終バスも行ってしまった真夜中の東大路通を、白い息を吐きながら歩く。車道の信号機は点滅し、歩道のそれはもう眠りに就いている。
わたしが収穫祭の片付けに駆り出されている間、沖田は上手に逃げ出して風呂に入ったらしい。シャンプーの匂いがする黒髪を結いもせず、背中に流している。
今は手首をつかまれてはいない。でも、相変わらずわたしより半歩先を、沖田は行きたがる。
少し癖のある黒髪が揺れるのを見るともなしに見ていたら、知恩寺の門前で沖田が振り向いた。
「ずっとおれのほうばかり見て、どうかした?」
「別に何でもないけど。髪、まとめてなくていいの?」
「色っぽいだろう?」
「バカ」
「下ろしてるほうが温かいんだよ」
「きみたちの習慣からすると、それって行儀悪いんじゃない?」
沖田は笑った。
「手厳しいね。山南さんみたいなことを言うんだな。おれはもう、とんと月代《さかやき》も剃っていないし、いつだっていい加減だよ」
百万遍の交差点を渡り、今出川通を西へ向かう。
車通りはまばらだ。居酒屋の前に自転車が密集している。どこかの学生マンションからにぎやかな声が降ってくる。
ほどなくして、行く手に橋が見えてきた。賀茂大橋。鴨川の起点に架かる橋だ。
橋のあたりで賀茂川と高野川が合流し、鴨川と名を変える。河川敷は、数キロメートルに及んで公園として整備されている。昼間であれば、ジョギングに散歩、楽器や演劇の練習と、人々が思い思いの時間を過ごす場所だ。
賀茂大橋の真ん中で足を止めた。沖田はぐるりと三百六十度、景色を見渡して、わたしに尋ねた。
「北はどっち?」
わたしは三角州のあるほうを指差した。
「あっち。北から流れてきた二本の川がここで一本になって、南へ流れていく」
沖田は北の方角へ目を凝らした。京都の町は盆地だ。黒々とした山並みが、平たい街並みの向こうに立ちはだかっている。
「ああ、見えた。あの山の形は……あれが比叡山《ひえいざん》だね」
「うん」
「それじゃあ、壬生はあっちだ」
沖田はくるりと、比叡山の正反対の方角を指した。
「だいたい合ってると思う。もうちょっと西寄りかもしれないけど」
「だいたいでいいんだよ」
笑うと、沖田は橋の欄干に軽く背をもたれ、南の空を仰いだ。
比叡山の吹き降ろしが、川面を波立たせて過ぎていく。
わたしはマフラーにあごをうずめた。しゃべる言葉がもごもごになる。
「今夜は晴れてるね」
「ああ。でも、星の光が弱い。月はもう沈んだのに。見える星の数が少ないよね」
「きみが知っているころに比べて、今の時代は空気が淀んでるから。町の明かりが強いせいもあるだろうし」
京都タワーが遠くに望める。まるで灯台のようなあの姿に初めて気付いたときは、案外遠くまで見晴らしが利くものだと驚いた。
少し沈黙があった。いくぶん重い沈黙だった。星を仰ぐ沖田の横顔が、外灯の白い明かりに照らされている。
やがて、沖田は壬生のほうへ視線を向けて、言った。
「居場所がないっていうのはどんな気持ちなんだろうって、ずっとわからなかったんだ。いや、居場所がないと思っていたんだろうなって、つい最近、やっとわかってきたところだった」
「誰の話?」
沖田は息を吸って、吐いた。白く漂った吐息が消えて、それから、沖田は答えた。
「山南さん」
「新撰組副長だった山南敬助。わたしときみがあのとき墓参りをしていた相手だね」
「うん。あの日、本願寺の庭の木に薄紅色の花が咲いていてね。ああそうだ、これを山南さんのところに持っていこうかなって思ったんだ」
この時期に木に咲く花なら、サザンカか、ツバキか。あのときはバタバタしていたから、よく覚えていない。沖田が一輪だけ何かの花を持っていた、それは確かだったが。
「墓参りはよく行くの?」
「いや、あんまり。だって、そこに行ったって山南さんと話せるわけでもない。墓石に山南さんの名前が刻んであるだけだ」
「そっか。そうだよね」
沖田はゆっくりとまばたきをした。
「山南さんが元気ないなって、おれも察してはいたんだ。怪我で前線に出られなくなった。伊東さんが入隊して、山南さんの代わりに参謀役をやるようになった。山南さんが担う役割は確かに減った。だけど、誰も山南さんを追い払おうなんて考えちゃいなかった」
「でも、山南さんは、居場所がなくなったと感じていた?」
「そう感じたんじゃないかな。今なら少し、そうだったんじゃないかなって想像できるよ。居場所がなかったら苦しいってことも、浜北さん、あんたが教えてくれた」
「わたしなんかのちっぽけな悩みじゃ、山南さんの苦しみとは並べることもできないよ。あんなに命を懸けて思い詰めるようなところまでは、わたしは全然」
沖田はようやく、わたしのほうに向き直った。淡く苦い笑みを形作って、唇が震えた。
「全部知ってるんだね」
「……ごめん」
「いいよ。責めてるわけじゃないから。この話は、おれも近藤さんも土方さんも、屯所の家主たちも、誰も口にしない。だって、つらすぎるだろう?」
「そうだね」
「永倉さんは、五十年くらい経ったら話せるようになるかなって言っていた。そのくらい時間が必要だよなって。みんなにそんな思いをさせてるのは、おれのせいでもある」
「あのね……話さなくてもいいんだよ」
沖田はかぶりを振った。
「話させてよ。おれの話を聞いて、おれの胸に巣食ってる思いが何なのか、名前を付けてよ。そうしたら、きっとおれは、おれの居場所に帰れるんだ」
来るべき時が来たんだなと、わたしは思った。
「わかった」
沖田総司には居場所がある。役割がある。待っている人がいる。定められた運命がある。
沖田総司は、帰らなければならない。
わたしが収穫祭の片付けに駆り出されている間、沖田は上手に逃げ出して風呂に入ったらしい。シャンプーの匂いがする黒髪を結いもせず、背中に流している。
今は手首をつかまれてはいない。でも、相変わらずわたしより半歩先を、沖田は行きたがる。
少し癖のある黒髪が揺れるのを見るともなしに見ていたら、知恩寺の門前で沖田が振り向いた。
「ずっとおれのほうばかり見て、どうかした?」
「別に何でもないけど。髪、まとめてなくていいの?」
「色っぽいだろう?」
「バカ」
「下ろしてるほうが温かいんだよ」
「きみたちの習慣からすると、それって行儀悪いんじゃない?」
沖田は笑った。
「手厳しいね。山南さんみたいなことを言うんだな。おれはもう、とんと月代《さかやき》も剃っていないし、いつだっていい加減だよ」
百万遍の交差点を渡り、今出川通を西へ向かう。
車通りはまばらだ。居酒屋の前に自転車が密集している。どこかの学生マンションからにぎやかな声が降ってくる。
ほどなくして、行く手に橋が見えてきた。賀茂大橋。鴨川の起点に架かる橋だ。
橋のあたりで賀茂川と高野川が合流し、鴨川と名を変える。河川敷は、数キロメートルに及んで公園として整備されている。昼間であれば、ジョギングに散歩、楽器や演劇の練習と、人々が思い思いの時間を過ごす場所だ。
賀茂大橋の真ん中で足を止めた。沖田はぐるりと三百六十度、景色を見渡して、わたしに尋ねた。
「北はどっち?」
わたしは三角州のあるほうを指差した。
「あっち。北から流れてきた二本の川がここで一本になって、南へ流れていく」
沖田は北の方角へ目を凝らした。京都の町は盆地だ。黒々とした山並みが、平たい街並みの向こうに立ちはだかっている。
「ああ、見えた。あの山の形は……あれが比叡山《ひえいざん》だね」
「うん」
「それじゃあ、壬生はあっちだ」
沖田はくるりと、比叡山の正反対の方角を指した。
「だいたい合ってると思う。もうちょっと西寄りかもしれないけど」
「だいたいでいいんだよ」
笑うと、沖田は橋の欄干に軽く背をもたれ、南の空を仰いだ。
比叡山の吹き降ろしが、川面を波立たせて過ぎていく。
わたしはマフラーにあごをうずめた。しゃべる言葉がもごもごになる。
「今夜は晴れてるね」
「ああ。でも、星の光が弱い。月はもう沈んだのに。見える星の数が少ないよね」
「きみが知っているころに比べて、今の時代は空気が淀んでるから。町の明かりが強いせいもあるだろうし」
京都タワーが遠くに望める。まるで灯台のようなあの姿に初めて気付いたときは、案外遠くまで見晴らしが利くものだと驚いた。
少し沈黙があった。いくぶん重い沈黙だった。星を仰ぐ沖田の横顔が、外灯の白い明かりに照らされている。
やがて、沖田は壬生のほうへ視線を向けて、言った。
「居場所がないっていうのはどんな気持ちなんだろうって、ずっとわからなかったんだ。いや、居場所がないと思っていたんだろうなって、つい最近、やっとわかってきたところだった」
「誰の話?」
沖田は息を吸って、吐いた。白く漂った吐息が消えて、それから、沖田は答えた。
「山南さん」
「新撰組副長だった山南敬助。わたしときみがあのとき墓参りをしていた相手だね」
「うん。あの日、本願寺の庭の木に薄紅色の花が咲いていてね。ああそうだ、これを山南さんのところに持っていこうかなって思ったんだ」
この時期に木に咲く花なら、サザンカか、ツバキか。あのときはバタバタしていたから、よく覚えていない。沖田が一輪だけ何かの花を持っていた、それは確かだったが。
「墓参りはよく行くの?」
「いや、あんまり。だって、そこに行ったって山南さんと話せるわけでもない。墓石に山南さんの名前が刻んであるだけだ」
「そっか。そうだよね」
沖田はゆっくりとまばたきをした。
「山南さんが元気ないなって、おれも察してはいたんだ。怪我で前線に出られなくなった。伊東さんが入隊して、山南さんの代わりに参謀役をやるようになった。山南さんが担う役割は確かに減った。だけど、誰も山南さんを追い払おうなんて考えちゃいなかった」
「でも、山南さんは、居場所がなくなったと感じていた?」
「そう感じたんじゃないかな。今なら少し、そうだったんじゃないかなって想像できるよ。居場所がなかったら苦しいってことも、浜北さん、あんたが教えてくれた」
「わたしなんかのちっぽけな悩みじゃ、山南さんの苦しみとは並べることもできないよ。あんなに命を懸けて思い詰めるようなところまでは、わたしは全然」
沖田はようやく、わたしのほうに向き直った。淡く苦い笑みを形作って、唇が震えた。
「全部知ってるんだね」
「……ごめん」
「いいよ。責めてるわけじゃないから。この話は、おれも近藤さんも土方さんも、屯所の家主たちも、誰も口にしない。だって、つらすぎるだろう?」
「そうだね」
「永倉さんは、五十年くらい経ったら話せるようになるかなって言っていた。そのくらい時間が必要だよなって。みんなにそんな思いをさせてるのは、おれのせいでもある」
「あのね……話さなくてもいいんだよ」
沖田はかぶりを振った。
「話させてよ。おれの話を聞いて、おれの胸に巣食ってる思いが何なのか、名前を付けてよ。そうしたら、きっとおれは、おれの居場所に帰れるんだ」
来るべき時が来たんだなと、わたしは思った。
「わかった」
沖田総司には居場所がある。役割がある。待っている人がいる。定められた運命がある。
沖田総司は、帰らなければならない。