千夏は晴高に断って会議室を借りると、そこに置かれているパイプ椅子の一つに腰を掛けた。元気も一緒に会議室に入る。わざわざこの部屋を借りたのは、元気と話しているところを他の人に見られて不審がられないようにするためだった。
「さてと。まずは松原さんのご両親に電話してみましょう。本当に松原涼子さんがミーコっていう猫ちゃんを飼っていた事実があるのか、もしそうだとするとその猫ちゃんがいまどこにいるのかを確認してみないとね」
 そう言うと涼子は会議室にある電話を手に取った。
 千夏はメモしてきた電話番号を打ち込むと、受話器を耳に当てる。隣にいる元気に聞こえるようにハンズフリー通話にした。
 しばらく呼び出しが続いて、留守なのかと電話を切ろうとしたときだった。
「はい」
 穏やかな女性の声が聞こえた。
 電話の主は松原涼子の母親だった。はじめは怪訝そうな声だったが、お嬢さんはお部屋で猫を飼ってらっしゃいましたか?と尋ねると、彼女の声のトーンが変わった。
「ミーコが戻ってきたんですかっ!?」
「やはり、お嬢様は猫をお飼いだったんですね」
 あの物件はペット可物件だったので、それ自体は何ら問題はない。ただ、賃貸契約を結んだ当時はまだ何も飼っていなかったためか、ペットに関しての記録は賃貸契約書類の中には含まれていなかったから、いままで本当に飼っていたのかどうかは判然としなかったのだ。でも、これではっきりした。やはり松原涼子はミーコという猫を飼っていた。
「ええ。二年前、だったかしら。お友達から譲ってもらったとかで。ロシアンブルーのとてもきれいな猫だったんですよ。とても可愛がっていたんです。でも少し前に、うっかり逃がしてしまったようで……娘はひどく気落ちして、悔やんでいました。自分がうっかり窓を閉め忘れたせいだ、って」
 そして、ミーコがいなくなって以降。彼女は時間を作っては、あちこちにミーコを探しに行っていたのだという。そこまでは、千夏が予想したとおりの展開だった。でも一つ気になっていることがある。それは、母親の第一声のこと。
「すみません。ちょっとお伺いしたいのですが、……ミーコちゃんはまだ涼子さんのもとに戻ってはいなかったんですか?」
 そう尋ねると、電話の向こう側で母親は声に涙を滲ませた。
「ええ……あれだけミーコに会いたがっていたのに。結局、見つける前に涼子はあんなことに……。こちらに連絡くださったのは、ミーコがあのアパートに戻ってきたのかと思ったんですが、そうではないんですね」
「はい……申し訳ありません。私たちもできる限りそのミーコちゃんを探してみます。また何か進展がありましたらご連絡いたしますね」
 そして、丁重に礼を述べると、そっと電話を切った。
 傍らでずっと電話の内容を聞いていた元気を見上げる。
「ミーコ、まだ見つかってないんだって。どういうことなんだろう?」
 元気も首を傾げた。
「俺たち、あの涼子さんの記憶らしきもので見たよな? 猫が逃げ出した直後に涼子さんが探してる景色と……どこかの神社みたいなとこで、ミーコらしき猫を見つけたところ」
 こくんと千夏はうなずく。そうなのだ。千夏たちは、涼子がミーコを見つけた光景を見ている。電話で涼子の母親もミーコはロシアンブルーだと言っていた。それも霊の記憶を通して見た特徴と一致する。
「涼子さんは、必死にミーコちゃんを探していて、そしてあの神社の床下でようやくみつけた。でもケガをしていたからどこかの動物病院に預けたけれど、そのあとご本人が急逝してしまった……ということなのかな」
 それが一番妥当な線のように思えた。せっかく見つけたのに家に連れ帰る前に不幸にも涼子は急逝してしまい、猫の所在を家族に伝えることもできなかった……という筋書き。
 しかし、元気はまだ納得がいかないといった様子で腕を組んで首を傾げている。
「でも、そうだとしてもだよ? あんな霊になって彷徨うほどのことかな。動物病院の人がカルテを見て携帯に電話すれば、家族とも連絡つくだろ?」
 たしかに、何かがひっかかる。亡くなった娘のスマホをそんなに早く解約するとも思えないから、きっといまは両親の手元にあるはず。連絡がつかないとは考えづらい。
 でも、涼子の霊はしきりに『ミーコ』『タスケテ』『シンジャウ』と言っていた。動物病院にいるのなら、なぜそんなことを周囲の人に訴える必要があったのだろう。
「なあ。俺もさっき気づいたことがあるんだけどさ。涼子さんのものらしき記憶を見たときに、街の中をひたすら探し回ってるの視ただろ?」
「うん。視たわね。必死に探してる想いがひしひしと伝わってきた。本当に、ミーコちゃんのことを大事に思っていたんだろうね」
「あの中にさ、民家の塀をひょいっと飛び越えて内側を覗いてるときがあったの覚えてる?」
「え?」
 言われてみれば、そんな景色を見た記憶がある。自動車の下を覗いたり、路地を覗いたりしていて、その次に、ひょいっと塀の上から民家の庭を……。
「あれ、千夏、自分でやろうと思ってできる?」
 塀は明らかに目線よりもずっと高かった。おそらく涼子が平均的な女性の伸長だったとすると、二メートルくらいだろうか。それをあの景色を見ていた人物は、助走もつけずにひょいっと覗いて……そして、その場に数秒停止していた。
 その事実の意味するところを理解して、千夏の腕にぞわっと鳥肌がたつ。
「……できるはずがない」
「だよな。生きてる人間には無理な動きだと思う。でも、俺にはできるよ? あまり人間っぽくない動きはしたくないから普段はしないけど、やろうと思えばできる。ほら」
 元気は軽くとんっとその場でジャンプする。生きている人ではありえないくらいの高さまで飛び上がると、その場から静止して千夏を見下ろした。そして、再びストンと床まで下りてくる。
「……じゃあ、ということは……」
「そう。あの街でミーコを探して、そして見つけたのはたぶんだけど。死んだあとの涼子さんだ」