでしょう? もともとわずらってる病のせいだけじゃないよ。この時代の空気が悪すぎるの」
何か言おうと口を開いた沖田が、咳をした。乾いた咳は、たちまち痰が絡んで、重たく引きずるようなものへと変わる。
わたしは沖田の手から湯飲みを奪った。沖田は両手で口元を覆い、背中を丸めて咳き込み続ける。
「大丈夫?」
とっさに、わたしは沖田の背中をさすろうとした。
ぱしん!
音と衝撃があって、それから、痛みが来た。沖田がわたしの手を振り払ったのだ。
沖田は横目でわたしを見やった。涙が目尻にたまっている。咳の合間に何かをささやいた。
「違う。ごめん」
そう聞こえた。
わたしは湯飲みを沖田の枕元に置いた。飴湯はまだ半分ほど残っている。わたしは言い訳をするようにつぶやいた。
「背中をさわられるのが嫌なのも、わかるよ。わたし以上に、きみは敏感なんだろうし」
沖田はうなずいた。浅い息。まだ咳は収まらない。犬でも追い払うように、沖田は手のひらを下に向けてひらひら振った。
わたしは居座った。
「うつらないから。今の時代、きみがわずらってる労咳《ろうがい》という病には、治療するための薬がある。病にかからないための薬もね。だから、隣できみがどれだけ咳をしても、わたしが労咳で死ぬことはない」
労咳という病は、現代では肺結核と呼ばれている。肺結核を予防するワクチンは、わたしもご多分に漏れず、赤ちゃんのころにきちんと接種した。
もしも、と考えてしまうのは、きっとわたしだけではない。
もしも沖田が現代医学の力によって肺結核を克服したら、どうなる?
できないことではないと思う。体質上、エレルギーに引っ掛かるタイプの薬もあるだろう。わたしも経口薬の一部は飲めない。それでも、沖田の体質を丁寧に調べていけば、治療の糸口はつかめるはずだ。
だが、もしもそれを選んだ場合、沖田はきっと、あまりにも強くこの時代と紐付けられてしまう。もとの時代に戻ることができなくなるだろう。
しかし。
吐息のような声が、わたしの頬を打った。
「ねえ」
わたしは沖田のほうを向いた。咳が落ち着いたようだ。
「何?」
沖田は体をひねって、枕元に手を伸ばした。刀が二振りと、小さな巾着袋が置かれていた。沖田は巾着袋を拾い上げた。それをそのままわたしに差し出す。
「持ってて」
「わたしが? これ何?」
「金平糖」
「きみの時代の?」
沖田はうなずいた。
「食うか捨てるか、そのうちちゃんと選ぶから。それまで持ってて」
「わかった」
手のひらに載せた巾着袋の中で、星の形をした甘い粒々が、しゃらしゃらと、かすかな音を立てた。
幕末から持ってきた金平糖は、沖田の帰路を示す道しるべだ。
食べることを選べば、沖田の体と魂はもとの時代へ戻るのだろう。この時代に来たとき、わたしが与えた金平糖を食べて、沖田は実体化することができた。帰り道はその逆だ。
もしも金平糖を捨てるならば、どうなるだろうか。沖田総司という剣客の生涯は、一体どうなる? もとの時代から唐突に消え、言い伝えられたとおりの最期を迎えないというならば。
わたしは沖田の顔をのぞき込んだ。沖田はわたしと目を合わせようとしなかった。湯飲みをつかんで、ぬるくなった飴湯を飲み干した。
「ごちそうさん」
沖田は歌うように告げると、横になって布団をかぶった。
わたしは巾着袋を袂《たもと》にしまい込んだ。
「おやすみ。夕食のころに様子見に来るから」
「粥なんかいらない。甘いものだったら少し食うよ」
わがままな病人は、そっぽを向いて目を閉じている。まっすぐなまつげは、やっぱりずいぶん長かった。
***
寮を出るときから、巡野は機嫌がよかった。金曜のお昼はいつもだ。
十三時に間に合うように、北白川にある集賢閣《しゅうけんかく》に向かっている。集賢閣は大学の附属施設だ。大正年間に建てられた洋館で、建物のほぼ全体が書庫として機能している。
疎水沿いの桜並木の下を、わたしと巡野は並んで歩いた。
「わたしが先生の部屋で手伝いをしてる間、きみは何してるの?」
「何って、書庫をうろうろしているだけです。気になる本があれば読んでみたり」
「集賢閣の本は持ち出し禁止だから、読書には不自由でしょ。途中でやめなきゃいけない」
「全部読めなくったっていいんです。僕は生きた研究者ではありません。気が向いたときに気が向いたものを読むだけの、根拠薄弱な幽霊に過ぎないんですよ」
巡野はさらさらした髪を掻き上げた。生意気そうな流し目は、ばしばしに長いまつげに縁どられている。
鼻歌でも歌いそうなご機嫌な横顔は、不自然に白い。紅葉した桜並木の下を歩いても、巡野には影が落ちないのだ。木漏れ日は巡野の体を素通りして、地面の上で揺れている。巡野自身の影もない。
巡野は誰にでも見えるし、食事もする。その気になれば姿を消したり壁を通り抜けたりできるが、めったにやらない。生身の人間であるかのように振る舞いたがる。そのくせ、幽霊であることを隠すわけでもない。変なやつだ。
対面から自転車がやって来た。リンリン、とベルを鳴らして漕いでくる。近所の主婦だろうか。北白川の疎水沿いには、古くからの大きな家が多い。大学のそばではあっても、学生向けのマンションはほぼない。
左右に分かれて道を譲ろうとしたら、巡野に腕を引かれた。分厚い綿入れ越しにも、巡野の手の冷えた感触が伝わってきた。
すれ違いざま、自転車の女性が、じーっと巡野の顔を見ていった。目が釘付けにされたのかもしれない。巡野は確かにきれいな顔をしているが、あまりに人目を惹きすぎるところはちょっと呪いじみている。
「腕、離して」
「なぜです?」
「逆に訊くけど、なぜつかんだままなの?」
「肉の感触が心地よいので」
「この野郎!」
わたしは黙ってトートバッグで巡野をぶん殴った。ぼすっと手応え。巡野は声を立てずに笑っている。
巡野はしつこくわたしの腕をつかんだまま歩き出した。
「さなはもっと肉が付いてもいいくらいですよ。初めて会ったときに比べれば、ずいぶんマシになりましたが」
「マシって」
「僕は、女性は肉感的なくらいのほうが好きですから」
「きみの好みはどうでもいい。ねえ、腕、冷たい」
わたしの苦情を、巡野はにこやかに無視した。
巡野と初めて会ったのは、わたしが新入生だったころだ。京都に引っ越してきて三日目。大学附属の総合博物館に行ってみたら、そこに巡野がいた。
その日の巡野は、今ここで爽やかに笑う巡野とはまるで違う顔をしていた。怨霊になる一歩手前だった。ほとんど地縛霊と化していた。
――回れない、出られない、動けない、死ねない、生きていない、回れない。
地を這うような声で、そう繰り返していた。壁に向かって歩いていこうとする格好で、けれども、全身にどれだけ力を込めても前に進めない様子で、呪詛の言葉を吐いていた。
――回れない、出られない、動けない、死ねない、生きていない、回れない。
ほかの誰も巡野の姿が見えていないようだった。ずっと誰にも気付かれずに、巡野は一人でそこにいたのだろう。
いつからなのか。たぶん、古い陳列館が半分削られて、新しい博物館が建ったときからだ。
わたしは恐る恐る、巡野に声を掛けた。そうしないといけない気がした。
「きみは死者でしょう? なぜここにいるの?」
巡野はわたしを見た。
地縛霊の巡野がどんな顔立ちだったか、どんな表情をしていたのか。わたしははっきりとは覚えていない。おぞましい目をしていたことは確かだ。今の巡野からは想像もつかないほど、真っ暗な目だった。
とっさに後ずさるわたしに、巡野は手を伸ばした。がたがた震えるその手は、人間らしい肉や皮をまとっていなかった。
――水でも飴でも何でもよい、我に与えよ。
――貴様の声で我が名を呼べ。
巡野の思念が耳かどこかから流れ込んできた瞬間、全身に鳥肌が立った。皮膚の内側に虫が這い回るような感覚だった。
関わってはいけない、と常識がわたしに警告した。でも、もう関わってしまっているじゃないか。
救ってやらなければならない、と本能がわたしを突き動かした。救いたいから関わったんだろう?
そのとき持っていたのも金平糖だった。
老舗の金平糖屋が大学のすぐそばにある。じっくり三ヶ月かけて結晶化させる作り方は、幕末のころから少しも変わっていないらしい。
わたしは金平糖を一粒つまんで、巡野に差し出した。
「あげる。食べて」
亡者の冷たい手と触れ合った。巡野はがたがた震えながら金平糖を口に運んだ。
次の瞬間、ふっと、わたしの体が軽くなった。
巡野もそうだったらしい。床にめり込んでいた足が解放されて、巡野はたたらを踏んだ。袴《はかま》を穿いていた。足元は下駄ではなく、革靴だった。
そこらじゅうに立ち込めていた黒い靄《もや》が、ぱっと晴れた。
初めて、巡野の顔がはっきりとわかった。
巡野がこちらを見ていた。スタンドカラーシャツと、暗色の単衣《ひとえ》。さらさらした、少し長めの髪。繊細そうな美貌。まばたきをすると、まつげがはためくようだった。
周囲のざわめきが耳に届いた。ちょうど観光客の集団が近くにいたのだ。古風なファッションのイケメンがいるわよ、何かの撮影かしらと、おばちゃんたちが騒ぎ出していた。
巡野はわたしの腕をつかんで、ぐいと引き寄せた。巡野の手のひらも、生きた人間だったらわたしに触れたはずの吐息も、ひどく冷たかった。
――名前を呼んでください。ぼくは、巡野学志。
契約の序列で言えば、わたしが主で巡野が従だった。でも、わたしは何が何だかわからず、声なき声で訴える巡野に逆らえないように感じて、その指示に従った。
「巡野、学志」
名前を呼んだ。巡野は微笑んだ。
「ありがとう」
巡野は初めて声を発した。ちゃんと人間の耳に届く声だった。
そうやってわたしは巡野と契約を結んだのだ。巡野は、生意気な態度を取りはするが、わたしの従者だ。
御蔭寮に帰る道すがら、巡野はわたしに、それまでのことを話した。わたしと同じ文学部だったこと。戦時中に自殺したこと。気付いたら幽霊になって陳列館にいたこと。陳列館の廊下を歩き続けていたこと。
陳列館というのは、当時の文学部史学科附属の博物館のことだ。今も半分は残っている。もともとロの字型で、ぐるりと巡れる構造だった。新しい博物館が建つこととなり、敷地の関係で、陳列館は半分が取り壊されてL字型になった。
巡野は指先でぐるぐると四角形を描きながら、遠くを見てつぶやいた。
「延々と歩き続けられるあの洋館が自分の居場所だと信じていたのですよ。ところが、それがなくなってしまった。ぼくはそれを理解できず、未練がこじれて、呪詛を吐く地縛霊になっていたようです。自分でもどうすればいいかわかりませんでした」
繊細で寂しげな美男子に見えた。家族も友人も、きっと皆、他界している。孤独な彼を一人にしてはおけないと思った。世話をするのはわたしの仕事だ、と。
実際のところ、巡野はタフだった。図太かった。寂しげな顔なんて、あれ以来、一度もお目に掛かっていない。いつでも自信ありげな笑みを浮かべている。
巡野の和装を見たのもあれっきりだ。御蔭寮に引き取ってからは、襟付きシャツにスラックスという洋装ばかり。
図太いのは性格だけでなく、体質もだ。巡野はわたしよりずっと肌が強く、胃腸も強く、人工エレキに中毒を起こした試しがない。
それどころか、巡野はエレキ製品も平然と使いこなす。わたしはやけどしたり、めまいを起こしたりと、めちゃくちゃ苦手なのに。
まあ、ちょっと昔から、幽霊はエレキ製品と相性がいいということは言われていたけれど。テレビの画面や呪いのビデオから登場する幽霊だってざらだ。
そういうわけだから、巡野はわたしのチームにおける機械担当だ。わたしの名義で契約したスマホは、いつも巡野が持っている。
疎水沿いの道を行きながら、わたしの腕を引っ張りながら、巡野はスマホを取り出した。カメラを頭上に向けて、パシャッ。
「何を撮ったの?」
「さなには見えませんでした?」
巡野はわたしにスマホのディスプレイを向けた。
紅葉した桜の向こうに、淡い色の青空が広がっている。そこに一筋走るのは、飛行機雲のふりをした、白いふわふわの龍だった。
***
四回生に上がって最初の講義の後だった。弦岡正《つるおか・ただし》先生に声を掛けられた。
「浜北さんは、大学院進学希望だそうですね」
講義といっても、受講者はわたしを含めて三人だけ。三回生のころから引き続いての内容だ。
わたしはうなずいた。緊張して、一瞬で喉が干上がった。
「進学します」
「今、時間よろしいですか?」
わたしは懐中時計を見た。ぴったり正午。金曜日の午後は講義を入れていない。その代わりにバイトをすることが多いが、その日は何も予定がなかった。
「はい。大丈夫です」
弦岡先生は、ほんの少し微笑んだ。不器用そうな笑みだった。
ふわふわした巻毛、大きな目、かっちり着こなしたスーツ。常に締めているネクタイは、今日は琥珀色。
弦岡先生は、歴史系の先生には珍しいタイプだ。こぎれいで几帳面。童顔だし肌がきれいだから、実際の年齢より若く見える。
ほかの受講生たちが講義室を出ていった。あの二人は次週の講義にも出席するだろうか。去年の講義は結局、わたしが一人で受ける回のほうが多かったと思う。
弦岡先生は教卓のところにいて、わたしは席に着いたままだった。二人で話すという距離ではない。でも、弦岡先生はそのまま話した。
「大学院での所属も、国史研究室の予定ですか?」
「はい」
「それなのに、私の講義を今年度も受けてくれるのですか」
「……ご迷惑でしょうか?」
弦岡先生は文学部ではなく、集賢閣所属の准教授だ。集賢閣には、東アジアから中央アジアにかけての資料を所蔵されている。わたしが所属する文学部の国史研究室とは、直接の絡みはない。
わたしの問いに、弦岡先生はかすかに小首をかしげた。
「決して迷惑ではありませんよ。しかし、出席していただいても、システム上、単位は出せませんよ。浜北さんは去年もこの講義を受講しましたからね」
「わかっています。それでも講義を受けたいので。去年の講義の続きになる内容でしょう? 気になるんです」
中央アジアの沙漠の地下には大都市の遺跡がある。弦岡先生の講義シリーズは、その遺跡から出た文書を読み解いていくものだ。
出土したのは、紙の文書ばかりではなかったという。石碑があり、竹簡もあり、少数ながら羊皮紙もあった。使用された文字は多種多様。おぼろげに推測されるのは、沙漠の大都市が唐代からモンゴル帝国時代にかけて交易で栄えていた、という事実だ。
弦岡先生は口を開け、口を閉じた。つばを飲み込んだらしく、喉仏が動くのが見えた。
たぶん、弦岡先生はしゃべるのが苦手だ。
講義のときは、よどみない解説をする。文書の漢文を訓読すれば、詠うように気持ちのいい名調子になる。でも、会話はきっと苦手なのだ。
小さく息をついて、弦岡先生はようやく言った。
「もし、よろしければ、手伝っていただけませんか? 石碑の文字起こしを、しなければならないのです。私ひとりでは、どうにもモチベーションが上がらず……手伝ってほしいのです。週に一度、二時間ほど」
わたしは面食らった。
「石碑って、あの、漢文とソグド語と突厥《とっけつ》語と、みたいに入り交じっている、あれのことですよね?」
「時代によっては古ウイグル語やモンゴル語、ペルシア語も交じります」
「え、あの、でも、わたし、日本の古文書の崩し字はともかく、古い外国語、全然わかりませんけど」
「中央アジア史の研究者でも、すべての言語が理解できている人はいません。石碑が建てられたバックグラウンドを理解している、向学心のある人材であれば、学生さんでもよいのです。手伝っていただけませんか?」
一生懸命に話をしてくれているのが伝わってきた。わたしは戸惑ったが、断ることはできなかった。
弦岡先生のプライベートなことは、ほとんど何も知らない。かなり栄励気の豊富な人だというのは、一回生のころ、リレー講義で教卓に立つ弦岡先生を初めて遠目に見たときから直感していた。
実際、弦岡先生はかなりの使い手だった。見えてしまうのだという。人の未来の不運が。
だからあのとき、四回生に上がったばかりの未熟な学生に、研究の手伝いをしてくれなどと声を掛けたのだと思う。わたしの行く末の暗雲を、弦岡先生は、誰よりも早く察知していたのだ。