「最後に見たのは、彼女に渡そうとした指輪が目の前に転がってる光景だった。俺、どんだけついてないんだろうなぁ」
 こちらに視線を戻した元気は、目尻をさげて笑った。もう全てを受け入れてしまったというような、そんな穏やかな笑み。でも、とても切なく儚い光を宿しているような、そんな彼の目を千夏は見ていられなくて彼から目を逸らすと、膝を抱いてぽつりと返した。
「そっか……」
 かける言葉がみつからなかった。千夏が黙っていると、元気は自分から話し出す。
「もちろん、彼女のとこにも行ってみたよ。しばらく、そこにいた。……でもさ。あの日から、もう三年も経つんだ。彼女も、いつまでも同じ所に留まっているわけがないよね。……半年くらい前に、別の人と結婚したんだ。幸せそうだった。これからも、幸せでいてくれたらいいなって……思うよ」
 元気の声はとても穏やかだった。かつての恋人の幸せを願う彼の言葉に、一遍の嘘偽りも感じられない。彼の口調からは未練らしきものは少しも滲んではいなかった。
(じゃあ、なんで元気は未だに、この世に留まり続けているんだろう……)
 残した彼女が心配だ、というのならわかる。でも、その彼女は既に新たな人と新しい人生を歩み出しているという。なら、なぜ元気だけが昔のまま留まっているんだろう。何か他に未練があって、この世に残っているんだろうか。
「元気ってさ……」
「ん?」
「……人が良いよね。すごく」
「そうかな。そんなこともないと思うけど」
「幽霊なのに」
「幽霊だねぇ」
 そんな意味の無いやりとりを交わして、クスリと笑みを漏らす。
 そのときは、ここが幽霊物件だということをすっかり忘れていた。
 その心の隙をつくように、突然ズンと、部屋の空気が重くなる。
(え…………)
 ぞわっと、全身の毛が逆立つような悪寒が走った。
 反射的に窓の外に目をやると、さっきまで見えていた向かいの建物の明かりや街灯が一切見えなくなっている。ついで、バチバチッという音を立てて天井の照明が明滅。バチンという音とともに、停電でもしたかのように室内の電気がいっきに落ちた。
 目の前が真っ暗になって、何も見えない。
 手探りで背にしていた壁を触って、位置を確認しながら立ち上がる。ごくりと生唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。
(寒い…………)
 急に室内の気温が下がったように感じられた。春先とは思えないような寒さだ。
「げ、元気……?」
 いままで隣にいたはずの幽霊男の名前を呼んでみるけど、なんの反応もない。そちらに手を伸ばすものの、千夏の右手は空しく空を切るだけ。考えてみたら、彼は実体がないのだからたとえそこにいたとしても触ることなど出来ない。
「元気、どこ……? いるんでしょ?」
 と、そのとき。

 ……ミーコ……ミーコ……ゴメンネ……ワタシガ……

 どこからともなく、濡れた泣き声交じりの声が耳を掠める。
 闇に少し慣れた目をこらして室内を見渡すと、ヌルッと闇夜の中を(うごめ)く影のようなものを目の端にとらえた。
(何か、いる……!?)
 あれは見たらマズイものだ。そう本能が警鐘をならす。心臓の音が、バクバクと高鳴った。闇の中、黒い影はふらふらと移動しているようだった。まるで彷徨(さまよ)っているようでもあり、何かをしているようでもある影。

 ……ミーコ……シンジャウ……ダレカ……タスケテ……

 その影はそう何度も何度も繰り返していた。何が原因なのかはわからないけど、その言葉から焦りと後悔のようなものがひしひしと伝わってくる。
 影はまだ、千夏の存在には気付いていないようでフラフラと玄関のほうへと移動していた。千夏は緊張で身じろぎひとつできない。まるで金縛りになったようだった。
 あのまま進むと霊は廊下に出てしまうだろう。ご近所の迷惑を考えると阻止しなきゃ。でも、恐怖のあまり早く出て行ってほしいという気持ちがせめぎあう。いや、恐怖のあまり後者の気持ちのほうがはるかに強かった。
 怖くて千夏はぎゅっと目を閉じた。
(はやく、出ていって!)
 そう心の中で願う。
 そうしているうちに、あの声が遠ざかっていった。そして完全に聞こえなくなる。
 よかった、廊下に出て行ったんだ、そう思って目を開けたそのときだった。

 ……ミーコ……ミーコ……ヲ……

 千夏の足に女がすがりついていた。
「っ…………!」
 思わず目を見開いて息を飲む。女は長い髪を振り乱し、こちらに向けられた目は白く濁っていた。千夏の足を掴んで這い上がってこようとしている。
「ひっっっっっ!!!!」
 ひきつけを起こしたように千夏は声にならない声を上げる。気を失いそうになったそのとき、
「その人を脅かすなよ!」
 怒気を孕んだ力強い声が聞こえた。元気の声だ。そう思った瞬間、千夏はすんでのところで意識を保つことができた。
 闇に目を凝らすと、元気が女の霊の肩を掴んで、千夏から引き剥がそうとしていた。しかし、足を掴んできた彼女の手は氷のように冷たく、それでいて信じられないほどの強い力でしがみついていて離れない。
「いやっ、こないで!!」
 千夏は恐怖のあまり、手をばたつかせるしかできなかった。