手をがむしゃらにばたつかせるけれど、女の幽霊を通り抜けてしまってどれだけ押しのけようとしても雲をつかむようだった。女はなおも千夏の身体を上ってこようとする。
「くっそ、なんでこんなに力が強いんだ……!」
 元気も女の幽霊を引きはがそうとしてくれているのだけど、うまくいかないようだった。霊の世界では思いの強さが力の強さに影響するのだろうか。物理法則の世界とはまた別の論理で動いているのかもしれない。ふとそんなことを思ってしまうけれど、その間にも女の霊はどんどん上ってくる。
「いやっ、いや!」
 もう腰のあたりまで上ってきている女の幽霊を追い払おうとがむしゃらに動かした千夏の手が、幽霊の身体をつかんでいた元気の手に当たる。
 その瞬間、バチンと、頭の中が何かがスパークした。大きな静電気が眉間のあたりで起こったような衝撃。
 え? ナニコレ? と思っている間もなく、千夏の視界は一瞬にして真っ白になった。
 …………。
 すぐに視界を覆った白い光は消える。目の前には元気の姿もあの霊の姿も見えていた。アパートの情景も目に映っている。
 しかしそれとは別にさらにもう一枚、別の動画が重なるように目の前に他の景色が映っている。
(え? どういうこと?……)
 目に映るもう一つは、どうやら昼間の景色のようだった。窓から、穏やかな日差しが差し込んでいる。ああ、あれはこのアパートだ。このアパートの、この部屋だ。
 しかし、床にはラグマットが敷かれ、壁際にはタンスに本棚。壁の端にはキャットタワーというのだろうか、猫が遊ぶ三段のタワーのようなものがある。
 あまり物がなくシンプルな室内だったが、丁寧に暮らしてる様子が窺えた。
(ああ……これは、かつてのこの部屋の情景……)
 千夏は誰かの目を借りて部屋の中を見ているようだった。自由に首を動かせるわけではなく、ただ誰かの身体に乗り移って見ているだけのような感覚。
『ミーコ、どこー?』
 若い女性の声だった。器に入れたペットフードを手にして、彼女は部屋で何かを探している。そのときふと、その視線が掃き出し窓の端を捉えた。窓は十センチほど開いていた。
『ミーコ!?』
 彼女は慌てた様子で窓に取りつくと、窓を大きく開けて外を見る。このアパートの庭とその向こうに見える隣の敷地や道路を、きょろきょろと焦った様子で見ながら何かを探していた。
『ミーコ! どこいったの!? ミーコ!』
 彼女の声は、涙声になっていた。

 それから、さらに景色が切り替わる。
 今度はどこかの街の中のようだった。
『ミーコ! どこにいるの。お願い、返事して。ミーコ!』
 彼女は駐車場に止められている車の下や路地裏などを探して回っていた。壁の上から庭を覗いてみたり、空き地の草むらを見てみたり。そうしているうちに、どこかの神社にたどり着く。辺りは雨が降りしきっていた。
『ミーコ! いたら、お願い。返事して!』
 そのとき、
 どこかから『ニャーン』というか細い声が聞こえた。
『ミーコ!?』
 その声に彼女ははじかれたように反応した。そしてか細い声を頼りに辺りを必死に探して、ようやく神社の本殿の床下で一匹の猫をみつけた。青みがかった灰色の体毛に、緑の目をした猫。しかしその猫は後ろ脚にひどいケガを負っているようで床下にぺとっと横になっていた。
『ミーコ! ミーコ! いま、助けてあげるからね! タスケテ、アゲルカラネ……』
 …………。
 バチンと再び頭の中に静電気が走るような衝撃があって、千夏は我に返った。
 あの神社の景色はすっかり消え、目に映るのは元の暗い室内のみ。
 目の前で、元気が目を丸くして千夏のことを凝視していた。
「なんだ……いまの……。猫……?」
 そのひと言で、元気も同じ物を視ていたのだとわかる。
 千夏は大きく頷いた。
「うん。たぶん、この部屋で飼われていた猫だと思うの」
 あれはかつてのこの部屋と、どこかの街の景色。そして、あの光景を見ていたのは、目の前にいるこの女の幽霊。あれは彼女の生前の記憶。そう思えてならなかった。千夏は、元気の腕に押さえつけられて今は大人しくすすり泣くばかりの女の霊に声をかける。
「アナタはあの猫のことが未練のあまり、霊としてさまよっていたんですね……松原涼子さん」
 名前を呼ばれえて、彼女は両手で顔を隠すようにしてワッと泣きだす。

 ……タスケテ……ミーコ……タスケテ……

 そして彼女は徐々に姿が薄く透明になっていき、スーッと空気に溶け込むように消えてしまった。
 いつのまにか、重苦しかった部屋の空気がすっかり正常になっている。窓の外にも、街灯の光や向かいの建物の明かりが戻っていた。
 パチパチっという音とともに、室内の照明も全て元通りに()く。
「…………もど、った……」
 安堵した途端、千夏は足から床に崩れ落ちた。
「お、おい……、千夏!」
 咄嗟に元気が千夏を支えようと手を伸ばすが、彼の手をするっとすり抜けてペタンと床に座り込む。足に力が入らない。
「あ、はははは…………なんか、今頃になって急に怖さがぶりかえして。足が笑っちゃって……」
 なにはともあれ、手がかりは掴めた。あとは、調べてみるだけだ。
 それにしても、先ほど見えたあの光景はなんだったんだろう。まるで、霊の記憶を覗いたかのようだった。
「おつかれさま」
「うん。元気も、ありがとう」
 一人だったら、きっと途中で気絶していただろう。元気がいてくれたから、乗り越えられた。少し休んでいると足に力が戻ってきたため、千夏は壁に手をつくと、よいしょと立ちあがる。
「このままここにいると床の上で眠り込んじゃいそうだから。今日はもう帰るね」
「ああ、それがいいと思うよ」
 出勤初日にしては、どう考えたって働き過ぎだ。ぶつぶつと文句をいいながら玄関へ向かい、パンプスを履く。履きながら、ふと気になった。
「元気は、このあとどうするの? どっかに帰るの?」
 そう尋ねると、彼は曖昧な苦笑を浮べて小首を傾げた。
「別にいくところもないから、あのオフィスに戻るよ」
「そっか……じゃあ、また明日だね」
 照明を消して外の共用廊下に出ると、晴高から借りたマスターキーでドアを施錠する。スマホをつけてみると、もう朝の五時近くだった。段々と空が白みはじめている。電車はもう動いているだろうか。
 アパートの階段を降りると、道路の脇にシルバーのセダンが一台止まっているのが目に付いた。これ、自分がここまで乗ってきた社用車と似てる車だなぁなんて思いながらその横を通り過ぎようとしたとき、運転席を見て千夏はギョッとして足を止める。
 運転席に座っていたのは、見覚えのある目つきのきついイケメン。晴高だったからだ。どおりで見た事ある車だと思った。
「なんで……」
 運転席のパワーウィンドウが下がって、晴高がクイッと顎で後部座席を示した。
「乗れ。家まで送っていくから」
「…………なんで、晴高さん。こんなところにいるんですか」
 千夏の疑問に、晴高は露骨に大きなため息をついた。
「初心者の部下を、一人で現場においておくわけないだろ。俺はそこまで無責任じゃない」
(いるなら、いると一言言ってくれれば! どんだけ怖かったと思ってんだ、この男は……!!!!)
 ふつふつと晴高に対する怒りが沸いてくる。しかしそれが精いっぱいで、いまは疲労のあまり言い合いをする気力も残っていなかった。
 千夏は幾分乱暴に後部座席のドアを開けると、どかっと座席に腰を落とした。すぐに車は発進する。晴高に聞かれて家の場所を伝えると、ほんの数分と持たず眠りに落ちてしまっていた。