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 時計台に張り付く人々がいた。茶色いレンガの壁面にハシゴを掛け、続々とよじ登っていく。

「あれは何をやっているんだ?」
 沖田はぽかんとして彼らを見上げた。わたしは肩をすくめた。
「熊野寮の連中だよ。時計台の上から拡声器で主張を叫ぶのが恒例行事になってるって聞いた」

「ああ、雑巾がけのときの。いちばん上にいるのは、あのとき渡辺って呼ばれてた人だね。でも、あんなところで叫ぶのって意味あるの?」
「さあ? 暴力という手段を使わずに世直しを訴えるには、ああやって目立つことをするのがいいらしいよ。彼らが言うにはね」

 以前、あんなふうに時計台を非暴力占拠する人々をじっくり見物したことがある。高いところに立って拡声器で叫ぶ姿は確かに学生たちを惹き付けたが、肝心の世直し主張はひどく音割れして、まったく聞き取れなかった。

 沖田は腰の刀に触れた。
「頭のいい人たちが言うことは、いつの時代も同じなのかもしれないな。おれには、語るための言葉がない。刀を抜く以外の方法は知らない。間違ってるとしても、この頭は今さらよくなりやしないしな」

 わたしは思わず、一つの名前をつぶやいた。
「伊東甲子太郎《いとう・かしたろう》」

 沖田は振り向いた。貼り付けたような笑みだった。
「そうそう。伊東さんも言葉で訴える人だ。あの人が新撰組に加わったのは、山南さんが死ぬちょっと前だったな。山南さんも伊東さんも、二人とも学者先生みたいに頭がいいから、一緒に難しいことをしゃべりながら茶を飲んだりしてたよ」

「新撰組では、伊東甲子太郎、異端なんじゃない?」
「異端って何のことだろうね。新撰組は大きくなった。いろんな人がいるよ。あんたも伊東さんのことが嫌い?」

「きみは?」
「どうでもいい、だな。おれが好きなのは自分の刀と、近藤さん、土方さん、永倉さん、原田さん、井上さん、斎藤さんに平助、そして山南さん。江戸から一緒に出てきたみんなのことだけでいっぱいいっぱいだ」

 新撰組の中核だった古参メンバーの名を挙げるときだけ、沖田の笑みがやわらいだ。

「好きでも嫌いでもなく、どうでもいい、か」
「余計なことは考えたくない。考えるのって、くたびれるだろう」
「そうだね」

 沖田は時計台を見上げた。いや、見上げるふりをしただけかもしれない。きっと、その目に映っているのは、レンガの塔でも十一月の青空でもない。

「おれが人間に生まれたのは、何かの間違いだったんじゃないかな。おれは刀に生まれたかった」
「刀……戦うための武器に?」

「近藤さんか土方さんに使われる刀だったらよかった。いや、近藤さんは荒っぽい振り回し方をするし、土方さんはもっとずっと荒っぽいから、無駄のない剣筋の斎藤さんがいいかな。斎藤さんは刀の手入れもすごく丁寧だし」

「大事にされたいんだね」
「そう、大事にされたい。そして、おれが大事だと思ってる人の役に立ちたい。考えるのが下手な悪い頭なんかいらないし、病にかかって動けなくなる不便な体もいらない。ただの刀がいい。手入れされればいつまでも輝いていられる刀になりたい」

「刀は折れるんじゃない?」
「そりゃね、おれも折ったことあるよ。気に入ってた打刀。帽子のとこで折れた。術が使える刀鍛冶を探して、無理やり破断の位置を動かしてもらって、脇差に造り直した。変な力をかけちゃったから、もとの茎《なかご》から真ん中あたりまで、粉々に砕けちゃったけど」

 時計台のまわりには見物人が集まりつつあった。アニメやゲームのキャラクターに扮したコスプレイヤーがけっこう多い。普通の和服のわたしや沖田は、だいぶ地味なほうだ。

 わたしと沖田と、どちらからともなく歩き出した。
 キャンパスは古い建物と新しい建物が入り交じって、雑多な印象だ。どの建物のそばにも広い駐輪場がある。そろそろ客の姿が増えてきた構内を、自転車の群れがすいすいと走っていく。

 巡野がもといた陳列館は、大正年間に建てられたネオバロック風の洋館だ。外壁はグレーで、扉や窓枠や屋根には淡いグリーンが使われている。傍らに立つ木々は秋の色に染まっていた。
 洋館を背に、沖田は振り向いた。

「この建物、古いんだね?」
「きみがいた時代のほうが古いけどね」
「そうなんだよな。ピンと来ないよ。変な気分だ。ねえ、おれたちの時代って、いつ終わったの?」

 ごく軽い調子で投げられた問いに、ぎょっとする。
「終わったって、何が……どういう意味で?」
 沖田は刀の柄をさらりと撫でた。

「ここでは誰も帯刀していない。武士はどこに消えたんだ? 郷士だった近藤さんも土方さんも、きちんとした武士の身分を得るために必死だったのに、この時代にはもう、武士であることって何の意味もないの?」

 この時代には、という言い方は悠長に過ぎるだろう。
 沖田の知る武士の時代とは、徳川幕府が政権を握っていたころのことだ。沖田は一八六六年の秋からやって来た。徳川幕府が大政奉還をおこなうまで、あと一年しかない。

 明治と年号が改まると、明治三年には廃刀令が発布され、武士の特権である帯刀は禁じられた。明治十年、すなわち一八七七年の西南戦争をもって武士の時代が完全に滅んだ、という言い方をする人もいる。

 もしも沖田が肺結核を悪化させず、幕末から明治初年にかけての戦乱を生き抜くことができ、天寿をまっとうする運命にあったならば。
 帯刀を禁じられ、武士が絶滅するという出来事は、人生の前半のうちに経験したことになる。新撰組の数少ない生き残り、永倉新八や斎藤一が実際にそういう人生を送った。

 言葉を見付けられないわたしに、沖田はひらりと手を振ってみせた。
「別にいいよ。おれたちの行く末を知りたいわけじゃないんだ。むしろ、知りたくない。おれ自身の死にざまだけは、ちょっと気になるけどね」
「それも言えないよ」
「だろうね。だから訊かない。じゃ、行こうか」

「どこに?」
「決まってるだろう。祭りとやらに、だよ。そろそろ始まるんじゃない? 音楽が聞こえてくるよ」

 沖田は、にぎわい出した空気がそのあたりに固まっているかのように、空のほうへ向けた人差し指をくるくる回してみせた。