職場に戻って今回の案件の報告書を書いていたら、いつの間にかオフィスに残っているのは千夏だけになっていた。隣の席に元気が座っているので寂しさはないけれど、彼はいま、千夏から借りたタブレットを熱心に眺めている。今見ているのはニュースページのようだ。
「そろそろ帰ろうかと思うんだけど」
「ああ、うん。じゃあ、このタブレット返すよ。貸してくれてありがとう」
 そう言って、元気は柔らかく笑う。
 晴高から聞いたところによると、元気は千夏が配属されてくるまではその席に座って、俯いたまま始終ぼんやりしていることが多かったようだ。ときどき場所を変えることはあるものの、大半の幽霊と同じでただ虚ろに佇んでいたという。
 でも、話しかければ意思の疎通ができる相手にずっと隣の席でぼんやり俯かれているのはなんだか落ち着かない。そこでタブレットを彼に貸してあげたところ、とても喜んでくれた。三年も幽霊をやってきて、知的刺激に飢えていたのかもしれない。
「それじゃあ、また明日」
「ああ、気を付けてね」
 千夏はトートバッグにタブレットを仕舞うと、肩にかける。
 オフィスの出入り口まで歩いていくと、壁際にある照明のスイッチをオフにした。パッと室内の照明が消えて、光源は非常出口のおぼろげな緑の明かりだけになる。
 オフィスを出るとき一度振り返ると、ひっそりと席に座わっている彼の後ろ姿が見えた。真っ暗な広いオフィスにぽつんと一人残され、静かに俯き加減で座るその姿はまるで幽霊のように見える。幽霊だけど。
 ころころとよく表情を変え、よく笑い、よく喋る彼と、精巧に作られたオブジェのように微動だにしない俯いた彼。まるでスイッチがオンオフするかのようだ。
 千夏はオフィスを出てエレベーターへと向かったものの、さっき見た元気の姿が脳裏にこびりついて離れないでいた。
 彼も生きていたころは、仕事が上がれば自宅に帰ったり飲みに行ったり、友人や彼女と会ったり、そうやって普通に暮らしていたのだろう。でも、今の彼にはほかに帰るべき場所もなければ、休めなくてはいけない肉体もない。いまの彼はああやって毎晩、ただ夜が過ぎるのを待っているんだろう。眠ることもなく、一人っきりで。
 エレベーターが昇ってきた。一階から二階へと表示があがってくるのを見上げながら、ふとこんな思いが頭をよぎる。
(別に、この場所でなくてもいいんじゃない? 元々特に思い入れがあるわけでもなさそうだったし)
 それに、なぜか千夏自身が彼をこんなところに一人で置いておきたくなかった。
 そう思ったらもう、足が勝手に動き出していた。
 背後でチンとエレベーターが三階についた音がする。
 けれど、千夏の足はオフィスへと踵を返していた。オフィスのドアを開けると、うつむいて座る彼の背中に声をかける。
「ねぇ! 元気!」
 突然響いた千夏の声に、彼が驚いたようにこちらを振り向いた。
「びっくりしたぁ。どうしたの、忘れ物?」
「そう。忘れ物なの」
 すたすたと元気の元へ歩いていくと、彼はまだ戸惑った様子で千夏を見上げる。手を伸ばして彼の腕をつかもうとするけれど、その手はスカッと空を切った。
(そうだ。つかめないんだったっけ)
 あははと笑って腕を引っ込めると、元気の目を見る。
「あのさ。アナタ、夜はいっつもそこでじっとしてるんでしょ?」
「ああ、うん。そうだけど……」
 千夏は、「じゃあさ」と笑いかけた。
「うちに来ない?」
 元気の目が大きく見開かれるのがわかった。
「……え?」
「だからさ。ずっとそこに座っててもつまんないでしょ? うちに帰ればタブレットもまだ貸してあげられるし、パソコンとかテレビもあるから、アナタも楽しめるんじゃないかなって思って。……それとも、ここにいなきゃいけない理由とかあるの?」
 元気は困ったような焦ったような顔で千夏から視線を逸らすと、口元に手を当てて考えるしぐさをする。
「別にここにいなきゃいけない理由もない、けど……」
 戸惑いがちに零れ落ちた言葉に、千夏はパッと笑って。
「じゃあ、いいじゃない。うちにおいでよ。缶ビールくらいなら、おごるわよ」
 まだしばらく元気はどこか照れ臭そうに迷っていたが、ビールにつられたのかコクンと頭を縦に振った。
「それなら……お邪魔させてもらおうかな」
「ええ。是非どうぞ」
 そう言うと二人の視線が絡み、どちらともなく笑みがこぼれた。