千夏が床に撒いた塩を掃除機で片づけていると、怪しいものがないか見回りに行っていた元気がリビングへと戻ってきた。
「悪い気配はほとんど消えてるみたいだ。あっちの部屋の奥とかベランダとかには、ごちゃごちゃ黒いモヤみたいなのがわだかまってたところが何か所かあったから、蹴散らしておいた」
「ありがとう」
 そんな会話をしていたら、シャワーを浴びに浴室に行っていた晴高も戻ってきた。さっきまでいつものスーツを着ていた晴高だったが、今はさすがに部屋着に着替えている。彼は戻ってくるなり、ソファにどさっと横になって目を閉じた。まだどこか体調が悪いのかもしれない。
 晴高に、さっきの悪霊みたいなものがなんだったのか聞いてみたい気持ちは強かった。でも、憔悴している彼に今それを聞くのは酷な気がして聞けないでいる。元気も心配そうだ。
 さて、このあとどうしよう。あの悪霊みたいなものが晴高の体調不良の原因だろうというのは千夏にもわかる。壁にかかった時計はもう夜の十二時過ぎを指していた。このまま晴高を一人にしておけばまた同じ状態にならないとも限らないから、彼をここに置いて帰るのは不安だった。どうしようかな、そんなことを悩んでいたらボソボソと晴高の声が聞こえてきた。
「……すまなかったな」
 いつものような張りの感じられない、弱い声音。
「いえ。何度か電話したんですが、出なかったので心配になって。あ、カギは開いてたので勝手に入ってきちゃいました……すみません」
 緊急事態だったとはいえ勝手に入ってしまったことを気まずく思う千夏だったが、晴高は何も言わなかった。
 元気はダイニングテーブルの椅子を引っ張ってきてソファのそばに置くと、背もたれに抱き着くようにして座る。
「……なあ。俺、霊のことはよくわかんねぇけど、お前、まじでヤバイことになってんじゃないのか?」
 強い調子が滲む元気の声。けれど、晴高は目をつぶったまま何も答えなかった。
 もしかして眠ってしまったのかなと千夏が思い始めたころ、晴高はうっすらと目を開けてボソッと返してきた。
「……どっから、話したらいいんだろうな」
 そうしてしばらく天井を見ながら何か考えているようだったが、やがて晴高はゆっくり起き上がるとソファに座った。
 もとから色白な彼の顔色は、病的なまでに白くなっている。いまにもまた倒れてしまうんじゃないかと、千夏は内心はらはらしていた。
 彼は膝に置いた腕で額を押さえて、身体の中の辛さを吐き出すように言った。
「お前らが昼間見たっていうカナコという女性は……おそらく、雨宮華奈子。俺が昔、つきあってた恋人の名前だ」
 きっと、あのずっと右薬指につけているペアリングの相手なのだろう。と、千夏は察する。
「彼女は三年前に病死した。もともと身体が弱い子で、二十歳まで生きられないって言われてたから、二十二まで生きたのは幸運だったんだろうな」
 彼女の葬儀はつつがなく行われたはずだった。しかし、それだけでは終わらなかったのだと晴高は言う。
「しばらくして、アイツが入院してた病院でおかしなことが起こりはじめたんだ。夜な夜な、いるはずのない人間の足音が聞こえたり、話し声がしたり。いろいろな霊障がおこって、マスコミに心霊病院なんて紹介されるほどになっていた」
 妙な胸騒ぎを覚えて晴高はその病院を訪れるが、病院の様子が以前とは様変わりしていたことに驚いたのだそうだ。
「華奈子が入院してたころ、俺もよく見舞いに行ってたんだ。けど、そのころは感じたことのないような禍々しい瘴気のようなものに包まれていた」
「もしかして、そこに華奈子さんの霊もいた?」
 元気の問いかけに、晴高は少し迷ったあとコクンと頷いた。
「あいつの気配を感じた。……驚いたよ。てっきり、成仏したとばっかり思っていたから。どうやら、あいつは悪霊たちに取り巻かれてあそこに閉じ込められているようなんだ。でも、気配はそれだけじゃなかった。たくさんの霊の、それも悪霊といわれるものの気配があそこにあった」
 いつの間にか、病院は悪霊たちの巣窟になっていたのだそうだ。
 もちろんそんな状態になって経営がうまくいくはずもない。ちょうど施設が老朽化しつつあったこともあって、病院側はその建物を放棄して別の場所に移転したのだという。
「あそこには昔から霊の通り道があったらしいんだ。そこに病院を建てたのがまずかったんだろうな。でもそれだけならまぁ、普通より心霊現象が多く起こるくらいで済んだのかもしれないが、運悪く病院で死んだやつの中にとても霊力が高いやつがいたんだ。そいつが核となって霊道を通りがかった霊やら付近の悪霊やらを呼び寄せて、あんなになっちまったらしい」
 いっきに話して疲れたのか、晴高がふぅと息を吐きだす。
「廃墟になってからは、以前に増して日に日に悪霊は増えている。それを俺は、暇さえあればあそこに祓いに行っていたんだが……とうとう手に負えなくなって、このありさまだ。……迷惑かけたな」
 そう言うと、晴高はふらりと立ち上がってキッチンカウンターに置いてあった車のキーを手に取り、玄関へ行こうとした。まだふらふらとしていて足取りがおぼつかない。どこへ行こうというのだろう。いや、どこへ行くのかは想像はついた。
 千夏は玄関の手前で彼の前に立ちはだかる。
「…………」
 晴高は怪訝そうに、千夏を見下ろした。やつれているせいか、いつもより眼光が鋭い。思わず怯みそうになりながらも、千夏はキッと晴高を見返した。
「どこへ、行くんですか」
「決まってるだろ。どんどん悪霊が増えてる。俺が祓わないと」
「そんな身体で、そんなとこに行けるわけないじゃないですか!」
「俺がやらなかったら、誰がやるんだ。そうしないと、華奈子はいつまでも」
 晴高が腕で千夏を押しのけ、なおも玄関へ向かおうとしたため千夏は彼の腕を掴んで引き留める。
「それなら、私たちも一緒に行きます」
 睨むようにして千夏が言う。晴高だけを行かせるわけにはいかない。
 しかし、晴高はぴしゃりと拒絶した。
「だめだ。お前らには危険すぎる」
「晴高さんにとっても危険ですよね?」
 すぐに千夏は言い返す。さらに傍に来た元気が付け加える。
「お前、すでにそこのやつらに憑りつかれてんだろ。さっきの黒い霊たちはなんだよ。あれ、悪霊ってやつだろ? このまんまだと、どんどん衰弱してしまいには死んじまうよ? ……お前まさかさ、死んじまってもいいとか思ってないよな?」
 その元気の言葉に、晴高の瞳がわずかに揺れたように千夏には思えた。
 その廃病院には彼の恋人の華奈子の霊もいるのだ。そういう心理に陥る気持ちもわからないではない。でも、それが晴高にとって良いことだとは千夏には到底思えなかった。
「お前、俺に悪霊になるなって言っておきながら、お前が悪霊に食われに行くなんてどういうことだよ?」
 元気の言葉は、言っている内容とは裏腹に晴高を責める調子ではなかった。口ぶりから、ただ晴高の力になりたいと思っているのが伝わってくる。
 晴高は二人から視線をそらして、唇をかむようにジッと床を見つめていた。
 沈黙を破ったのは、千夏だった。
「私……もう一つ気になっていることがあるんです。前に晴高さんが倒れたとき、生前の華奈子さんのものらしき記憶を見たと言いました。でも、見たものはそれだけじゃないんです」
 千夏がそう言うと、晴高は千夏を見て怪訝そうに眉を寄せた。
「ほかに……? ……何を見たんだ?」
 言ってもいいよね?と元気に目で確認すると、彼はこちらの意図に気づいて小さく頷き返して晴高に話し始めた。
「あの景色は、どこかの廃墟の中だった。そこらじゅうに禍々しい空気が漂っていて。その部屋の隅に隠れて小さな男の子が泣いてたんだ。あれ、たぶん、最初に見たソウタって子だと思う」
 元気も、やはりあの泣き声はソウタのものだと感じたようだった。
 今度は、千夏が引継いで話を続ける。
「そのソウタ君が言ってたんです。……靴、どこ……って。ソウタくんは病気を治して外に出るのを夢見ていました。彼は入院中で、病院のスリッパを履いていたから。元気になったら靴を買ってもらう約束をお母さんとしていました。もしかして彼は靴がなくて、いまだにあの病院から出られずにいるんじゃないでしょうか。それに、初めのテラスの景色は華奈子さんの目から見たものでした。ということは……」
 千夏の言葉に、晴高が驚いたように息をのむのがわかった。
「その廃墟の景色を見ていたのも……」
 千夏は大きくうなずく。
「あれは死後の華奈子さんが見た記憶なんじゃないかと思うんです。私が霊に触れて視える記憶は、その人にとってとても想いの籠った記憶ばかりです。だから、もしかしてあの光景には何か深い意味があるんじゃないかと思って……」
 そこまで話した後、元気があっけらかんと言う。
「意味もなにも。ソウタは靴が欲しかったんだろ? だったら、靴を届けてあげりゃいいじゃん?」
 その言葉に、晴高はしばらく何かを考えた後、はぁっと嘆息を漏らした。
「たしかに、俺もあの病院に行ったときに悪霊たちの中から子どもの泣き声らしきものを聞いたことがある。ソイツが泣くたびに霊たちは力を増しているようにも見えた。それが、そのソウタってやつである可能性は高いのかもしれんな。だとすると、欲しがっていた靴をあげれば何かが変わるかもしれない」
 とりあえず、やるべきことは決まったみたい。三人は一緒に、廃病院へと行ってみることになった。