「資料、読んだか?」
 社用車の中で、運転席しながら晴高が聞いてくる。助手席に座る千夏はコクンと頷いた。元気も、いつものごとく後部座席に乗っている。彼は勝手についてくるので、なんだかすっかり一緒に現場に行くのが常になってしまっていた。
 車は今回の現場である新宿区大久保のマンションに向かう。八坂不動産管理が管理業務を請け負っている分譲マンションで、管理組合からの心霊現象をなんとかしてほしいとの要請だった。
 なんでも、深夜にマンションの上階から飛び降りる人影を見たという人が何人もいるらしい。自殺か?事件か?と驚いて、人が落ちたと思しき場所に行ってみても、そこには誰もいない。そんな事がたびたび起きているのだそうだ。
「それって、そのマンションで過去に飛び降り自殺した人の霊とか、そういうのなんですかね」
「その可能性は高いな。ただ、いかんせん、築年数の古いマンションなんでな。うちが管理を請け負い出した二年前以降の記録ならすぐに見れるが、それ以前の他社に管理を依頼してた時代のものはさっぱりわからん。一応新聞やネットを調べてみたが、何も引っかからなかった。飛び降り自殺なんて珍しくも無くて、いまどきニュースにもならないんだろう」
 昨今は個人情報保護の関係もあって、警察に尋ねても過去の事件のことなど教えてもらえないので、情報収集は困難がつきまとうことも多い。
 着いたのは、都心へのアクセスも良い閑静な住宅街だった。そこに建つ十四階建てのファミリー向けマンション。その敷地で晴高は車を止めた。
 築年数二十年ほどで、戸数150程のそこそこ大規模なマンションだ。
 飛び降りる霊は、目撃される場所も目撃されたときの状況も毎回だいたい同じ。いつも、日曜日から日付が変わったあとの月曜日の夜2時前後に目撃されている。
 霊がよく出没する地点は、最上階である14階の共用廊下。その一番奥の辺りだった。
 廊下には千夏の胸元ぐらいの高さの落下防止柵はあるものの、柵の向こうに頭を出して下を覗き込むとかなりの高さだった。目がくらみそうになる。
「うわぁ……こっから落ちたら一たまりもないですね」
 地面が遠い。それでも落ちるときは一瞬なんだろうな。
「こういう現場で、そういうことするなよ。悪意のある霊に引っ張り込まれるぞ」
 冗談とも本気ともつかない淡々とした晴高の言葉に、千夏はヒエッと身体を引っ込めた。こんなところから引っ張り落とされたら一巻の終わりだ。
「幽霊男、何か見えるか?」
 晴高に尋ねられ、元気は「うーん」と小首を傾げる。
「気配は若干感じる。でも、かなり薄いかな。隠れてるというよりは、もともとそんなに強くない」
「まあ、落ちるだけで他に何か悪さするような霊じゃないみたいだしな。気にしなきゃいいんだろうが」
 いやいやいやいや。晴高はその程度のことなら気にしないかもしれないけど、時々上から人が落ちてくる影が見えるってだけでも、住んでる人にとっては大問題なんじゃないだろうか。生きている人間にとって、自殺する瞬間を見せられるのは薄気味悪いどころの話ではないもの、と千夏は心の中で突っ込んでおく。
「とにかく、その霊本人を実際に見て視ないことには始まらないな」
 というわけで、翌週の日曜深夜にマンションの張り込みをすることになった。

 現場調査当日。
 夜中になるのを待って、千夏たちはマンションにやってきた。千夏と元気は十四階、晴高は一階の落下地点で待機することにする。
 このマンションは『く』の字のような形をしていて、その真ん中にエレベーターが設置されていた。いつも霊が出るのはその廊下の端にある『1401号室』の前あたり。出没地点にあまり近づきすぎると霊が出てきてくれないかもしれないので、千夏たちはエレベーターホールに隠れるようにして廊下の端を観察していた。
 深夜に霊が出る場所にいるのは正直いって気持ち悪いけど、元気がそばにいてくれるので安心できた。
「出てきてくれるかな」
 壁に隠れるように頭だけ出して、廊下の先を見つめながら千夏は呟く。
「さあ。出てきてくれるといいよね」
 深夜だけあって、マンションには人通りもほとんどない。
 腕時計を見ると、夜の1時45分を過ぎたころだった。霊がよく目撃される時間帯は夜中の2時頃。そろそろかな、そう思ったときだった。
 元気が、耳元で小さくささやいた。
「あれ」
 彼が指さした先。
 いつの間に、そこに現れたのか。廊下の先に一つの人影が見えた。
 しかしエレベーターを使った形跡はなかったし、どこかの部屋のドアが開く音もしなかった。
 つまり、あの人影は音もなく突然そこに現れたことになる。
 ぞわと千夏の腕に鳥肌が立った。あれは、人ならざるものだ。