千夏は、廊下の奥でカバンを抱いてうずくまっている、その霊のそばへと歩いて行った。彼はカバンを挟むようにして足を抱き、小刻みに肩を揺らしていた。
『……ッ……ヒッ……』
 大量に集まってきた悪霊に驚いたのか、それとも死ぬ直前のことを思い出して今日もまた苦しんでいるのか。泣いているようだった。
「杉山、さん……?」
 千夏が腰をかがめてそっと声をかけると、杉山の肩がビクッと大きく揺れる。嗚咽が止まり、彼は顔をあげた。泣きはらしてはいたが、今日はあの半分つぶれた顔ではなく彼本来の顔をしていた。年齢はたしか、享年二十六歳。もう少し若く見える童顔の彼は、腫れぼったい目で千夏を見上げる。その目は、確かに千夏を捉えていた。今日は話が通じそうだ。
「アナタとお話をしにきました」
『ボクト……?』
 こくんと、千夏は頷く。
「アナタは毎週のように、そこから飛び降りています。そのことで住民から苦情が来たため、私たちが調べに来ました」
『ソウダ。ボクハ……イカナキャ……イカナキャ』
 杉山は虚空の一点を見つめ、両手で自分の髪の毛を掴むように掻きむしった。
「どこへ、行くんですか?」
 静かな声で千夏は尋ねる。
『カイシャ……イヤ……イキタクナイ……イケナイ……イカナキャ……ソレナラ……』
 ふらりと杉山は立ち上がる。カバンを胸に抱いたまま、ふらふらと落下防止柵のほうへと歩いていった。
 その彼の前に、元気が通せんぼするように立ちふさがった。
 杉山はよろける様に元気を避けて、なおも柵の方へ行こうとする。
 その彼の腕を元気が掴んだ。
「そっちに行ったって、道なんてないよ」
『ハナシテクダサイ……ボクハ……』
 晴高は三人とは少し離れて、こちらを注意深く見ている。右手にはあの水晶の数珠。もし、杉山が再び悪霊を呼び寄せるようなことがあれば、すぐさま除霊できるようにだ。
「杉山さん。アナタはもう、会社に行かなくていいんですよ」
 杉山の背中に千夏が言う。
『デモ、ユウキュウナンテツカエ……』
 その言葉に千夏は強くはっきりとした口調で言葉をかぶせた。
「アナタの会社は倒産しました。もう、あそこにあの会社はありません」
 杉山は動きを止める。その背中にさらに千夏はつづけた。
「六年前。アナタはそこから飛び降りて死にました。アナタの両親はアナタのために会社と戦って、アナタの自殺をパワハラと過労による自殺と認めさせました。その後、何があったのかまではわかりませんが、あの会社は倒産し、今は跡形もなくなっています」
 千夏は自分のトートバッグの中から、一枚の白い紙を取り出した。
 それは杉山が務めていた会社の法人登記簿謄本だった。そこには『破産』の文字。
 ゆっくりと杉山がこちらを振り向く。その目は驚きに見開かれていた。
 千夏はその登記簿謄本を杉山に差し出す。
「アナタを苦しませる会社は、もう、どこにもないんです。だからもう、何から逃げる必要もないの。それよりも、アナタの苦しみを癒してあげてください」
 杉山はカバンをぎゅっと握ったまま登記簿謄本を手に取るが、まだ信じられないような目で『ウソダ……』とつぶやいていた。
「じゃあさ。あとで夜が明けてから、一緒に会社があった現地を見に行こうぜ?」
 と、元気が提案する。
『エ……?』
「うん。それがいいよ。私たちも一緒にいくから。……どうですか?」
 杉山は、カバンと登記簿謄本を握ったまま困惑した目で千夏たちを見ていた。