「いたたた、汁が目に……」
 慌ててハンカチで目元を拭う。課長から借りたハンカチが大活躍だ。
 周囲は酔っ払いばかりのためか、本田さんの発言に注意を向けたのは私くらいだったのが幸いである。
 ふと周りを見回すと、佐藤さんの姿はすでにない。もう帰ったらしい。
 昼間のできごとを考えれば、課長や私と同席して楽しくお酒を飲もうなんていう気になれないだろう。
 私はできる限り声をひそめ、本田さんに問い返した。
「本田さん、どうして知ってるんですか。見てたんですか?」
 告白の現場を目撃したのはまさに私なのだが、課長が近くにいるのに大声でプライベートなことを暴露するのはよろしくない。
 横目で課長を見やると、彼は男性社員たち三人ほどで話し込んでいた。神妙な顔つきをしているので仕事に関する話題らしい。彼らが、こちらの会話に気づいた様子はない。
 華やかな巻き毛を揺らした本田さんは、楽しげに話す。
「そりゃわかるわよぉ。だって佐藤さんは、一年前の私にそっくりなんだもの」
「えっ? 一年前ですか?」
「そうそう。私もあんなふうに鬼山課長をきらきらした目で見て、告白してフラれて、デスクで落ち込んだわけ。なーんで社内で告白しなくちゃいけないか、わかるぅ?」
 そんなことがあったとは知らなかったが、本田さんは相当酔っている。呂律が怪しい。
 私は冷や汗を滲ませつつ答えた。
「わかりませんけど、声を抑えてください。お願いします。課長がそこにいるんですから」
「かまわないわよぉ。冷徹な鬼山課長は誰にも心を動かされないんだから。お食事に行きませんかって誘っても絶対に首を縦に振らないんだもの。だから会社で告白するしかないってわけ」
「はあ。ちょっと、お水とおしぼりを持ってきますね。本田さん、口を閉ざして待っていてくださいね!」
 仕事をいろいろと教えてくれた先輩の本田さんを放っておくわけにもいかず、私は彼女の酔いを醒ますべく、慌てて店のスタッフにおひやと冷たいおしぼりを頼んだ。
 コップとおしぼりを携えて戻ってきた私を、本田さんは言われたとおりに黙然として待っていてくれた。
 しかし、ぐびりとコップの水を飲んだ本田さんは目が据わっている。
「告白しても無駄よって、佐藤さんに忠告してあげようかなと思ったけどさぁ、何事も自分で体験してみないと身に染みないじゃない? だから黙ってたのよね。どうせ、『興味がない』でしょお? まあ、鬼山課長は誰とも付き合わないわけだから、私に限らず告白した女たちは納得できてるんじゃないかしらね……」
「はあ。誰のものにもならないから永遠に私のものでもある、ってことですかね?」
「そうそう、そういう……う~ん? なんかちがうわねぇ」
「そうですかね。違うんですかね」
 酔っ払いを宥めるには適当に話を合わせるべきである。
 今の本田さんの台詞を真に受けてはいけないが、納得できていると言いながらも、彼女の根底では課長に対して未練があるらしい。まったくもって罪な鬼上司だ。
 言いたいことを吐き出した本田さんは、炎が鎮火したかのように項垂れた。
 そろそろおひらきという頃合いになり、社員たちは次々に席を立つ。
「本田さん、タクシーで帰りますか?」
「そうね~。ちょっと、酔っちゃったかなぁ」
 居酒屋の外に出て「お疲れ様でした」と、みんなと声を掛け合う。本田さんとは家の方向が一緒なので、私も同乗しようとタクシーの列に並ぶ。
 すると、そこへくだんの人物から冷静な声がかけられる。
「星野さん」
 おそるおそる振り返ると、まるきり素面のような鬼山課長が立っていた。
 彼の顔色は全く変化がなく、声色も仕事のときと同じである。
 課長もけっこうな量を飲んでいたようだけれど、あれは水だったのかと思うほどの怜悧な雰囲気が醸し出されていた。
「は、はい。なんでしょうか」
「ハンカチ、返してもらえるかな?」
 乾杯のあとにハンカチを貸してもらったことをすっかり失念していた。私は慌ててバッグから取り出すが、何度も使用したので汚れているわけで。
 借りたハンカチは洗って返すのが礼儀だろう。
「あの、洗ってからお返ししますね」
「それは困るんだよね」
「はあ……ですが、ビールの泡がついていますし」
「レモン汁もね」
 即座に返答する課長に眉をひそめる。
 いつの間にか見ていたらしい。
 そんなにも行く末が気になるくらい大切なハンカチなら、なぜ私に貸したのだろうかと疑問符が湧く。
 今思うと、店のおしぼりで拭けばよかったのだ。
 それを思いつかないほど、課長がハンカチを差し出すスピードは速かった。まるで用意していたかのように。
「それじゃあ、私はお先に~。おやすみなさ~い」
 やってきたタクシーに乗り込んだ本田さんは、私を置いて帰ってしまった。
 無情に去って行くタクシーを見送った私の背に、課長はさりげなく手を添える。タクシーの待機列から逸れた鬼山課長は平静に述べた。
「この状況を打破する最善の方策がある」
「なんでしょうか?」
「歩きながら話そう。こちらへ」
 促されたので居酒屋の軒先を離れ、歩道を並び歩く。
 火照った頰を撫でる夜風が心地好い。たまには歩くのもいいかもしれない。
 歓楽街を出ると喧噪は遠くなり、そこには静かな川縁が広がっていた。
 私は思わず目を瞑り、静寂な夜の匂いを堪能する。
「あー……夜の匂いって、どうしてこんなにいい香りなんだろ」
 正確には草や土の香りが風に乗って流れてくるのだと思うが、夜独特のこの匂いが大好きだ。
 それを私は、夜の匂いと称している。
 隣を歩く課長は、ぽつりと呟く。
「夜の匂いか……」
「この香りを嗅ぐと、非日常に迷い込んじゃうような気がしません?」
「確かにね」
 一八〇センチ以上ある高身長の課長と並ぶと、彼の肩が私の目線よりも上にある。
 そこからなら、夜の静謐が存分に見渡せることだろう。
「危ないよ」
 ふいに課長が、私の手を引いた。
 そのとき、さっと目の前の道路を何かの影が横切る。
「あ……猫ですかね?」
 その影はすぐに消えてしまった。
 猫にしては少々小さかった気がするけれど、一瞬だったのでよくわからない。
 課長は猫に気づいて、私の手を引いてくれたのだ。
「……見えたのかい?」
 妙に重々しい口調が気になるが、お酒が入っている私はほろ酔いでいい気分になっており、朗らかに答えた。
「見えましたよ。でも何色の猫かはわかりませんでしたけど。課長は見ました?」
「ああ……。あれは灰色だ。鼠(ねず)又(また)という名のあやかしだよ」
「ねず……?」
 聞き慣れない単語を耳にした私は首を傾げた。
 ネズミだったのだろうか。言われてみればネズミらしき大きさの気もするけれど、鼠又という種類があるのかな。あやかしだなんて、猫又じゃあるまいし。
 きっと私の聞き間違いだったのかも、と酔いの回った私の思考は鈍り、軽く考えた。