さーっと、湿気を含んだ冷たい風が森の中を吹き抜けた。
「お、おい。なんか、急に寒くなってきた気がしねぇか?」
 良二は寒そうに両腕をさすった。ざわざわと森の木々がざわめく。
「そ、そうね……」
 咲江も、おどおどと辺りを見回す。まだ日は陰り始めたばかりの時刻のはずなのに、いつのまにか薄暗さが増していた。
「か、帰るぞ」
 良二は斜面を大股で登り始める。
「ちょっと待ってよ。おいていかないで!」
 咲江もあわててそれに続いた。二人の背中が斜面を登っていく。それを元気も大股で追いかけた。そして、湧き上がる黒い気持ちを抑え込み、低い声で彼らに呼び掛ける。
『阿賀沢さん』
 二人は、凍り付いたように足を止める。どうやら元気の声は彼らに届いたようだ。おろおろと辺りを見回す二人の顔は蒼白になっていた。恐怖に怯えている様子が手に取るようにわかる。
 元気は、もう一度彼らの名前を呼んだ。
『良二さんと、咲江さん。覚えてますか。高村です。オレ……あなたタチニ何か失礼なコトシましたか?』
 一歩一歩、彼らに歩み寄りながら低い声で尋ねる。もう彼らの顔しか見えていなかった。良二と咲江は蒼白な顔して、ただ口をパクパクさせるしかできないようだった。
『俺、何モシテナイデスよね。ナノニ、なんで俺ヲ殺しタンデスカ』
 周りの木々がざわめき揺れる。風もないのに、まるで人の手で激しく揺らされたかのようにざわめいた。
『オレはナニモ見テナカッタノニ。なのにアンタタチは、カッテニ俺のことを邪魔だと思って殺シタんだ』
 咲江は尻から倒れこみ、あわあわとポケットから数珠を出して拝みだした。般若心境のようなものを唱えているが、そんなもの苦しくも何ともない。晴高の読経と比べると、蚊に刺された程度の威力しかなかった。
 咲江の横を通りすぎたとき、彼女がもつ数珠が勝手に引きちぎれる。
 良二に追いつくと、元気は両腕で彼の喉を掴んだ。
『ジャアオレガ、アンタタチノコトヲ殺シテモイイッテコトデスヨネ?』
 そのときはじめて良二の目が元気の姿を捉えたようだった。身体に触れたことで、視えるようになったのかもしれない。その目に怯えが色濃く影を落とす。
「わ、わるかった……すまんっ、このとおりだっ」
 良二は元気の腕を引き離そうと掴んだが、どれだけ爪を立てられようが痛みなんて感じない。だって、自分は死んでいるんだから。
 元気の腕や身体から黒いモヤのようなものが立ち上りはじめていた。
『ユルサナイ……オマエラモシネバイイ』
 元気は良二の首を掴む腕に力を込めた。
「……かはっ……」
 良二の顔が赤く染まる。それでも元気は力を弱めなかった。そのとき。
 良二のズボンのポケットから何かがするりと落ちた。見ると、それは良二のスマホだった。
 元気の目が揺らぐ。憎しみと怒りに覆われそうになっていた元気の心に、一瞬、別の感情がよぎった。
 そうだ。約束してたんだ。遺体の場所を見つけたら、連絡するって。
 連絡する? 誰に? 誰に。
 スマホに注意がいったことで、良二を掴む腕の力が弱まったのだろう。良二は元気の腕を振り払うと、地面に倒れこむ。数回咳をすると、一目散に斜面を登り始めた。それを見て、咲江も半狂乱に叫びながら良二を追って斜面を登っていった。
 しかし、元気の視線はスマホにくぎ付けになったままだった。
 誰に、連絡するんだった? 誰か。大切な人。連絡をいまもきっと待っている人。
(そうだ。千夏だ)
 そう思ったときには、身をかがめてスマホを手に取っていた。幸いロックはかかっていない。千夏の番号なら、暗記してある。一瞬ためらったものの、指でその番号を押した。
 数回のコールのあと、彼女の声が聞こえた。なんだかとても懐かしく思える。目が潤んで、元気の顔が歪んだ。