「元気!?」
今にも柵の向こうに落下しそうになっていた千夏の身体を、元気が抱きかかえるようにして両腕でしっかりと掴んでいた。
黒いモヤは、なおも強い力で千夏の身体を柵の外へと引っ張ろうとするが、そこに凛とした声が飛んでくる。晴高の声だ。いつもよりも幾分強い早い調子で経を読む声。
彼の読経に合わせて、千夏を引っ張ろうとしていた力がすうっと弱まっていき、纏わりついていたモノはすべて空気に溶け込むように消えてしまった。
柵の向こうへ引っ張られていた力がなくなり、反動で千夏と元気は廊下側に倒れこむ。千夏は腕をついて上半身を起こすものの、足に力が入らず、廊下の床にぺたんと座るのが精いっぱいだった。足だけではない。全身に力が入らない。頭の中が真っ白になっていた。
「間に合って良かった。やつらに閉じ込められて、抜け出すのに時間かかってしまって」
晴高が言う。
「……俺も。気が付いたら、千夏に近づけなくなってて。ほんと、焦った」
元気は、千夏の隣で座ったままだ。
あと少し二人が駆けつけるのが遅れていたら、千夏は助からなかっただろう。今頃、あの杉山の霊と同じように頭から血を流して、遥か下の地面に横たわっていたかもしれない。
今頃になって急に恐怖がよみがえってきて、千夏の身体が小刻みに震えだす。自分の腕で身体を抱くが震えは止まらない。歯の根が合わない。怖くてパニックになりそうだった。そんな千夏の身体を、ふわっと温かいものが包み込む。
「え……?」
ワンテンポ遅れて、元気に抱きしめられているのだと気づく。
「良かった。ほんとに、良かった」
彼は、千夏を抱きしめたまま、噛みしめるように何度も呟いた。元気のふわふわとした明るい髪色の頭がすぐそばにあった。
「元気」
千夏はしがみつくように彼の身体に腕を回して抱き着いた。その温かく確かな感触に、心が落ち着きを取り戻してくる。千夏の震えは彼の温かさに溶かされるように、いつの間にか止まっていた。
でも、心が落ち着いてくると今度は疑問が湧いてくる。なぜ、元気は自分の身体に触れているのだろう。なぜ自分は元気に触れているのだろう。彼は幽霊のはずなのに。これは夢なんだろうか。
千夏が少し身体を動かすと、彼はパッと身体を離した。
「あ、ごめん。つい。痛かった!?」
心配そうな元気に千夏は首を横に振ると、彼を安心させたくて口元に笑みを作った。
「ううん。大丈夫。助けてくれて、ありがとう」
そう言うと元気もようやく安心したのか、「よかった」と言ってほっと表情が緩んだ。
「ケガはないか?」
晴高にもそう聞かれたが、千夏はゆるゆると首を横に振る。
柵に押し付けられたお腹のあたりがまだ少し痛むが、そのうち痛みも治まるだろう。
「いえ、大丈夫そうです」
その返答に、晴高は、はぁと大きく息を吐いた。嘆息というよりは、安堵のため息のよう。次いで、端正な彼の顔が歪む。
「……すまない。俺のミスだ。資料に目を通していたはずだったのに、見逃した」
「……え?」
きょとんとする千夏に、晴高は彼のスマホを見せてくれた。そこには見覚えのある新聞記事が表示されている。
「おそらく、今日は杉山の6回目の命日だったんだろう。つまり、七回忌だ。七回忌には、霊の力が最も強まる。ましてここは、繁華街が近い場所柄だ。人が多い場所には人の悪意や悪霊も多く渦巻いている。強まったアイツの負の感情に引き寄せられて、悪霊たちが集まっていたんだろうな。一時的に、ここは悪霊の巣窟となっていた」
千夏をマンションの十四階から落そうとしたのは、そうやって集まった悪霊たちだったのだろうと晴高は教えてくれた。
「といっても、もうさっきあらかた散らしたから、当分は大丈夫だろう。あとでもう一回ちゃんと除霊しとく。……本当に、すまなかった」
そういって、晴高は千夏に頭を下げた。
「いや。そんな。大丈夫ですよ。晴高さんも元気も助けにきてくれたじゃないですか。ありがとうございます。おかげで私、いまも、ちゃんとこうやって生きてますし」
千夏は自分の胸をぽんぽんと手の平で叩いた。
「そうか。……良かった、ほんとに」
そう言うと、晴高は安堵からか僅かに笑みをこぼした。
(お……)
この人が笑った顔を初めて見た。
「心配、してくれてたんですね」
千夏の言葉に、晴高は急にムッとしたような顔つきになる。
「……当たり前だろ。霊相手の仕事は、いつどう転ぶかわからない。自分のことなら大抵はどうにかなるし、どうにかならなくても諦めもつくが。お前らに何かあったらと思うと、胃が痛くて夜も眠れなくなる」
『お前ら』と言っているあたり、彼の心配の中には元気も入っているようだった。普段、除霊するだのなんだの言っている割には、実はちゃんと彼のことを同僚と認めている様子なのが千夏にはちょっと嬉しかった。
そんなことを考えていたら、傍にいた元気がスッと腕を上げて廊下の奥を指さした。
「なあ、ところでさ。アレ、どうする?」
廊下の奥に人影がひとつ見えた。うずくまっているようだ。顔は見えないが、ビジネスカバンらしき四角いものを抱いて座り込んでいる。どうやらあれは本物の杉山の霊のようだ。
「さっきまで、あんなとこにアイツの姿なんか見えなかった。たぶん、俺と同じように悪霊たちに邪魔されて隠されてたんだろうな」
と、元気は言う。そこでようやく思い出した。今日ここにきた目的は彼を説得することだったんだ。晴高に視線を向けると、彼もこちらを見て頷く。今日の仕事の本当の目的は、まだこれからだ。
今にも柵の向こうに落下しそうになっていた千夏の身体を、元気が抱きかかえるようにして両腕でしっかりと掴んでいた。
黒いモヤは、なおも強い力で千夏の身体を柵の外へと引っ張ろうとするが、そこに凛とした声が飛んでくる。晴高の声だ。いつもよりも幾分強い早い調子で経を読む声。
彼の読経に合わせて、千夏を引っ張ろうとしていた力がすうっと弱まっていき、纏わりついていたモノはすべて空気に溶け込むように消えてしまった。
柵の向こうへ引っ張られていた力がなくなり、反動で千夏と元気は廊下側に倒れこむ。千夏は腕をついて上半身を起こすものの、足に力が入らず、廊下の床にぺたんと座るのが精いっぱいだった。足だけではない。全身に力が入らない。頭の中が真っ白になっていた。
「間に合って良かった。やつらに閉じ込められて、抜け出すのに時間かかってしまって」
晴高が言う。
「……俺も。気が付いたら、千夏に近づけなくなってて。ほんと、焦った」
元気は、千夏の隣で座ったままだ。
あと少し二人が駆けつけるのが遅れていたら、千夏は助からなかっただろう。今頃、あの杉山の霊と同じように頭から血を流して、遥か下の地面に横たわっていたかもしれない。
今頃になって急に恐怖がよみがえってきて、千夏の身体が小刻みに震えだす。自分の腕で身体を抱くが震えは止まらない。歯の根が合わない。怖くてパニックになりそうだった。そんな千夏の身体を、ふわっと温かいものが包み込む。
「え……?」
ワンテンポ遅れて、元気に抱きしめられているのだと気づく。
「良かった。ほんとに、良かった」
彼は、千夏を抱きしめたまま、噛みしめるように何度も呟いた。元気のふわふわとした明るい髪色の頭がすぐそばにあった。
「元気」
千夏はしがみつくように彼の身体に腕を回して抱き着いた。その温かく確かな感触に、心が落ち着きを取り戻してくる。千夏の震えは彼の温かさに溶かされるように、いつの間にか止まっていた。
でも、心が落ち着いてくると今度は疑問が湧いてくる。なぜ、元気は自分の身体に触れているのだろう。なぜ自分は元気に触れているのだろう。彼は幽霊のはずなのに。これは夢なんだろうか。
千夏が少し身体を動かすと、彼はパッと身体を離した。
「あ、ごめん。つい。痛かった!?」
心配そうな元気に千夏は首を横に振ると、彼を安心させたくて口元に笑みを作った。
「ううん。大丈夫。助けてくれて、ありがとう」
そう言うと元気もようやく安心したのか、「よかった」と言ってほっと表情が緩んだ。
「ケガはないか?」
晴高にもそう聞かれたが、千夏はゆるゆると首を横に振る。
柵に押し付けられたお腹のあたりがまだ少し痛むが、そのうち痛みも治まるだろう。
「いえ、大丈夫そうです」
その返答に、晴高は、はぁと大きく息を吐いた。嘆息というよりは、安堵のため息のよう。次いで、端正な彼の顔が歪む。
「……すまない。俺のミスだ。資料に目を通していたはずだったのに、見逃した」
「……え?」
きょとんとする千夏に、晴高は彼のスマホを見せてくれた。そこには見覚えのある新聞記事が表示されている。
「おそらく、今日は杉山の6回目の命日だったんだろう。つまり、七回忌だ。七回忌には、霊の力が最も強まる。ましてここは、繁華街が近い場所柄だ。人が多い場所には人の悪意や悪霊も多く渦巻いている。強まったアイツの負の感情に引き寄せられて、悪霊たちが集まっていたんだろうな。一時的に、ここは悪霊の巣窟となっていた」
千夏をマンションの十四階から落そうとしたのは、そうやって集まった悪霊たちだったのだろうと晴高は教えてくれた。
「といっても、もうさっきあらかた散らしたから、当分は大丈夫だろう。あとでもう一回ちゃんと除霊しとく。……本当に、すまなかった」
そういって、晴高は千夏に頭を下げた。
「いや。そんな。大丈夫ですよ。晴高さんも元気も助けにきてくれたじゃないですか。ありがとうございます。おかげで私、いまも、ちゃんとこうやって生きてますし」
千夏は自分の胸をぽんぽんと手の平で叩いた。
「そうか。……良かった、ほんとに」
そう言うと、晴高は安堵からか僅かに笑みをこぼした。
(お……)
この人が笑った顔を初めて見た。
「心配、してくれてたんですね」
千夏の言葉に、晴高は急にムッとしたような顔つきになる。
「……当たり前だろ。霊相手の仕事は、いつどう転ぶかわからない。自分のことなら大抵はどうにかなるし、どうにかならなくても諦めもつくが。お前らに何かあったらと思うと、胃が痛くて夜も眠れなくなる」
『お前ら』と言っているあたり、彼の心配の中には元気も入っているようだった。普段、除霊するだのなんだの言っている割には、実はちゃんと彼のことを同僚と認めている様子なのが千夏にはちょっと嬉しかった。
そんなことを考えていたら、傍にいた元気がスッと腕を上げて廊下の奥を指さした。
「なあ、ところでさ。アレ、どうする?」
廊下の奥に人影がひとつ見えた。うずくまっているようだ。顔は見えないが、ビジネスカバンらしき四角いものを抱いて座り込んでいる。どうやらあれは本物の杉山の霊のようだ。
「さっきまで、あんなとこにアイツの姿なんか見えなかった。たぶん、俺と同じように悪霊たちに邪魔されて隠されてたんだろうな」
と、元気は言う。そこでようやく思い出した。今日ここにきた目的は彼を説得することだったんだ。晴高に視線を向けると、彼もこちらを見て頷く。今日の仕事の本当の目的は、まだこれからだ。