帰宅し、夕飯をしっかり食べて、父よりも先に風呂を済ました。あとは午前〇時を待つだけ。しかし、どうして〇時なのだろう。こころに聞くのを忘れていた。
「ま、いっか」
その間、どうにも暇だったので、リビングでテレビでも見ることにする。ソファに座ると、そこでは母がドラマを見ていた。
「あらら。このドラマ、興味ないって言ってたじゃない」
母が驚いたように言った。
若いイケメン俳優と清純派女優が織りなす純愛ドラマ。不治の病に冒されたヒロインと、彼女を支える同級生の男の子という構図。結末はきっと、ヒロインが亡くなってしまう。彼女の死を受け、主人公は前を向いて生きていく。そんな物語。もっとも苦手なタイプのラブストーリーだった。
オチまで予想がついてしまい、涼香は口をゆがめた。
今日の放送は第三話。ヒロインの病が見つかり、主人公が決断を迫られる回だった。彼女から「別れよう」と切り出されている。立場は逆だが、どうにも自分の境遇と重なった。なんだか目が離せない。
それを母は薄目で見てきた。
「はっはーん。涼香もようやく恋に目覚めたのねぇ」
「はぁ?」
見当違いの邪推に呆れた。しかも、恋愛なら十六歳の頃から始めているし別れたばかりだ。いまさら「恋に目覚める」だなんて笑い話もいいところ。母には優也との交際を一切言ってないので、知らないのは当然だが。
涼香は渇いた笑いをこぼしたが、ふと思案した。
もしかすると、本気の恋をしていなかったんじゃないか。思えばそうだ。告白は優也からだったし、それに引っ張られるように彼を見つめていた。受け身でいて、さも自分は「モテている」と勘違いしていたのかもしれない。痛い女だ。こんなところで認識してしまうとは予想外だった。
「もう寝る」
涼香はイライラしながらクッションを母に押し付けた。
「え? 観ないの? このドラマ、原作小説がすっごい泣けるって言われてるのに」
「観ない。どうせ、ヒロインが死んじゃうし。そんな悲しい話見るくらいなら、私はハッピーエンドのラブコメがいい」
不幸な結末がわかっているドラマを視聴するほどの余裕はない。冷たく突っぱねると、母は盛大に嘆いた。
「あーあ、どうしてこんなに冷めてるのかなぁー。ときめきが足りなーい。て言うか、一緒にドラマが見たーい。感動を共有したいのにー」
鬱陶しいが、無下にはできなかった。リビングのドアで立ち止まっていると、風呂から上がった父とはちあわせた。この冷めた空気を、父は素早く察知する。
「どうしたの?」
「涼香がどうしてこんなに冷めてるのか、その考察をしていたところ」
母はクッションをぎゅっと抱きしめて父を見た。その膨れっ面に、父はタオルで頭を拭きながら苦笑する。そして、首をかしげて興味津々に聞いてきた。
「涼香は恋愛に興味ないのかな?」
デリカシーがない。涼香は無言で父の背中を叩いた。
「いたっ! おい、涼香!」
父は追い立てられるように逃げ、母の横に避難した。いらぬ敵が増えてしまい、涼香の機嫌は最高潮に悪くなる。しかめっ面を見せると、両親は悪びれるそぶりもなく、むしろ二人で娘を冷やかしてきた。
「パパとママはこんなに仲がいいのにねー」
そう言って、母は父の頭を拭いた。空気が甘くなる。その模様を涼香は半眼で睨んだ。
「それが原因なんでしょ。娘の前でいちゃつくな。ドン引きだから」
冷たく嘲笑を投げつけて階段をのぼる。両親はクスクス笑いあってるが、それすらも耳障りだ。部屋にこもる。
甘い空気は苦手だ。見てるこっちが恥ずかしくなる。無防備に鼻の下を伸ばして、相手を求めるのが堪らなくダサく見えて仕方がない。絶対にああはなりたくないし、やはり恋愛感情が尊くは思えなかった。優也のことが好きでも、結局は自分のポーズを優先している。
「……それがダメなのかな?」
素直に甘えられたらいいのに。越えてはいけないラインみたいなものがくすぶっているから始末が悪い。そうやって自己分析ができても、行動できなければ意味がない。堂々巡りの繰り返し。
不治の病も苦しいだろうが、大病を患ったことがないこちらとしては共感性に欠ける。だが、平坦に一定の甘さを保つのも難儀だ。いや、それよりもまずは目の前の失恋のほうがはるかに現実的だろう。恋愛のメカニズムを考えている場合ではない。
午前〇時を待つ。
人生で幸福だった瞬間を思い浮かべ、反回転する。そして、三度の深呼吸。そうすれば過去へのタイムリープが可能らしい。こころが言うには。
しかし、目の前にそびえるのはやはり壁であり、涼香はついこの前もあげたような笑いを天井にぽっかり浮かべた。
「はぁ……やっぱりあれは夢だったんだよ。いいか、涼香、あれは夢だ。現実を見ろ」
少しでも期待したのが恥ずかしい。壁にひたいを打ち付けて、涼香は目をつむった。ベッドに潜り込む。
「さぁ、寝よ寝よー」
明日は文化祭だ。明のクラスを冷やかして、郁音のラストライブを観る。それだけでも十分、青春を満喫したことになる。
もしも、未来の自分がこの過去を悔やんだとしても、そんなの知ったことじゃない。現実というのは鮮度が高いから、その時々の感情がリアルであって、後悔なんてものは遺物に過ぎない。ときを惜しんで嘆くのもまた一興。結局は目の前のことにしか目を向けられない。そういう風にできている。
涼香は寝返りを打って、静かにまどろんだ。
***
「……涼香ー? 涼香ってばー、早く起きなさーい」
水にうもれたように遠い声。それが母の呆れた声だと気がつくのに、数分を要した。
ガバっと勢いよく飛び起きる。寝てすぐ叩き起こされた気分だ。なんだか体が重い。肩を回してまぎらわせると、再び母の声が響いてきた。
「んもう、涼香ー? こころちゃんが迎えにきてるんだけどー! 早く支度しなさいよー」
階下から再び呼ばれ、涼香はすぐにスマートフォンを見た。
通知はない。時計の表示は十月二十五日。
「あー……ってことは、やっぱタイムリープ失敗、って感じ?」
非現実的な現象が一度ならず二度までも起きてしまっては説明がつかないし、ましてやタイムリープが頻出していては都合が良すぎる。昨夜の失敗が確実なものとなり、二度目の落胆を味わった。
しかし、こころからの連絡がないとは。タイムリープができていたにしろ、できていないにしろ、あのこころが翌朝までメッセージをよこさないのは不自然に思える。いや、どうだろう。答え合わせをしようと言い出したのはこころだから、律儀に約束を守っているだけなのかもしれない。
涼香はバタバタと制服に着替えた。シャツとスカートを身につけ、リボンの位置を鏡で見て、紺色のカーディガンに袖を通す。机の上に置いていたきれいなパンフレットをカバンに押しこみ、部屋を出る。階段を駆け下りると、エプロン姿の母が食卓で頬をふくらませていた。
「もー! 外でこころちゃん待ってるよ!」
「うーん」
慌てて玄関に向かい、ローファーに足を入れていると母が素っ頓狂な声を投げてきた。
「朝ごはんはー?」
「いらなーい。どうせ露店とかあるし、適当に食べる」
「そう? んじゃ、行ってらっしゃーい」
のんびりと見送られ、涼香は振り返りもせずに手だけを振った。玄関を飛び出すと、ふわふわの三つ編みが見える。
「ごめん、こころ」
「遅いぞー! おはよ、涼香!」
茶目っ気たっぷりに頰をふくらませ、こころは涼香の腕を引っ張った。
「まったくもう、高校生活〝初〟の文化祭ってときに寝坊なんてあり得ないんだから!」
詰め寄るこころの顔が近い。仰け反りながら、彼女の言葉を脳に浸透させると、思考が固まった。
――高校初の文化祭。
「涼香? おーい、涼香ー? 寝ぼけてんの? 顔洗って出直してらっしゃいよ!」
涼香は頭を抱えた。
にわかには信じられない。処理が追いつかず、どうにも勘ぐってしまう。昨日、さかさ時計の実行を提案したから、冗談を言っているだけかもしれない。
涼香は慌てて自分のカバンの中を探った。今朝、机の上に置いていたものを無意識につかんでカバンに入れていた。同時に、自分の爪を見る。こびりついて取れなかった黄色がどこにもない。
「涼香、だいじょうぶー?」
またもや二年前の文化祭の日に戻っているのだろう。
涼香は自分の頬をつまんだ。痛みはある。紛れもなく現実だった。
「やっぱ寝ぼけてるんじゃない? 引っ叩いたら目覚めるかもよ?」
そう言ってスナップをきかせて腕を振るうこころ。
涼香は全力で首を横に振った。
「いや! いい! 覚めたから!」
「そう? ならいいけどさー……涼香、実行委員なんだからもうちょっと気を引き締めてよね。心配で文化祭楽しめないじゃん」
不満な頰に、涼香は「えいっ」と人差し指を突き刺した。すると、こころが「ブフゥ」と風船がしぼんだような音を出した。感触もあるので、やはり夢ではなさそうだ。
桜の木が脇に並ぶ校門は、一段と派手に彩りが施されていた。カラフルなボックスを組み合わせたアーチ。板で切り取られた「第四十三回 青浪高校文化祭」の文字は実行委員会と美術部の共同制作だ。
目の前に広がる華やかな露店のテントが祭りの予感をふくらませる。その間をせわしなく走り回る生徒たち。巡回する先生たちもみな笑顔だ。
校門をジャンプするようにまたいでアーチをくぐり抜けると、そこは非日常の極彩色。枯れた桜の葉も色づいていて、まるで紅葉のよう。
どこかでトウモロコシを焼く香りがする。体育館では音合わせをするギターの派手なカッティング。グラウンドでは管楽器がはずむ。中庭からは合唱部のハミング。そして、高い笑い声。学校全体が高揚感に包まれていて、新しくも楽しい空気を感じた。なに一つ差異がない。
こころを見やれば、彼女はキラキラと目を輝かせている。好奇心旺盛なプードルが、ワクワクとドキドキの祭典にときめかないはずがない。
「ひゃぁー! お祭りだ! お祭りだね! あたし、高校の文化祭って初めてなんだよー! 楽しみだね!」
「うん。楽しみだね」
オウム返しのようにこころの言葉をそのまま返す。戸惑いは隠せなかった。
しかし、体のどこか奥底ではこころと同じ高揚が沸き立つ。この興奮はいつだって新鮮で、不思議と胸が高鳴る。
「あ、そういえばさー、知ってる?」
昇降口に入ってすぐ、こころがのんびりと言った。
「一組のアイスクリーム屋さん、発注ミスで生徒会のお世話になったんだって」
その思いがけない発言に、涼香は首をかしげた。
「え? どういうこと?」
一組は明のクラスだ。そして、一組は文化祭の中盤で窮地に追いやられる。それを助けたのはほかでもない、二組であって優也と涼香だ。
「なんか、もめたらしいよ。一組の、誰だったかな。寺坂くんの友達だったような」
「それって、杉野明?」
「そうそう。その子が発注ミスして、アイスが五百個も届いちゃったんだって! 現実でそんなミスしちゃうひと、いるとは思わなかったー」
あははと笑うこころの顔には、まるで他人事のような軽々しさがあった。しかし、よそのクラスの事情である。深刻に考えるほうが奇妙であって、こころが気にする問題ではない。
しかし、涼香は心臓の血管がドクンと跳ねるような違和感を覚えた。
明のミスが文化祭で露呈しない。ということは、明との過去がなかったことになる。最初から過去をなぞることができないが、これはこれで未来が変わることに期待が持てる。
ふわふわと甘く飾り付けた教室にはクラスメイト全員が集まっていた。
「おい、おせーぞ、実行委員!」
すぐにヤジを飛ばしたのは優也だった。鬱々とした空気はどこにもなく、彼も晴れやかな笑顔で涼香を迎え入れる。
この笑顔が見られるなら、気分もいくらか晴れるもので、涼香は自然と笑顔を返した。
「ごめんごめん。楽しみすぎて夜更かししちゃって」
「涼香ったら、寝坊したんだよー! 信じらんないでしょ!」
こころが横で責める。すると、教室はどっと笑いであふれた。その笑いをかいくぐり、優也が教壇にのぼる。そして、黒板を思い切り叩いた。
「はいはーい、静粛に! やっと全員そろったので、実行委員からお話がありまーす! はい、大楠!」
身構えてはいたが、いざ名指しされ、注目を浴びるとなると顔が勝手に熱くなる。
しかし、ここで尻込みしていてはまた同じ道をたどるだけ。涼香は意を決して壇上に上がった。
「えーっと……ここまで頑張れたのは、みんなのおかげです。ありがとうございました。文化祭、楽しみましょう」
ぎこちなく拙いながらもスピーチを終えると、クラス全員が手を叩いた。こころも嬉しそうに大仰な拍手を送っている。優也も柔らかく笑っていた。
「んじゃあ、次は俺! 大楠の言うとおり、みんなの協力でここまでこれました。いよいよ今日が本番です。ひとまず、楽しい文化祭にしましょう! 全力で楽しもうぜ! 以上!」
とたんに「おぉーっ!」と湧き上がる声援と拍手。はやし立てる賑やかな口笛。その歓声を二人で浴びる。
「大楠、ありがとな」
音に混ざるように、優也がボソボソと耳打ちした。気遅れする涼香は何も言えず、曖昧に笑うしかできない。
「はい! それじゃー、もうすぐ開会式始まるんで、外に出よう」
優也の声と同時に、スピーカーからチャイムが鳴り響いた。
『生徒会からのお知らせです。まだ教室に残っている生徒たちは、速やかにグラウンドへ集合してください』
教室が一気に慌ただしくなり、全員が廊下へ飛び出した。こころに続いて、その後ろを涼香も追いかける。
「大楠」
ふいに呼び止められ、涼香は振り返った。優也が固い表情で立ち止まっている。
「あの、後夜祭なんだけどさ」
さっきまでの威勢はどこへやら。二人きりになったとたん、彼は声を低めて真剣になる。
「……えーっと。やっぱ、なんでもない!」
優也がいま、何を考えているのかが手に取るようにわかる。廊下を見やると、こころの三つ編みが窓枠からはみ出していた。
こころの協力を得て、いま告白しようとしている。しかし、彼は勇気が出ずに口ごもっている。いつだってそうだ。優也は口が重いから、大事なことはすぐに出てこない。スポーツマンのくせに、肝心なところはかっこ悪い。
「寺坂」
涼香は真顔で彼に詰め寄った。そして、彼の胸を押すように拳をドンと突きつける。面食らう彼の足が後方へ下がる。
「文化祭、一緒に見てまわろ?」
明の件がないのなら、きっとこの文化祭は時間が余ってしまう。大きなハプニングを回避したのなら、それを逆手にとって優也の気持ちをこちらに向けて――未来を変える。
案の定、優也は口をあんぐり開けて、首を縦に振った。
「あぁ」
「午後の当番が終わったらだからね。逃げるなよ」
ビシッと人差し指を突きつけてみる。
「お前こそ」
指をパシッと払われた。優也は安堵しつつも、少しだけ悔しそうに口をすぼめていた。しかし、顔を見合わせると笑ってしまう。涼香も吹き出して笑った。
その時、外の賑わいに拍車がかかる。
『ただいまより――第四十三回――青浪高校文化祭を――開幕します!』
生徒会長の元気な声が窓を突き抜けた。
「うっわー! やべー! もう始まるじゃん!」
優也は慌てて廊下に出た。涼香もその後ろを追う。派手に装飾が施された無人の廊下をバタバタと足音を鳴らし、二人で駆け抜ける。
『それでは、みなさん、せーの!』
掛け声とともに色とりどりの風船が空へ放たれた。昇降口を飛び出すと、すでに風船は生徒たちの手から離れていく。花火が上がるような、空気を伝う音が高い空を沸かす。
「あーあ! 遅かったー」
優也が悔しそうに言った。その声がたくさんの拍手にかき消されていき、涼香は思わず笑った。
たちまち辺りは騒然となる。メイド服やきぐるみ、大きなマスコットキャラクターや手作りの衣装を見に付けた生徒、おそろいのTシャツを着たクラス、部活のユニフォーム姿でごった返した。
すると、グラウンド特設ステージで吹奏楽部の演奏が始まった。楽器が一斉に音を揃える。その大きな衝撃に、その場にいた生徒たちが歓声をあげた。中には踊りだす女子グループもいる。流行りの邦楽をアレンジした演奏だ。
「大楠」
流れる人混みの中で、二人は向き合って笑う。調子を取り戻した優也が親指を突き上げた。
「楽しくやろうぜ」
「おう!」
涼香も真似して親指を突き上げる。それを合図に、ふたりはその場からゆるゆると後ずさった。ひとの波が押し寄せ、優也の姿が見えなくなった。
「すーずーかー!」
ごった返す人波の中を、こころがかいくぐって走ってきた。三つ編みがわずかに崩れている。
「こころ、今日はもうなんにもしなくていいからね」
小さく言った言葉は、彼女の耳には届いていない。
「えー? なんてー?」
「なんでもない」
校舎へ戻って、お祭りムードの廊下を過ぎる。例えようのない愉快な気分。足は幾分軽やかだ。
教室のドアを開け放つと、スタンバイしているクラスメイトたちのはしゃいだ声が飛びこんでくる。陽気な圧迫感に怖気づくも、こころが後ろからポンと背中を押した。
「さぁ、文化祭だ!」
「ま、いっか」
その間、どうにも暇だったので、リビングでテレビでも見ることにする。ソファに座ると、そこでは母がドラマを見ていた。
「あらら。このドラマ、興味ないって言ってたじゃない」
母が驚いたように言った。
若いイケメン俳優と清純派女優が織りなす純愛ドラマ。不治の病に冒されたヒロインと、彼女を支える同級生の男の子という構図。結末はきっと、ヒロインが亡くなってしまう。彼女の死を受け、主人公は前を向いて生きていく。そんな物語。もっとも苦手なタイプのラブストーリーだった。
オチまで予想がついてしまい、涼香は口をゆがめた。
今日の放送は第三話。ヒロインの病が見つかり、主人公が決断を迫られる回だった。彼女から「別れよう」と切り出されている。立場は逆だが、どうにも自分の境遇と重なった。なんだか目が離せない。
それを母は薄目で見てきた。
「はっはーん。涼香もようやく恋に目覚めたのねぇ」
「はぁ?」
見当違いの邪推に呆れた。しかも、恋愛なら十六歳の頃から始めているし別れたばかりだ。いまさら「恋に目覚める」だなんて笑い話もいいところ。母には優也との交際を一切言ってないので、知らないのは当然だが。
涼香は渇いた笑いをこぼしたが、ふと思案した。
もしかすると、本気の恋をしていなかったんじゃないか。思えばそうだ。告白は優也からだったし、それに引っ張られるように彼を見つめていた。受け身でいて、さも自分は「モテている」と勘違いしていたのかもしれない。痛い女だ。こんなところで認識してしまうとは予想外だった。
「もう寝る」
涼香はイライラしながらクッションを母に押し付けた。
「え? 観ないの? このドラマ、原作小説がすっごい泣けるって言われてるのに」
「観ない。どうせ、ヒロインが死んじゃうし。そんな悲しい話見るくらいなら、私はハッピーエンドのラブコメがいい」
不幸な結末がわかっているドラマを視聴するほどの余裕はない。冷たく突っぱねると、母は盛大に嘆いた。
「あーあ、どうしてこんなに冷めてるのかなぁー。ときめきが足りなーい。て言うか、一緒にドラマが見たーい。感動を共有したいのにー」
鬱陶しいが、無下にはできなかった。リビングのドアで立ち止まっていると、風呂から上がった父とはちあわせた。この冷めた空気を、父は素早く察知する。
「どうしたの?」
「涼香がどうしてこんなに冷めてるのか、その考察をしていたところ」
母はクッションをぎゅっと抱きしめて父を見た。その膨れっ面に、父はタオルで頭を拭きながら苦笑する。そして、首をかしげて興味津々に聞いてきた。
「涼香は恋愛に興味ないのかな?」
デリカシーがない。涼香は無言で父の背中を叩いた。
「いたっ! おい、涼香!」
父は追い立てられるように逃げ、母の横に避難した。いらぬ敵が増えてしまい、涼香の機嫌は最高潮に悪くなる。しかめっ面を見せると、両親は悪びれるそぶりもなく、むしろ二人で娘を冷やかしてきた。
「パパとママはこんなに仲がいいのにねー」
そう言って、母は父の頭を拭いた。空気が甘くなる。その模様を涼香は半眼で睨んだ。
「それが原因なんでしょ。娘の前でいちゃつくな。ドン引きだから」
冷たく嘲笑を投げつけて階段をのぼる。両親はクスクス笑いあってるが、それすらも耳障りだ。部屋にこもる。
甘い空気は苦手だ。見てるこっちが恥ずかしくなる。無防備に鼻の下を伸ばして、相手を求めるのが堪らなくダサく見えて仕方がない。絶対にああはなりたくないし、やはり恋愛感情が尊くは思えなかった。優也のことが好きでも、結局は自分のポーズを優先している。
「……それがダメなのかな?」
素直に甘えられたらいいのに。越えてはいけないラインみたいなものがくすぶっているから始末が悪い。そうやって自己分析ができても、行動できなければ意味がない。堂々巡りの繰り返し。
不治の病も苦しいだろうが、大病を患ったことがないこちらとしては共感性に欠ける。だが、平坦に一定の甘さを保つのも難儀だ。いや、それよりもまずは目の前の失恋のほうがはるかに現実的だろう。恋愛のメカニズムを考えている場合ではない。
午前〇時を待つ。
人生で幸福だった瞬間を思い浮かべ、反回転する。そして、三度の深呼吸。そうすれば過去へのタイムリープが可能らしい。こころが言うには。
しかし、目の前にそびえるのはやはり壁であり、涼香はついこの前もあげたような笑いを天井にぽっかり浮かべた。
「はぁ……やっぱりあれは夢だったんだよ。いいか、涼香、あれは夢だ。現実を見ろ」
少しでも期待したのが恥ずかしい。壁にひたいを打ち付けて、涼香は目をつむった。ベッドに潜り込む。
「さぁ、寝よ寝よー」
明日は文化祭だ。明のクラスを冷やかして、郁音のラストライブを観る。それだけでも十分、青春を満喫したことになる。
もしも、未来の自分がこの過去を悔やんだとしても、そんなの知ったことじゃない。現実というのは鮮度が高いから、その時々の感情がリアルであって、後悔なんてものは遺物に過ぎない。ときを惜しんで嘆くのもまた一興。結局は目の前のことにしか目を向けられない。そういう風にできている。
涼香は寝返りを打って、静かにまどろんだ。
***
「……涼香ー? 涼香ってばー、早く起きなさーい」
水にうもれたように遠い声。それが母の呆れた声だと気がつくのに、数分を要した。
ガバっと勢いよく飛び起きる。寝てすぐ叩き起こされた気分だ。なんだか体が重い。肩を回してまぎらわせると、再び母の声が響いてきた。
「んもう、涼香ー? こころちゃんが迎えにきてるんだけどー! 早く支度しなさいよー」
階下から再び呼ばれ、涼香はすぐにスマートフォンを見た。
通知はない。時計の表示は十月二十五日。
「あー……ってことは、やっぱタイムリープ失敗、って感じ?」
非現実的な現象が一度ならず二度までも起きてしまっては説明がつかないし、ましてやタイムリープが頻出していては都合が良すぎる。昨夜の失敗が確実なものとなり、二度目の落胆を味わった。
しかし、こころからの連絡がないとは。タイムリープができていたにしろ、できていないにしろ、あのこころが翌朝までメッセージをよこさないのは不自然に思える。いや、どうだろう。答え合わせをしようと言い出したのはこころだから、律儀に約束を守っているだけなのかもしれない。
涼香はバタバタと制服に着替えた。シャツとスカートを身につけ、リボンの位置を鏡で見て、紺色のカーディガンに袖を通す。机の上に置いていたきれいなパンフレットをカバンに押しこみ、部屋を出る。階段を駆け下りると、エプロン姿の母が食卓で頬をふくらませていた。
「もー! 外でこころちゃん待ってるよ!」
「うーん」
慌てて玄関に向かい、ローファーに足を入れていると母が素っ頓狂な声を投げてきた。
「朝ごはんはー?」
「いらなーい。どうせ露店とかあるし、適当に食べる」
「そう? んじゃ、行ってらっしゃーい」
のんびりと見送られ、涼香は振り返りもせずに手だけを振った。玄関を飛び出すと、ふわふわの三つ編みが見える。
「ごめん、こころ」
「遅いぞー! おはよ、涼香!」
茶目っ気たっぷりに頰をふくらませ、こころは涼香の腕を引っ張った。
「まったくもう、高校生活〝初〟の文化祭ってときに寝坊なんてあり得ないんだから!」
詰め寄るこころの顔が近い。仰け反りながら、彼女の言葉を脳に浸透させると、思考が固まった。
――高校初の文化祭。
「涼香? おーい、涼香ー? 寝ぼけてんの? 顔洗って出直してらっしゃいよ!」
涼香は頭を抱えた。
にわかには信じられない。処理が追いつかず、どうにも勘ぐってしまう。昨日、さかさ時計の実行を提案したから、冗談を言っているだけかもしれない。
涼香は慌てて自分のカバンの中を探った。今朝、机の上に置いていたものを無意識につかんでカバンに入れていた。同時に、自分の爪を見る。こびりついて取れなかった黄色がどこにもない。
「涼香、だいじょうぶー?」
またもや二年前の文化祭の日に戻っているのだろう。
涼香は自分の頬をつまんだ。痛みはある。紛れもなく現実だった。
「やっぱ寝ぼけてるんじゃない? 引っ叩いたら目覚めるかもよ?」
そう言ってスナップをきかせて腕を振るうこころ。
涼香は全力で首を横に振った。
「いや! いい! 覚めたから!」
「そう? ならいいけどさー……涼香、実行委員なんだからもうちょっと気を引き締めてよね。心配で文化祭楽しめないじゃん」
不満な頰に、涼香は「えいっ」と人差し指を突き刺した。すると、こころが「ブフゥ」と風船がしぼんだような音を出した。感触もあるので、やはり夢ではなさそうだ。
桜の木が脇に並ぶ校門は、一段と派手に彩りが施されていた。カラフルなボックスを組み合わせたアーチ。板で切り取られた「第四十三回 青浪高校文化祭」の文字は実行委員会と美術部の共同制作だ。
目の前に広がる華やかな露店のテントが祭りの予感をふくらませる。その間をせわしなく走り回る生徒たち。巡回する先生たちもみな笑顔だ。
校門をジャンプするようにまたいでアーチをくぐり抜けると、そこは非日常の極彩色。枯れた桜の葉も色づいていて、まるで紅葉のよう。
どこかでトウモロコシを焼く香りがする。体育館では音合わせをするギターの派手なカッティング。グラウンドでは管楽器がはずむ。中庭からは合唱部のハミング。そして、高い笑い声。学校全体が高揚感に包まれていて、新しくも楽しい空気を感じた。なに一つ差異がない。
こころを見やれば、彼女はキラキラと目を輝かせている。好奇心旺盛なプードルが、ワクワクとドキドキの祭典にときめかないはずがない。
「ひゃぁー! お祭りだ! お祭りだね! あたし、高校の文化祭って初めてなんだよー! 楽しみだね!」
「うん。楽しみだね」
オウム返しのようにこころの言葉をそのまま返す。戸惑いは隠せなかった。
しかし、体のどこか奥底ではこころと同じ高揚が沸き立つ。この興奮はいつだって新鮮で、不思議と胸が高鳴る。
「あ、そういえばさー、知ってる?」
昇降口に入ってすぐ、こころがのんびりと言った。
「一組のアイスクリーム屋さん、発注ミスで生徒会のお世話になったんだって」
その思いがけない発言に、涼香は首をかしげた。
「え? どういうこと?」
一組は明のクラスだ。そして、一組は文化祭の中盤で窮地に追いやられる。それを助けたのはほかでもない、二組であって優也と涼香だ。
「なんか、もめたらしいよ。一組の、誰だったかな。寺坂くんの友達だったような」
「それって、杉野明?」
「そうそう。その子が発注ミスして、アイスが五百個も届いちゃったんだって! 現実でそんなミスしちゃうひと、いるとは思わなかったー」
あははと笑うこころの顔には、まるで他人事のような軽々しさがあった。しかし、よそのクラスの事情である。深刻に考えるほうが奇妙であって、こころが気にする問題ではない。
しかし、涼香は心臓の血管がドクンと跳ねるような違和感を覚えた。
明のミスが文化祭で露呈しない。ということは、明との過去がなかったことになる。最初から過去をなぞることができないが、これはこれで未来が変わることに期待が持てる。
ふわふわと甘く飾り付けた教室にはクラスメイト全員が集まっていた。
「おい、おせーぞ、実行委員!」
すぐにヤジを飛ばしたのは優也だった。鬱々とした空気はどこにもなく、彼も晴れやかな笑顔で涼香を迎え入れる。
この笑顔が見られるなら、気分もいくらか晴れるもので、涼香は自然と笑顔を返した。
「ごめんごめん。楽しみすぎて夜更かししちゃって」
「涼香ったら、寝坊したんだよー! 信じらんないでしょ!」
こころが横で責める。すると、教室はどっと笑いであふれた。その笑いをかいくぐり、優也が教壇にのぼる。そして、黒板を思い切り叩いた。
「はいはーい、静粛に! やっと全員そろったので、実行委員からお話がありまーす! はい、大楠!」
身構えてはいたが、いざ名指しされ、注目を浴びるとなると顔が勝手に熱くなる。
しかし、ここで尻込みしていてはまた同じ道をたどるだけ。涼香は意を決して壇上に上がった。
「えーっと……ここまで頑張れたのは、みんなのおかげです。ありがとうございました。文化祭、楽しみましょう」
ぎこちなく拙いながらもスピーチを終えると、クラス全員が手を叩いた。こころも嬉しそうに大仰な拍手を送っている。優也も柔らかく笑っていた。
「んじゃあ、次は俺! 大楠の言うとおり、みんなの協力でここまでこれました。いよいよ今日が本番です。ひとまず、楽しい文化祭にしましょう! 全力で楽しもうぜ! 以上!」
とたんに「おぉーっ!」と湧き上がる声援と拍手。はやし立てる賑やかな口笛。その歓声を二人で浴びる。
「大楠、ありがとな」
音に混ざるように、優也がボソボソと耳打ちした。気遅れする涼香は何も言えず、曖昧に笑うしかできない。
「はい! それじゃー、もうすぐ開会式始まるんで、外に出よう」
優也の声と同時に、スピーカーからチャイムが鳴り響いた。
『生徒会からのお知らせです。まだ教室に残っている生徒たちは、速やかにグラウンドへ集合してください』
教室が一気に慌ただしくなり、全員が廊下へ飛び出した。こころに続いて、その後ろを涼香も追いかける。
「大楠」
ふいに呼び止められ、涼香は振り返った。優也が固い表情で立ち止まっている。
「あの、後夜祭なんだけどさ」
さっきまでの威勢はどこへやら。二人きりになったとたん、彼は声を低めて真剣になる。
「……えーっと。やっぱ、なんでもない!」
優也がいま、何を考えているのかが手に取るようにわかる。廊下を見やると、こころの三つ編みが窓枠からはみ出していた。
こころの協力を得て、いま告白しようとしている。しかし、彼は勇気が出ずに口ごもっている。いつだってそうだ。優也は口が重いから、大事なことはすぐに出てこない。スポーツマンのくせに、肝心なところはかっこ悪い。
「寺坂」
涼香は真顔で彼に詰め寄った。そして、彼の胸を押すように拳をドンと突きつける。面食らう彼の足が後方へ下がる。
「文化祭、一緒に見てまわろ?」
明の件がないのなら、きっとこの文化祭は時間が余ってしまう。大きなハプニングを回避したのなら、それを逆手にとって優也の気持ちをこちらに向けて――未来を変える。
案の定、優也は口をあんぐり開けて、首を縦に振った。
「あぁ」
「午後の当番が終わったらだからね。逃げるなよ」
ビシッと人差し指を突きつけてみる。
「お前こそ」
指をパシッと払われた。優也は安堵しつつも、少しだけ悔しそうに口をすぼめていた。しかし、顔を見合わせると笑ってしまう。涼香も吹き出して笑った。
その時、外の賑わいに拍車がかかる。
『ただいまより――第四十三回――青浪高校文化祭を――開幕します!』
生徒会長の元気な声が窓を突き抜けた。
「うっわー! やべー! もう始まるじゃん!」
優也は慌てて廊下に出た。涼香もその後ろを追う。派手に装飾が施された無人の廊下をバタバタと足音を鳴らし、二人で駆け抜ける。
『それでは、みなさん、せーの!』
掛け声とともに色とりどりの風船が空へ放たれた。昇降口を飛び出すと、すでに風船は生徒たちの手から離れていく。花火が上がるような、空気を伝う音が高い空を沸かす。
「あーあ! 遅かったー」
優也が悔しそうに言った。その声がたくさんの拍手にかき消されていき、涼香は思わず笑った。
たちまち辺りは騒然となる。メイド服やきぐるみ、大きなマスコットキャラクターや手作りの衣装を見に付けた生徒、おそろいのTシャツを着たクラス、部活のユニフォーム姿でごった返した。
すると、グラウンド特設ステージで吹奏楽部の演奏が始まった。楽器が一斉に音を揃える。その大きな衝撃に、その場にいた生徒たちが歓声をあげた。中には踊りだす女子グループもいる。流行りの邦楽をアレンジした演奏だ。
「大楠」
流れる人混みの中で、二人は向き合って笑う。調子を取り戻した優也が親指を突き上げた。
「楽しくやろうぜ」
「おう!」
涼香も真似して親指を突き上げる。それを合図に、ふたりはその場からゆるゆると後ずさった。ひとの波が押し寄せ、優也の姿が見えなくなった。
「すーずーかー!」
ごった返す人波の中を、こころがかいくぐって走ってきた。三つ編みがわずかに崩れている。
「こころ、今日はもうなんにもしなくていいからね」
小さく言った言葉は、彼女の耳には届いていない。
「えー? なんてー?」
「なんでもない」
校舎へ戻って、お祭りムードの廊下を過ぎる。例えようのない愉快な気分。足は幾分軽やかだ。
教室のドアを開け放つと、スタンバイしているクラスメイトたちのはしゃいだ声が飛びこんでくる。陽気な圧迫感に怖気づくも、こころが後ろからポンと背中を押した。
「さぁ、文化祭だ!」