千夏たちは晴高の車で、阿賀沢夫妻の自宅のそばまで来た。
 そこは世田谷の高級住宅街にある大きな一軒家だった。ずいぶん、羽振りが良さそうだ。建物はまだ新しそうだったので、あの神田の不動産を売った金で建てたのだろう。
 晴高は阿賀沢宅の玄関が見える少し離れた路上に車を止めた。
 先ほど元気に確認しにいってもらったところ、彼らが八坂不動産管理の水道橋支店に来た時に乗っていた車が車庫の中にまだあるようだ。
 塀は高いが、二階の部屋に明かりがついていることからも夫妻は自宅にいるに違いない。
「動きますかね、阿賀沢さんたち」
 今回は元気と一緒に後部座席に座っている千夏が尋ねる。運転席の晴高は、
「さぁな。どうだかわからんが、あいつらが動かなければ……」
「俺がまた脅しにいきゃいいんだろ? 夜中に寝てるとこ脅してやろうかな。痛いよぉ~。痛いよぉ~。車に跳ね飛ばされて折れた手足と潰れた内臓が痛いよぉ~って」
 元気が手をお化けのようにして、うつむき加減で怖い声を出したものだから、
「ヒッ……」
 千夏はビクッと肩を縮めた。
 さすが幽霊。演技が迫真すぎる。元気だとわかっていても、背筋がぞくっと寒くなるようだった。しかも、本当に痛い思いをして死んでいるので、その声には偽りのない恨みつらみが詰まっている気がした。
 千夏が本気で怖がっていると、元気はパッといつもの彼に戻り「ごめん、つい」と朗らかに笑う。しかし、すぐにスッと真顔になると、
「ずっと毎晩、脅してやればいいよ」
 元気は車の窓から阿賀沢宅を眺めながら、そう呟いた。

 それから数時間後。ポツリポツリと降り出した雨が本降りになった頃。
 阿賀沢宅の電動ガレージが開いた。中から車が出てくる。阿賀沢夫妻が水道橋支店に来た時に乗っていたのと同じ、高級外車のセダンだ。
 晴高もすぐに車を出す。あまり近づきすぎても怪しまれるので、距離を保ちながらも離れすぎずついて行った。
 阿賀沢夫婦の車は住宅街の中をしばらく走って、東京を東西に貫く甲州街道に出ると西の方向に向かって進んでいった。
「やっぱ、多摩の方に向かっているな」
 しかし、雨で車が多いことに加え、事故を起こした車両があったらしく片側一車線しか通行できなくなっているようだ。道は酷く渋滞していた。
 まだなんとか阿賀沢の車は見えてはいるが、横の道からどんどん車が入ってきて、阿賀沢の車との距離が離されていく。元気はじっと進行方向を見ていた。その顔に焦りの色が濃くなっていく。
「元気……」
 千夏は元気の左手に触れた。彼の左薬指にシルバーのリングが見えた。千夏とペアのやつだ。
「大丈夫だよ、元気。今回見逃しても、またチャンスはあるよ」
 元気は指を絡めるように千夏の指を握り返してくると、頷くように少し俯いた。そのまま何かを考えていたようだったが、
「……俺、あいつらの車に乗りこんどく。そうすれば見逃さないから」
 そう早口に言うと千夏の指から手を離した。
「元気!?」
 咄嗟に千夏は元気の腕を掴んで引き止めようとしたが、それよりも彼が車から出るのが早かった。
「おい! やめろって!」
 晴高も焦った声を出すが、元気は、
「あいつらを逃すわけにはいかない。どっか着いたら公衆電話探して電話する」
 そう言うと、雨の中、車の間を縫って前方へ走って行ってしまった。
 すぐに、元気の背中が遠くなり見えなくなる。
「あの、馬鹿」
 晴高は唸った。
「ど、どうしましょう」
 阿賀沢の車に乗り込むということは、狭い車内で阿賀沢夫妻と元気の3人だけになるということだ。殺人の加害者と被害者。
 彼らだけにしたら、何が起こるかわからない。元気が何をするかわからない。嫌な動悸が胸の中で高鳴る。不吉な予感が募る。
「とにかく、俺たちもこのままあの車を追うしかない。くそっ、見失わなきゃいいんだが」
 しかし、晴高の懸念の通り。
 渋滞のひどい場所を抜け、ようやく車がスムーズに走り始めた頃には前方に阿賀沢の車は見えなくなっていた。
 ただ、道なりに西へと進んでいく。
「おそらく、どこかで道を逸れて山の方に行ったんだろうな……」
 コクンと千夏は頷いた。自然と手を胸の前で組んで、目を閉じ心の中で願った。
(元気、お願い。なにもしないで、大人しくしていて)
 そう強く祈る。
 でも、いくら普段温厚な彼でも、自分を殺した相手を目の前にして冷静でいられるはずがないんじゃないか。それが、彼の感情を負の方へ偏らせ、悪霊にしてしまうんじゃないか。いやもっと物理的に、元気は彼らに手を下してしまうんじゃないかと、怖い想像がドンドン浮かんでくる。
 しかし、反面。こうも思うのだ。
 元気の未練の元凶である彼らにようやく会えたのだ。ようやく彼自身の手で未練を果たせるところまで来た。だから、元気は自分の思うままにするべきなんじゃないかって。だって、元気はいままで彼らのせいでたくさんの辛い思いをしてきたのだ。自ら悪霊化してでも復讐を願うなら、どうしてそれを止められるんだろう。
 相反する想いが、千夏の中で交錯する。
 もし元気が悪霊になってしまえば、晴高は彼を除霊するだろう。
 いろんな考えや感情が、頭の中でぐるぐると渦巻いていた。頭がパンクしそうだ。
 でも、そんな感情の渦の中から、千夏の一番素直な気持ちを掬い取ってみると、そこにあるのは純粋で強い想いだった。
(それでも、やっぱり私は、笑ったあなたに会いたい)
 どれだけ車は走ったのだろうか。もう数時間は走り続けているはずだ。
 気がつくと窓の外はほとんど民家もない郊外の景色が映り込んでいた。
 その時、千夏のスマホが鳴る。
 弾かれたようにスマホの画面を見ると、そこには見知らぬ番号からの着信が表示されていた。