秋の長雨が止んだ三日後の夜。
 ようやく千夏たちは神田の物件の現場調査に来ることができた。晴高が南京錠を外して蛇腹状の鉄柵を開ける。
「行くよ? 元気」
「あ、ああ、うん」
 ボンヤリと防音シートに覆われた現場を眺めていた元気を促す。いつも賑やかな彼が、今日はやけに口数が少ないように思う。
「どうしたの? 大丈夫?」
 元気の顔を覗き込むと、彼は苦笑を浮かべた。
「ああ。大丈夫。ちょっと考え事してて……」
「考え事?」
「うん。何度思い返してみても、俺がこの物件を担当してた頃はさ。そんな幽霊の噂なんて全く聞いた記憶がないんだよね。ってことは、いつの間に幽霊が住み着いたのかなって」
 これには晴高が応じる。
「最初の怪奇現象らしきものが現れたのは、前の建物の解体工事が始まったくらいかららしいな。元々家に憑いてた霊が上物《うわもの》の解体を嫌がって抵抗しだしたんじゃないのか?」
「そうだよなぁ。……まぁ、いいや。俺から入ればいいんだろ?」
「ああ、頼む」
 一番霊を感知しやすい元気が先に現場に入って安全を確認してから千夏たちが後に続くのが、最近の定番パターンになっていた。
 晴高がめくった防音シートの隙間から、元気が中に入る。十数秒後、中から彼の元気な声が聞こえてきた。
「今のところ、昼間とあまり変わりはないかな。見られてる気配はするけど、相変わらず隠れてる」
 それを聞いて、晴高と千夏も敷地の中へと入る。
 中は防音シートに囲まれてるせいであまり街灯の光も届かず、真っ暗だ。懐中電灯を向けたところだけ、闇が切り取られたように明るい。
 そのまましばらく待ってみたのだが、何も起こらなかった。
「これじゃ、ラチがあかんな。重機持ってきて掘る真似でもすりゃ出てくるか?」
「お前、重機の免許なんて持ってんの?」
「持ってるわけないだろ。本店の下請けから運転手付きで借りてくんだよ」
 なんて晴高が言ったときだった。
 ズンと空気が重くなる。急に身体の周りに粘着性の見えない何かがまとわりついたかのように、身体が動かない。
「来たな……」
 晴高の呟きが聞こえた。
 三人とも、示し合わせたわけでもないのに同じ一点を見つめる。そこだけ闇が一際濃いように感じた。
 どこからともなく、妙な音が聞こえてきた。

 ザクッ………ザザッ、ザクッ…………ザッ、ザザッ…………

 耳障りな音が三人を取り巻いていた。
(なに……? なんなのこの音……)
 足音とは違う。もっと重く、不規則な音だ。どこかで聞いた覚えもある。

 ザクッ………ザザザッ…ザッ、ザクッ…………ザッザッ…………

 すぐ耳のそばまで音は迫る。しかし、それが何なのかはわからない。ただ音だけが聞こえるのだ。
「何か掘ってるみたいな音だな」
 ぽつりと晴高が言った言葉で、千夏もようやく何の音なのかイメージが沸いた。
 スコップを深く地面につきつけ、足で体重をかけて地面に押し込み、土をすくってそばに捨てているような、そんな情景が頭の中に浮かんでくる。
 次いでボソボソと何かが聞こえてきた。チャンネルのあっていないラジオの音声のように、男声だということはわかるのに何を喋っているのかはまったく聞き取れない。
 しかも、音と声だけで霊の姿は見えない。これでは、触れて霊から情報を引き出すこともできそうにない。千夏は注意深くあたりに目を配る。
 そのとき。
「う、うわっ!」
 元気が大きな声をあげて、ぐらっと態勢を崩した。
 え? 何が起こったの!? と隣に立っていた元気に目を向けた瞬間、千夏は思わず叫びだしそうになった。慌てて口を自分の手で押さえて悲鳴を飲み込む。
 晴高の持つ懐中電灯に照らされた、元気の足元。そこに、いつの間に現れたのか、男の上半身が生えていた。
 頭も腕も身体も、泥と土にまみれていて人相はまったくわからない。しかし、土人形のような顔に浮かぶ、充血した目。開けた口からは白い歯と、赤い舌が覗いていた。ずっと聞こえていた声らしきものが、段々何を喋っているのか明瞭になってくる。

 ……ダマサレタ……ミヌケナカッタ……モウシワケナイ……

 その声と血走った眼に宿っていたのは、執念。もしくは怨念というべきものだったのだろうか。誰かに対するすさまじい恨みのようなものが一見して見て取れた。
「なんだこいつっ!?」
 地面にしりもちをついた元気の足に、男の霊は抱きついていた。
 元気は足で払いのけようとするが、男の霊は両腕でがっちりしがみついて離れない。そのうえ、ズルッズルッと元気の足が土の中へ引っ張り込まれそうになる。
「やばっ……こいつすげぇ力強い……」
 助けを求めて手を伸ばした元気。
「元気っ!?」
 その手を掴もうとした千夏を、晴高の声が制した。
「馬鹿っ! 今のソイツに触れるな!」
 そうだ。いま元気に触れれば、その元気に触れている霊の心と同調してしまう。それに気づいて慌てて手を引っ込めなきゃと思うが、もう遅かった。わずかに指が触れてしまっていた。千夏の頭の中でバチンと何かがスパークする。
 …………。
 暗かった千夏の視界が一面、真っ白になった。千夏はあまりの眩しさに目をすがめる。 白い光が収まると、目の前の景色に別の景色が重なっていた。