夏休み、ぼくは一人で虫取り網を持って家を出た。
 最近やることはだいたい決まってる。

 家を出てしばらくいくと田んぼがあって、用水路が流れている。用水路には柵がなくて、母さんはいつも危ない危ないと文句を言う。だけどぼくはよくザリガニをとる。でも今日はザリガニはいらない。

 虫取り網を川に突き立てて、深さを測る。これが最近のぼくの日課だ。
 何の意味があるのって母さんは言うけど、これは魚がいる用水路といない用水路の違いをチェックするための、大事な仕事だ。
 馬鹿じゃないの、とお姉ちゃんは言うけど、ザリガニだけじゃなくて魚も捕まえたいから、大事なことだ。

 ここは深い、ここは浅い、藻がいっぱいでぬるぬるする、とチェックしている間に、川は少しずつ細くなって水の流れは速くなって、草むらばかりになった。

 いつの間にか土の地面になっていて、町からどんどん離れてるのに気づかなかった。
 草むらをかきわけ、ぼくはなんとなく用水路に虫取り編みを突き立て続ける。用水路を覆うコンクリートがなくなって、川のふちは石がごろごろ転がっている。

 もっとたどっていくと、大きな池があった。
 木が生い茂って、陰をたくさん作っている。
 池の真ん中の上にだけ、青い空がぽっかりと見えた。そこからスポットライトみたいに太陽が照らしている。
 水がキラキラ光って、揺れていた。風もないのに。

 こんなところがあるの、知らなかった。秘密の場所を見つけて、ぼくはテンションがあがった。
 ぱしゃん、と水音がして、ぼくはびっくりしてひっくり返りそうになった。思わず後ずさる。
 池のまわりはとても暗くて、不気味で、ぼくはつばを飲み込んだ。汗がこめかみから顎に流れてきて、手の甲で拭う。


 池の中から、黒いものがのっそりと出てきた。
 人の頭だった。それから、むきだしの細い肩。ぼくに気がつかず、スイスイと泳いできて、池の縁の大きな石のところに肘をついて顔を乗せた。

 ぬれた真っ黒な髪が、白い頬と腕にはりついている。気持ちよさそうに鼻歌をうたって、顔をあげて、それから目が合った。

 女の人は目をまん丸に見開いて、ぼくをみた。多分、ぼくも同じ顔をしてたと思う。
 それから声もあげずに水の中に戻っていった。

「ちょっと――!」
 思わず声を声を上げたぼくなんてほったらかしで、女の人は水の中をスイスイと泳いでいく。
 真っ赤なスカートの裾が長く広く、ゆらゆらと透明な水の中で揺れていた。


 池の真ん中に突き出た岩にたどり着くと、女の人はそこに上半身をもたれかけて、ぼくを見た。
 長い髪が白い肌にはりついて体を隠している。

「あんた、だれ」
 甲高い声。――女の人じゃない、女の子だ。ぼくと同じ年くらいの。

「なんでここにいるのよ!」
 憤慨してる。責めるような声に、ぼくは少しむかっとした。おかげで、ちょっと怖かったのがやわらいだ。

「それはこっちの言うことだ」
「なんでよ」
 ポタポタと水のしたたる髪をかきあげて、少女は言った。
 なんで――なんでって。

「池で遊んだらだめなんだよ」
「なんでよ」
「危ないから」
「危なくなんてない。あたしの家なんだから」
 家。何言ってるんだろう。馬鹿にしてるんだろうか。

「こんなとこ、家なわけないじゃないか」
 ぼくは腹を立てて言い返した。
 それとも隠れ家遊びしてるんだろうか。一人で。
 変なやつ。

「山神さまのいる山を、こんなとこだなんて、失礼ね!」
 いつの間に山の方に来たんだろう。うっそうと茂る木を振り返って、暗い木の陰を見て、ぼくはまた少し怖くなった。

「山神さまって、誰のこと。君の親? 親戚? ここが家ってどういうこと?」
「ばかね、山神さまって言ったら、山の神さまのことよ。親戚じゃないわ。えらい神さまよ」
 山神って名前の人のことじゃないのか。

 神さまって言ったって。
 お母さんは、お米には神さまがいるから感謝しなさいとか、残しちゃだめだとか言う。
 神社のお祭りも、ここは神さまのおうちよって言われたし、夜の神社はなんだか怖かったけど、本物の神さまなんて見たことない。ゲームの神さまはすごい技を使って戦ったりするけど。

「そんなの、嘘だ」
 物語の中のことだ。
 言い切ったぼくに、少女は白い頬を赤くした。ぎゅっとぼくをにらんだ。

「なんで嘘つき呼ばわりされなきゃいけないのよ。あんたなんて、どうせ迷子のくせに、偉そうね」
 なんとなく図星を指された気持ちになって、ぼくはひるんだ。

「迷子じゃない。用水路をたどれば家に帰れる」
 用水路は枝分かれしてる。それを思い出して、さらに不安になった。でも、大丈夫なはずだ。目印の建物は、大体わかるはず。

 ぼくはムキになって、少女に言った。
「山神さまの山だとかなんだか知らないけど、池が家なんて、絶対嘘だ。家出してきたんだろ。悪い子だから、池で泳いだりするんだ。危ないからダメだって言われてるのに」

 少女は口をあんぐりさせた。
 びっくりしすぎて、怒っていたのを忘れたみたいだった。
「池が家で何が悪いのよ」

 今度はぼくが何も言えなくなった。家って言うのは、ドアがあって、部屋があるところのとじゃないのか。
「だって池に住めるわけない」
「さっきから何言ってるのよ。あんた、ちゃんと見てるの?」
 少女は、あきれかえった声で言った。

 池の上は木がとぎれて、スポットライトのように日の光がさしている。
 照らし出された少女は、赤いフレアのスカートを着ていて、長く広がる裾は水の中にふわふわと揺れている。

「山の神さまが、お前のような美しい尾びれの金魚は他にいないって言ってくださったんだから」
 金魚。
「なに言ってるんだよ、金魚を飼ってるの?」
「あんたこそなに言ってんのよ。あたしが死にかけているのを見つけて、山神様が助けてくださったのよ。だから、あたしがもっと生きていられるように、人間の上半身を与えてくださったの」

 少女が着てるのは、スカートじゃない。
 長い黒髪の下は裸で、それから、赤い――
 ひらひらと広がるきれいな布がたくさん重なったみたいな、尾びれ。



 金魚。少女は、自分を金魚だと言った。
 ぼくがびっくりしていると、水の中に潜っていなくなってしまった。赤い尾びれがひらひらと潜っていくのが見えて、なんとなく見送ってから、ぼくは慌てて来た道を戻った。

 山神さまだとか、金魚だとか、びっくりしたけど。
 それよりも帰れなくなるんじゃないかとか、遅くなって怒られるんじゃないかとか、それのほうが気になっていた。

 夕日の中を、虫取り網を振り回しながら汗だくで走る。
 見慣れた道に出たときは、すごくほっとした。なんとか暗くなる前に、ぼくの家のマンションについた。
 階段を駆け上がり、虫取り網を置いてから、勢いよく家のドアを開く。奥から、うるさい、とお姉ちゃんの声がした。

 ぼくは無視して靴を脱ぎ捨てると、エアコンの効いたリビングを駆け抜け、ベランダに向かった。

 金魚。
 この間の夏祭りで、金魚すくいをして連れて帰った金魚を、ぼくは飼っていた。水槽に入れて七日目に死んじゃったけど。

 お墓を作りたかったけど、うちには庭がない。
 こっそりマンションの植え込みに埋めようかと思っていたら、お母さんが、ガーデニングのお花の鉢寄せに埋めていいって言うから、そこに埋めることにした。
 ぼくが両手を伸ばしたくらいに大きい植木鉢だ。そこに金魚の死体をいれてお墓を作った。それからぼくは毎日、残った餌をお供えしていた。

 今お母さんは買い物に行っているのか、家にいない。ちょうどいい。ぼくは大きな丸い鉢植えを両手で掘り返した。
 だけど、掘っても掘っても、花の根が出てくるだけで、金魚の死体は出てこない。

「なにやってんの? あんた暑くないの?」
 きったないわねえ、とお姉ちゃんがぼくを見ている。

「ねえ、金魚、ここに埋めてたんだけど」
「あんたがお墓作った後、お母さんがこっそり掘り起こして、生ゴミで捨ててたわよ。虫がわくからって」

 生ゴミ。
 お姉ちゃんの言葉に、ぼくは掘るのをやめた。
 生ゴミ。ぼくの金魚も、死んだら晩ご飯の魚と同じで、生ゴミで捨てられちゃったのか。
 ショックなのかガッカリなのか、腹がたつのか、よくわからなかった。

 毎日餌をお供えしてたお墓は、からっぽだったというわけ。
 お姉ちゃんはからかうように笑って言った。

「燃やしたら良かったのよ」
「なんで」
「燃やしたら腐らないし。あ、本当にやるのやめてよ。火遊びして大変なことになったら、あたしのせいにされるんだから。あんたすぐ本気にするんだから」
「焼き魚になっちゃうだろ」

 まっかな金魚がこんがり真っ黒になるのを想像すると、ひどく残念な気持ちになった。
 とにかくわかったことは、ぼくの金魚はもう生き返らない。



 晩ご飯でみんながそろっているとき、ぼくはお父さんに聞いた。
「ねえ、人魚って、海の生き物だよね?」
 昔読んだ絵本も、アニメも海を泳いでた。
「さあなあ。海だとは思うけどなあ」

 お姉ちゃんはぼくをちらっと見て、鼻で笑った。
「人魚なんて架空の生き物でしょ。ほんとは船乗りが岩にぶつけて船を沈没させてたのを、人魚の仕業って怖がってただけって何かで見た」
「お姉ちゃん」
 お母さんがたしなめる。けどお姉ちゃんは口をゆがめてから、ご飯を口に放り込んだ。

 ぼくはお姉ちゃんを無視して、お父さんに話しかける。
「でも、半分魚だったら、川とか池にいても人魚だよね」
「下半身が魚だったら、海でも川でもいいのかもしれないなあ。どうした、川の探検で人魚でも見つけたのか」
 お父さんの言葉に、ぼくはびくりとしてしまった。

「うん。まあね」
 ぼくはご飯を口に放り込んで、ごまかした。
 大人に言ってもわかりっこない。

「ばかみたい」
 お姉ちゃんがしかめっ面で言う。またお母さんが、お姉ちゃん、とたしなめたけど、全然聞いていなかった。


 次の日、ぼくはまた用水路をたどって、なんとか山の池にたどり着いた。
 今日は地図を書きながら来たから、今度はまっすぐ家に帰れるし、また来るときも間違えずに来られる。

 人魚は昨日見たときと同じように、池のふちの石にもたれて、手をぶらぶらさせていた。
 ぼくを見て、びっくりしたみたいだった。
 昨日みたいに強い言葉を投げられるかと思ったけど、人魚はにっこり笑った。クラスの女子と同じ、普通の女の子みたいに。

「なんだ、また来たの」
 家の金魚の話をすると、池の人魚は、あきれかえった顔でぼくを見た。

「あたしの話聞いてなかったの?  あたしがとても美しい金魚だったから、山の神様がこうして変化させてくださったのよ。あたし以外の、その辺の平凡な金魚なんか、助けてもらえないわ」
 人魚は自慢げな顔で言った。

「それにあたしは死にかけたけど死んでなかったの。死んだら手遅れでしょ。ばかね」
「……それもそうか」
 人魚はけっこうおしゃべりで、ぼくに自分のことをいろいろと話した。

 去年の夏のお祭りで、町の子供に連れて帰られたこと。
 ちゃんと水槽に入れてもらえなくて、すぐに死にかけたこと。
 そして、用水路に捨てられたこと。

「藻に絡まってぶらぶら揺れてたら、山神さまが見つけてくださったの。水でも空気の中でも生きていけるようにしてくださったのよ。わたしの尾びれは美しいから、そのまま残してくださったの」
「でも、それって」

 人魚は、池の水をすいすいと泳ぐ。
 自由自在に、ぼくがみたことがないくらい、のびのびと泳ぐ。外は暑いし、ぼくはいつも汗だくだし、気持ちよさそうでうらやましいけど。

「それって、意地悪じゃない?」
「なんでよ」
 人魚は急に不機嫌になった。
「だって」

 尾びれがあるから、人魚はこの池にいないといけない。ずっとずっとここから出られない。
 中途半端に、半分だけ人間になって、そりゃあ水槽に入れてもらえなくて死ぬことはないだろうけど、そのせいでここに閉じ込められてる。

 お祭りの金魚すくいで獲られて、人間の家の水槽に飾られるか、山神さまの池に飾られるか、結局あんまり変わらないような気がする。こっちの方がずっと広いし、外だし、泳いでるのは気持ちよさそうだけど。
 ぼくが来て話し相手になってあげないと、自分から誰かに会いに行くこともできないじゃないか。

「山神さまは、よく来るの?」
「ばかね、神さまはそんなに軽々しく姿をみせたりしないの」
「じゃあ、君はいつもどうしてるの? ひとりぼっちなの?」

 少女は真っ赤な顔をした。
 頬を膨らませて、眉をつりあげた。
「そんなことないわよ!」
 叫んだ声が、木の間に響いた。

「蛙もいるし、蝶も鳥も来るし、ひとりぼっちじゃないわよ!」
「でも、話せないんだろう? 君は虫とか鳥の言葉がわかるの?」
 おやゆび姫とか、童話の中では蛙とおしゃべりしてたけど。
 少女は口を閉ざしてしまった。


「ねえ、名前は?」
 あるの? っていいかけて、やめた。

 少女は、頬を膨らませたまま答えてくれなかった。
 怒らせてしまった。もう口をきいてくれないのかもしれない。

 ぼくがあきらめて家に帰ろうと背中を向けると、小さな声が聞こえた。ぱしゃん、と音がして振り返る。
 少女の尾びれが、水面を揺らしていた。

「あけ、って」
 ふくれた顔で人魚がつぶいた。
「山神さまが、美しい朱《あけ》って言ってくださったの。だから、わたしの名前は朱《あけ》よ」

「あけ……?」
「赤色ってこと」
「……それって、名前?」
 少女の眉毛がぎゅっと寄る。ぼくはすぐ、しまった、と思った。

「わかりやすくて、いい名前だね」
「わかりやすいってなによ。もっと他に言いようないの」
「うん、ええと。いいんじゃないかな。ぴったり」
 ぼくが言うと、人魚は「そうでしょう」とうれしそうに、顔いっぱいに笑った。