マンションの最上階の廊下に突然現れたソレは、人影のように見えた。でも、どうにも輪郭がおぼろげだ。人の形をしているのに、目を凝らしてもはっきりとした輪郭がつかめない。
 廊下の照明の下をふらふらと頼りない足取りでこっちに向かって歩いてきたかと思うと、途中で向きを変えて今度は背中を向けて後戻っていく。そうやって、廊下を行ったり来たりしていた。
 千夏はスマホのSNSで晴高に霊が出たことを報告する。晴高からは、「わかった」と一言だけ返ってきた。相変わらず、必要最小限の言葉しか返ってこないが、既読スルーされなかっただけマシだと思ってしまうあたり、だいぶ晴高の人となりにも慣れてきたのかもしれない。
「元気、どうする? 近づいてみる?」
「どうするもなにも……あ、ほら」
 どう接触しようか迷っていたところ、霊らしき人影は1401号室の前で動きを止めた。そして廊下の落下防止柵にとりつく。なんだか、下を覗きこんでいるようにも見えた。
 千夏と元気は互いに目を合わせて頷き合うと、静かに人影の方へと近寄った。
「……そこで、何をしてるんですか?」
 思い切って、声をかけてみる。でも、人影は柵にくっついたまま動かなかった。
 遠目に見たときはおぼろげな輪郭だと思ったけれど、この距離まで近づいてようやくどんな外見をしているのかが千夏にも判別できる。
 ソレは男性の霊のようだった。歳のころは千夏と同じか、もっと若いくらいだろう。灰色のスーツを着ていて、胸にビジネスカバンを抱きしめていた。
 彼は、柵から頭を突き出してジッと下を覗き込んでいる。
 こちらのことは目にも入っていないようだ。
 その姿は、飛び降りるのを迷って葛藤しているようにも見えた。
 死ぬ前も、彼はそうやってここでジッと下を眺めていたんだろうか。
 長い間葛藤して、迷って。それでも、飛び降りてしまったんだろうか。
 そして死んだあとも、彼はそれを何度も繰り返している。もしかしたら、彼は自分が死んだことに気づいていないのかもしれない。同じ苦しみを味わい続け、同じ死の瞬間を迎え続ける。
 そんなことを思うと千夏には彼が気の毒に思えてきて、もう一歩近づくと再度声をかけた。
「……あの……」
 そのとき、うつむいて動かなかった霊がのっそりと顔を上げた。ゆっくりとこちらを振り向く。
(……ひっ…………!!!!)
 その顔を見て、千夏は凍り付く。
 こちら側に見えていなかった顔の半分はぐちゃぐちゃに潰れていた。割れた頭蓋が皮膚の間から見え、その中にあったであろう中身と血が肩や髪にこびりついていた。

 ……ア゛ア゛ア゛……

 ヒューヒューと空気が漏れるような音が混ざる、うめき声。男の霊は、千夏に手を伸ばしてきた。
 驚きのあまり逃げることもできず、千夏はその霊の姿から目を離すことすらできない。霊の指が千夏の顔にあと少しで触れそうというところで、千夏の後ろにいた元気が霊の腕を掴んだ。
「汚い指で、触るなって」
 驚いたのか霊は手を引っ込めようとしたが、元気が手首をシッカリつかんでいるので離れない。霊は戸惑っているようだった。それもそうだ。まさか他の霊に腕を掴まれるとは思ってもみなかったのだろう。

 ヤダ……モウ……イヤダ……モウ、イキタクナイ

 霊は何度もそう繰り返す。
「いきなり邪魔してごめんなさい。だけど、教えてほしいの。なぜ、アナタは何度も飛び降りようとするの?」
 千夏も霊に問いかける。元気がいてくれるおかげで、凄惨な顔をした霊が相手でも怖い気持ちはかなり小さくなっていた。しかし霊は千夏の声は聞こえていないかのように、ぶつぶつと同じことを繰り返すばかり。
 そのときふと、松原涼子の霊と接したときのことが頭に浮かんだ。あのとき、涼子を掴む元気に触れたら、彼女の記憶のようなものが頭の中に流れ込んできた。もしかしたら、同じ状況になればまた同じことが起こるんじゃないだろうか。
「ごめんなさい。ちょっと、試させて……」
 そう断りながら、千夏は元気の腕に触れた。目には触れたように見えても、手には何の感触もない。
 それでもバチンと、頭の中で何かがスパークした。大きな静電気が起こったような衝撃。
 …………。
 一瞬、視界がホワイトアウトする。
 視界を覆った白い光はすぐに消えるが、目の前の景色にもう一枚、別の景色が重なって見えた。