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 宙を駆けていく。
 沖田も切石も翼を持たない。しかし自在だ。はるか上空へと駆け上がり、地面すれすれまで一気に飛び降りる。

「大気中における栄励気濃度が高いところを瞬時に見抜き、それを足掛かりにしているわけですね」
 巡野が解説するとおりだ。沖田や切石が足を掛けた箇所は、栄励気が壊れて独特の光が破裂する。

 沖田の剣技は稲妻のようだ。
 光った、と思うと、すでに刀は振り抜かれている。肉と骨とを断つ、重量感のある音。勝負は一瞬だ。断末魔さえ上がらない。

 切石は、まるで鬼神だ。
 不動明王の加護を受けた付喪神が拳を振るえば、打ち砕けないものなどない。下級の妖怪は一撃で撃沈する。

 豚は次々と降ってくる。だが、地面に到達するより先に、沖田に斬られる。切石に殴り飛ばされる。沖田と切石は競うように、次々と豚を屠《ほふ》っていく。

 わたしは浅い息を繰り返し、懸命に目を凝らした。もっと見たい。ちゃんと目に焼き付けたい。
 けれども、だるい。苦しい。気が付くと、まぶたが落ちている。壊れたリズムで心臓が打つのが、耳のすぐそばで聞こえる。

 体を揺さぶられて、ハッと目と開ける。巡野がわたしの顔をのぞき込んでいる。
「眠ってはいけませんよ」
「わかってる」

 気を緩めたら、預かりものの肺病が沖田の体へ戻ってしまう。沖田が動けなくなる。そんなの、「仕事」が完了するまでは絶対にダメだ。
 わたしは沖田の巾着袋をお守りのように握り締めた。小さな硬い粒々の感触。幕末から持ってきた金平糖だ。

 頭上には、黄金色の靄《もや》のかたまりがあちこちに浮いている。異形の豚の姿が断たれても、栄励気は完全には霧散せず、依り代を抱えたままふわふわさまよっているのだ。

「ねえ、巡野。あれって食べられると思う?」
「悪意や妖気と呼び得るものは完全に祓《はら》われていますよ。原理的には食べられます」
「原理的には、ね。気分的にはどう?」
「ぼくは、ちょっと……」

 ずん、と地響きがした。牛のように巨大な豚が高原通に降り立ったのだ。肩のあたりが、べこりとへこんでいる。

 切石が舌打ちした。
「あかん。やり損ねた。気ぃ付けや!」

 ねじれた角を振り立てて、豚は甲高い声で咆哮した。ひづめで地面を掻き、鼻息も荒くこちらをにらんでいる。
 次の瞬間、豚は突進してきた。

 松園くんは腕組みしたまま動かない。
 ゴキン! と硬い音が鳴り響いた。結界が発光する。豚は弾き飛ばされた。角が折れている。

 松園くんは鼻で笑った。
「無駄だ。おまえのような下等な妖怪が首の骨を折るまで突進し続けても、この結界は破れない」
 悪役御曹司とでも表現すればいいのか。離島の牧歌的な環境で育ったはずなのに、松園くんには、スタイリッシュな悪い笑顔がとても似合う。

 灯火の色をした切石の長髪が躍った。
「後片付けは、わしが責任持ってやったるわ」

 切石が豚の正面に回り込んでいる。
 間髪入れず、豚は切石に突進した。腰をためた切石は豚の巨体を受け止めた。ずずん、と地響き。切石が踏み締めたアスファルトが泥のようにめくれ上がる。

 切石は笑った。
「こそばいなあ」
 ひょいと、切石は両腕をひねり上げた。豚の巨体が宙に浮く。切石の剥き出しの筋肉が、むちりと盛り上がる。猛烈な力が豚の首に掛かっている。

 嫌な音がした。
 太い骨がへし折れた音だ。あり得ない方向へと、豚の首がねじ曲がっている。わずかの後、豚の巨体は黄金色の靄になる。

 沖田が身軽に着地した。冴え冴えと輝く刀で、対峙する敵を指し示す。
「最後の一匹、おれがもらうね」
 言うが早いか、アスファルトを蹴る。たちまち敵との距離が詰まる。

 敵は人型をしている。頭だけが豚だ。身長はゆうに三メートルを超えるだろう。丸太のような両腕に、二本の巨大な肉切り包丁がある。
 豚頭巨人は肉切り包丁を振りかざし、振り下ろした。
 遅い。

 轟、と肉切り包丁がうなったとき、沖田はとっくに駆け抜けていた。
 豚頭巨人の右脚が崩れる。沖田がいつ斬ったのか、まったく見えなかった。豚頭巨人の悲鳴。

 沖田は、顔に落ちかかってくる前髪を、ふっと吹き飛ばした。
「拍子抜けだなあ。いちばんましなやつでもこの程度か。丁寧に相手してやるのも、もう面倒になっちまった」

 沖田はだらりと刀を提げ、無造作に豚頭巨人へと近寄った。
 豚頭巨人は威嚇の咆哮を上げる。肉切り包丁がめちゃくちゃに振り回される。だが、刃は沖田に届かない。

「邪魔だ」
 沖田はごく軽く払った。一閃。刀にまとった栄励気が、豚頭巨人の右腕を斬り飛ばす。獣の悲鳴。沖田はまた、軽く刀を薙ぐ。豚頭巨人の左腕が、ぼたりと落ちる。
「さあ、それじゃあ」

 とどめの一撃も無造作だった。
 ひゅっ、と風が鳴った。
 沖田は刀を振り抜いた格好で、ぴたりと静止していた。斬られたことを、豚頭巨人自身も理解しなかっただろう。豚の頭が巨体の肩の上から転げ落ちた。

 勝負あり。

 未練がましくそこいら一帯に漂っていた黄金色の靄たちが、ついに動き出した。一斉に飛んで、あるべき場所へ戻っていく。ラーメン屋柴蔵の厨房へ。

 そして静かになった。

 沖田は刀を鞘にしまった。ぐるりとあたりを見渡す。
「片付いたね」
 その一言に、わぁっと、歓声が上がった。