晴高の言葉が、ワンワンと頭の中にコダマする。
何か元気に声をかけたいと思うのに、どんな声をかければいいのかもわからない。何も浮かばない。どんな言葉を並べたところで、元気がいま抱えている絶望の大きさに比べれば稚拙なものに思えてしまう。
ただ、悲しかった。なんで元気がそんな目にあわなきゃならないんだろう。そんな他人の身勝手なことで、すべてを奪われなければならなかったんだろう。
何も悪いことなんてしていない。普通に仕事をして普通に暮らしていただけの元気は、そのあと迎えるはずだった楽しいことも、嬉しいことも、その人生のすべてを奪われたのだ。
それなのに彼を殺したかもしれない人たちは、いまものうのうと暮らしている。
もしかすると、あの物件を売ったお金で人生を謳歌しているかもしれない。
そんな理不尽なことなんて、あっていいのだろうか。
悔しい。悲しくて、とてつもなく悔しい。千夏は何も言えないまま、ただ唇を噛んでいた。
テーブルの上で頭を抱えたままだった元気が、ぽつぽつとしゃべる言葉が聞こえてくる。
「俺。あのときから、違和感を覚えてたんだ」
「違和感?」
頭の中を渦巻く沢山の感情に押しつぶされそうになって声すら出せない千夏とは違い、晴高は淡々と聞き返していた。
「……俺、俺を轢いた運転手の裁判も傍聴しにいったんだ。その人は、疲労で居眠りしてたせいで赤信号を見過ごして、横断歩道を渡っていた俺を轢いたってことになってた」
感情をこらえたように抑えぎみの、いつもより低い声を絞り出すように元気は続ける。
「でもさ、俺。轢かれる直前に、あの人のこと見てるんだ。絶対にあっちも俺のことを見てたんだよ。目が合った気がしたんだ。こっちにすごいスピードで走ってくるとき、ハンドル握りながらあの人は確かに俺のことを見てた」
「じゃあ、居眠りじゃなかったと」
「……絶対に居眠りなんかしてなかった。ブレーキ痕もなかったんだ。あの人は俺を見ながらブレーキを踏むこともなく俺を轢いたんだ」
そして顔を上げると、一呼吸挟んでから、いっきに吐き出す。
「いま、わかった。俺、だから幽霊になってずっとここに残ってたんだ。それが未練だったんだ。自覚してなかったけど、たぶん気づいてたんだよ。あれが事故じゃないってこと。殺されたんだってことも!」
そう叫ぶように言うと、元気は晴高と千夏の顔を交互に見比べて目を伏せた。
「だから……俺、もうここにはいられない」
「元気?」
千夏の背筋に、ぞくりと寒気が走った。ここにはいられないって、どういうこと? 心臓の音が嫌に大きく聞こえる。その音は不安が大きくなるのに合わせて、どんどん大きくなるようだった。ダメ。いま、ここで元気を行かせたらダメだ。もう二度と会えなくなるかもしれない。そんな直感に息ができなくなりそうだった。
「自覚してしまったらもう、見て見ぬふりなんてできない」
元気はこちらを見ずに、そう呟くように言う。
「元気。お前、あいつらに復讐しようとか考えてるんじゃないよな」
晴高の問いかけに、元気は言葉を濁す。
「わかんない……わかんないけど」
曖昧なままはっきりとは言わないが、元気が復讐を意識していることは痛いほどわかった。千夏自身だって、彼と同じ目に合えば同じことを考えるだろう。晴高は、
「恨みのままに行動すれば、いずれあの工事現場にいる阿賀沢の霊みたいになって、やがて悪霊になるぞ」
元気を射るような視線で見ながら、そう強い口調ではっきり口にした。
元気は晴高と目を合わせるものの、引くことも、反発することもなく、ただ悲しそうにその視線を受け止める。彼自身も悪霊云々のことはわかっているのだろう。
しかし、だからといって逃げることもできないにちがいない。彼がこの世に幽霊として残っているのは、未練を抱いているのはまさにそのためなのだから。
元気は、目元を和らげて穏やかな口調で言った。
「……晴高と千夏はこの件からは手を引いてほしい。これは俺の問題だし。相手は二人も殺してるんだ。危険すぎる」
そして千夏を見ると、微笑んだ。
「それと、千夏。いままでありがとう。俺、すごく楽しかった。いっぱい、良くしてくれてありがとう」
「元気!?」
元気がどこかに行ってしまう。自分の手の届かない遠くに行ってしまう。
千夏は思わず元気の腕をつかもうとした。しかしその手は空を切るだけで何も触れることはなかった。その手に千夏はぎゅっと拳をつくる。
もう元気は千夏に触れさせてくれるつもりがないんだ。彼の身体にも、彼の心にも。元気は、弱く笑う。泣きそうな笑みだった。
「ごめん。俺のことも、この事件のことも忘れて……」
「いやっ」
反射的に言葉が口をついて出てきた。
「……千夏」
「嫌だ。いやだいやだいやだ! そんなの絶対に嫌!」
千夏はいやいやをするように大きく首を横に振ると、テーブルの上に置いてあった元気の壊れたスマホを手に取った。
それをトートバックに入れて肩にかけると、元気の横を通り過ぎ、会議室の出口に向かって足早に歩きだす。
「おい! お前も、どこに行くんだよ!」
晴高の声に千夏は立ち止まってくるっと振り返ると彼に言った。
「警察に行ってきます」
「なんのために」
「決まってるじゃないですか! あの物件の敷地から、元気のスマホが出てきたことを教えてもう一度捜査をやりなおしてもらうんです!」
「ただ敷地からスマホが出てきたってだけじゃ、殺人の証拠になんかなりえるわけないだろ。俺たちはあの霊の記憶から教えてもらったからあの人が誰に殺されたのかもわかってるが、たぶん表向きは失踪したことになっているはずだ。遺体すらみつかってないのに、どうやって警察に動いてもらえるっていうんだ。まして元気の死亡は事故ってことで片付いてるんだぞ」
晴高の言うとおりだった。いまはまだ警察は、阿賀沢兄の件も元気の件も、殺人事件とすら認識していない。
「それは、そうですが……」
千夏は唇をかむ。理不尽に元気を殺しておきながら、まったく罪にすら問われていないだなんて。
「千夏、ありがとう。そうやって俺のために怒ってくれるだけでも、俺には充分だから」
穏やかな元気の声。ああ、そうだ。あなたはそうやって、たくさんの理不尽を飲み込んできたんだ。それがもう、悲しくて仕方がなかった。
「だって……許せないよ。元気には、もっとたくさんの未来があったはずなのに。楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、つらいことも。人としての人生の出来事がいっぱい残されてたはずなのに。それを全部、理不尽に奪ったやつらを許せない」
「でも、俺はそのおかげで君に出会えた」
はっきりと元気はそう口にする。それだけが、ただ唯一の真実なのだと。それだけが唯一の望みだとでもいうように。
千夏の瞳が滲む。
それでも。
「私と出会ってなくても、元気は生きていれば幸せになってたはずでしょ! 死んだことで見てきたたくさんの悲しい思いや、やりきれない思いをしなくて済んだでしょ!? それに……このまま元気を一人で行かせたら、元気が元気のままではいられないような気がしてすごく怖い」
晴高が言っていた、悪霊になるというものがどういうものなのかはよくわからない。でもそれはきっと、幸せとは真逆にあるものなのだろう。延々と終わらない怨嗟と苦しみの中にいることになるのだろう。
絶対に元気を一人で行かせてはいけない。それだけは、絶対に譲れなかった。
じっと睨むように元気を見つめる。元気も、こちらから目を離さず見ていた。
どれだけそうやって、お互い無言で膠着していたのだろう。その沈黙をやぶったのは、晴高の嘆息だった。
「どっちの希望も聞くわけにはいかないな。元気、自ら悪霊になろうとしているお前を俺が見逃すとでも思うのか? いますぐここで除霊するぞ。千夏、相手は二人も殺してる殺人犯だ。下手に動けば、お前の命だって危ない。……だから、まぁ結局、現状維持だ。三人で何とかするしかない。ただ目標は変える。あの霊を除霊か成仏させるっていうのは第二目標にして、第一目標は」
晴高は千夏と元気の顔を交互に見ると、二人の前に手を差し出した。
「殺人犯どもの検挙だ」
千夏と元気は目を見合わせると頷いた。そして、晴高の手の上に手を重ねる。
「幽霊物件対策班、再始動。だな」
何か元気に声をかけたいと思うのに、どんな声をかければいいのかもわからない。何も浮かばない。どんな言葉を並べたところで、元気がいま抱えている絶望の大きさに比べれば稚拙なものに思えてしまう。
ただ、悲しかった。なんで元気がそんな目にあわなきゃならないんだろう。そんな他人の身勝手なことで、すべてを奪われなければならなかったんだろう。
何も悪いことなんてしていない。普通に仕事をして普通に暮らしていただけの元気は、そのあと迎えるはずだった楽しいことも、嬉しいことも、その人生のすべてを奪われたのだ。
それなのに彼を殺したかもしれない人たちは、いまものうのうと暮らしている。
もしかすると、あの物件を売ったお金で人生を謳歌しているかもしれない。
そんな理不尽なことなんて、あっていいのだろうか。
悔しい。悲しくて、とてつもなく悔しい。千夏は何も言えないまま、ただ唇を噛んでいた。
テーブルの上で頭を抱えたままだった元気が、ぽつぽつとしゃべる言葉が聞こえてくる。
「俺。あのときから、違和感を覚えてたんだ」
「違和感?」
頭の中を渦巻く沢山の感情に押しつぶされそうになって声すら出せない千夏とは違い、晴高は淡々と聞き返していた。
「……俺、俺を轢いた運転手の裁判も傍聴しにいったんだ。その人は、疲労で居眠りしてたせいで赤信号を見過ごして、横断歩道を渡っていた俺を轢いたってことになってた」
感情をこらえたように抑えぎみの、いつもより低い声を絞り出すように元気は続ける。
「でもさ、俺。轢かれる直前に、あの人のこと見てるんだ。絶対にあっちも俺のことを見てたんだよ。目が合った気がしたんだ。こっちにすごいスピードで走ってくるとき、ハンドル握りながらあの人は確かに俺のことを見てた」
「じゃあ、居眠りじゃなかったと」
「……絶対に居眠りなんかしてなかった。ブレーキ痕もなかったんだ。あの人は俺を見ながらブレーキを踏むこともなく俺を轢いたんだ」
そして顔を上げると、一呼吸挟んでから、いっきに吐き出す。
「いま、わかった。俺、だから幽霊になってずっとここに残ってたんだ。それが未練だったんだ。自覚してなかったけど、たぶん気づいてたんだよ。あれが事故じゃないってこと。殺されたんだってことも!」
そう叫ぶように言うと、元気は晴高と千夏の顔を交互に見比べて目を伏せた。
「だから……俺、もうここにはいられない」
「元気?」
千夏の背筋に、ぞくりと寒気が走った。ここにはいられないって、どういうこと? 心臓の音が嫌に大きく聞こえる。その音は不安が大きくなるのに合わせて、どんどん大きくなるようだった。ダメ。いま、ここで元気を行かせたらダメだ。もう二度と会えなくなるかもしれない。そんな直感に息ができなくなりそうだった。
「自覚してしまったらもう、見て見ぬふりなんてできない」
元気はこちらを見ずに、そう呟くように言う。
「元気。お前、あいつらに復讐しようとか考えてるんじゃないよな」
晴高の問いかけに、元気は言葉を濁す。
「わかんない……わかんないけど」
曖昧なままはっきりとは言わないが、元気が復讐を意識していることは痛いほどわかった。千夏自身だって、彼と同じ目に合えば同じことを考えるだろう。晴高は、
「恨みのままに行動すれば、いずれあの工事現場にいる阿賀沢の霊みたいになって、やがて悪霊になるぞ」
元気を射るような視線で見ながら、そう強い口調ではっきり口にした。
元気は晴高と目を合わせるものの、引くことも、反発することもなく、ただ悲しそうにその視線を受け止める。彼自身も悪霊云々のことはわかっているのだろう。
しかし、だからといって逃げることもできないにちがいない。彼がこの世に幽霊として残っているのは、未練を抱いているのはまさにそのためなのだから。
元気は、目元を和らげて穏やかな口調で言った。
「……晴高と千夏はこの件からは手を引いてほしい。これは俺の問題だし。相手は二人も殺してるんだ。危険すぎる」
そして千夏を見ると、微笑んだ。
「それと、千夏。いままでありがとう。俺、すごく楽しかった。いっぱい、良くしてくれてありがとう」
「元気!?」
元気がどこかに行ってしまう。自分の手の届かない遠くに行ってしまう。
千夏は思わず元気の腕をつかもうとした。しかしその手は空を切るだけで何も触れることはなかった。その手に千夏はぎゅっと拳をつくる。
もう元気は千夏に触れさせてくれるつもりがないんだ。彼の身体にも、彼の心にも。元気は、弱く笑う。泣きそうな笑みだった。
「ごめん。俺のことも、この事件のことも忘れて……」
「いやっ」
反射的に言葉が口をついて出てきた。
「……千夏」
「嫌だ。いやだいやだいやだ! そんなの絶対に嫌!」
千夏はいやいやをするように大きく首を横に振ると、テーブルの上に置いてあった元気の壊れたスマホを手に取った。
それをトートバックに入れて肩にかけると、元気の横を通り過ぎ、会議室の出口に向かって足早に歩きだす。
「おい! お前も、どこに行くんだよ!」
晴高の声に千夏は立ち止まってくるっと振り返ると彼に言った。
「警察に行ってきます」
「なんのために」
「決まってるじゃないですか! あの物件の敷地から、元気のスマホが出てきたことを教えてもう一度捜査をやりなおしてもらうんです!」
「ただ敷地からスマホが出てきたってだけじゃ、殺人の証拠になんかなりえるわけないだろ。俺たちはあの霊の記憶から教えてもらったからあの人が誰に殺されたのかもわかってるが、たぶん表向きは失踪したことになっているはずだ。遺体すらみつかってないのに、どうやって警察に動いてもらえるっていうんだ。まして元気の死亡は事故ってことで片付いてるんだぞ」
晴高の言うとおりだった。いまはまだ警察は、阿賀沢兄の件も元気の件も、殺人事件とすら認識していない。
「それは、そうですが……」
千夏は唇をかむ。理不尽に元気を殺しておきながら、まったく罪にすら問われていないだなんて。
「千夏、ありがとう。そうやって俺のために怒ってくれるだけでも、俺には充分だから」
穏やかな元気の声。ああ、そうだ。あなたはそうやって、たくさんの理不尽を飲み込んできたんだ。それがもう、悲しくて仕方がなかった。
「だって……許せないよ。元気には、もっとたくさんの未来があったはずなのに。楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、つらいことも。人としての人生の出来事がいっぱい残されてたはずなのに。それを全部、理不尽に奪ったやつらを許せない」
「でも、俺はそのおかげで君に出会えた」
はっきりと元気はそう口にする。それだけが、ただ唯一の真実なのだと。それだけが唯一の望みだとでもいうように。
千夏の瞳が滲む。
それでも。
「私と出会ってなくても、元気は生きていれば幸せになってたはずでしょ! 死んだことで見てきたたくさんの悲しい思いや、やりきれない思いをしなくて済んだでしょ!? それに……このまま元気を一人で行かせたら、元気が元気のままではいられないような気がしてすごく怖い」
晴高が言っていた、悪霊になるというものがどういうものなのかはよくわからない。でもそれはきっと、幸せとは真逆にあるものなのだろう。延々と終わらない怨嗟と苦しみの中にいることになるのだろう。
絶対に元気を一人で行かせてはいけない。それだけは、絶対に譲れなかった。
じっと睨むように元気を見つめる。元気も、こちらから目を離さず見ていた。
どれだけそうやって、お互い無言で膠着していたのだろう。その沈黙をやぶったのは、晴高の嘆息だった。
「どっちの希望も聞くわけにはいかないな。元気、自ら悪霊になろうとしているお前を俺が見逃すとでも思うのか? いますぐここで除霊するぞ。千夏、相手は二人も殺してる殺人犯だ。下手に動けば、お前の命だって危ない。……だから、まぁ結局、現状維持だ。三人で何とかするしかない。ただ目標は変える。あの霊を除霊か成仏させるっていうのは第二目標にして、第一目標は」
晴高は千夏と元気の顔を交互に見ると、二人の前に手を差し出した。
「殺人犯どもの検挙だ」
千夏と元気は目を見合わせると頷いた。そして、晴高の手の上に手を重ねる。
「幽霊物件対策班、再始動。だな」