背景にロックバンドの三重奏を乗せて、一年の文化祭は華やかに幕を閉じた。
 しかし、それからはとくに変わりなく、平凡に平穏に日常は過ぎていく。時に訪れるのは優也との衝突というカップルにありがちな倦怠期(けんたいき)。気だるくて不穏な日と、優しくて甘い日が交互にやってきた。そんな生活が当たり前に続いた。
 しかし、進路という壁が立ちふさがれば、二人の生活は険悪一色となり果てた。その流れはどうにも止められないようで、記憶のフィルムが急速に回転し、その終着点で景色は寒々しい別れの模様を描いた。


「涼香、聞いてる?」

 意識が徐々に目の前の現実を受け入れ、涼香はハッと我にかえった。優也の顔色が悪い。
 ぼうっとしたまま見返すと、優也は固い声で言った。

「ごめん、涼香……別れてほしい」

 風が()いでいき、あたりはやけに静かだ。夢から()めたかのように突きつけられる現実に、涼香は瞳を泳がせた。

「えっ……どうして……」

 告白の時間も場所も上書きしたはずなのに、未来は同じ道をたどっている。まるで水の中へ放り込まれたかのような、そんな気持ちだ。

「……ほら、もうすぐお前も受験だろ」
「………」
「俺はスポーツ推薦の枠が取れたし、うまくいけば進路はそっちになるし」
「………」
「遠距離になるだろ」
「………」

 決められたセリフを吐くように、優也の口が動いた。その声もだんだんフェードアウトした。
 悔しい。胸の中は冷たくて、なんだかザラザラする。頭が痛くなってくる。全身に力が入らないのに、それでも足はしっかりしていた。息をすると肺が苦しい。

「なんで……?」

 ――だめ。

「なんで、別れるなんて言うの?」

 ――だめだってば。やめて。

「私、優也のこと……」
「ごめん。涼香」

 声を掠め取られたように遮られ、もうなにも言えない。ぐっと言葉を噛み殺さないと、感情に押しつぶされそうで怖い。
 しばらく、優也は黙りこくった。その間、空を見上げて目を乾かす。絶対に涙は見せたくなかった。ただでさえ、情けなくすがりかけた。そうなってしまうのが堪らなく嫌だった。痛い女にはなりたくない。わがままを言って、優也を困らせたくない。

「ごめんな、涼香。でも、このままズルズルとやってくほうがだめだと思うんだ」

 優也は優しいから、ちゃんと考えてくれている。お互いの時間のことを、考えて考えて、考えた末の結論がそれ。頭では理解している。

「俺、バスケを続けたいんだ。プロになりたい。その夢が目の前まできてるんだ。どこまでやれるかはわからないけどさ。だから、その夢にお前をつき合わせるのは、違うなって思って。それに、俺もいまはバスケに集中したい」

 地元を離れて、夢を追いかける。その足かせになるわけにはいかない。もし、優也が夢の途中で(くじ)けても、すぐには飛んでいけない距離まで離れるのだ。そのうち、メールや電話だけでは満足できなくなる。逆もある。物理的に離れてしまえば、心も遠くなっていく。そうなると、お互いにダメになってしまう。そんなこと、頭ではわかっている。

「俺、ほんと最低だよな……でも、両立できるほど強くない。お前のことを傷つけるかもしれない。だから」

 名は体を表すとはよく言ったものだ。この優しいひとを手放すのが()しい。
 涼香は宙を見上げ、息を吐いた。完敗だ。優也の思いを否定できるわけがない。

「じゃあ、しょうがないよね……わかった」

 我ながら物分りがいいと思う。しかし、きれいな終わり方は――思いつかない。
 見上げると、そこには薄く白んだ空。桜の木は秋風に震えて、葉が萎びている。突如、舞い上がる風。砂と枯葉が旋回する。最初の世界と同じだ。

 ***

 別れから三日。文化祭準備も佳境(かきょう)に入るこのごろ、涼香は心ここにあらずだった。頼まれた備品のチェックをしているが、どうにも集中できない。
 ふと、上空が陰った。見上げると後ろ向きの男子生徒が迫っている。彼らは教室の飾り付けをしていたようで、涼香が足元にいるとは気づいていない。
 涼香の背中にふくらはぎがあたり、彼はそのまま後ろに倒れこんできた。

「うわっ」
「えっ、ちょっ! 待って待って……!」

 とっさには避けられなかった。前のめりに倒れこみ、目の前にあったペンキ入れに手をつっこむ。
 黄色。どろっと、ぬめやかな絵の具をつかんでしまった。油性のアクリルインキは腐葉土みたいなにおいでべったりと涼香をおそう。
 文化祭の準備で大忙しの教室はしんと静まりかえった。

「大楠さん、大丈夫!?」

 いっときの間が空いて、羽村が駆け寄った。

「うっわー、最悪。絵の具まみれじゃん! 川本、ちゃんと見なさいよ!」

 倒れこんできた男子にすぐさま叱りつける羽村。そんな彼女に、涼香は慌てて言った。

「いいよいいよ。気にしないでー」

 ――あぁ、また。

 この光景、なんだか見たことがある。デジャブってやつだ。でも、前はもっと最悪な状況だったはず。はっきりと覚えているし、記憶にも新しい。まるで記憶のフォルダがもう一つあるみたいだ。
 涼香は頭を振って手を守るように覆い、廊下の手洗い場へ小走りに向かった。


 手についた絵の具は全然落ちない。爪の間や指紋(しもん)にしつこく残っていて、指がふやけそう。しかも、よりによって黄色。いまのブルーな気持ちとは正反対でムカついた。ついてないっていうレベルじゃない。

「あれ? 大楠?」

 背後から呼ばれた。ハスキーな柔らかい声。後ろにいるのが明だというのは、すぐにわかった。

「はーい、大楠でーす」

 振り返らずに、間延びした返事をする。気分が悪かったので、声音は随分とふてぶてしくなった。

「どうした? 大丈夫? 絵の具につっこんだの? あーあ、やっちゃったね」
「うーん、まぁ、うん。事故に巻き込まれてさ」
「事故!? なにそれ、やばくない? 大丈夫なの?」
「大丈夫だから。本当に大丈夫」

 過剰な反応が鬱陶しい。冷たく突っぱねて、ポニーテールをひるがえせば、明はすぐに不安の色を崩した。

「大楠」

 彼は頬を引きつらせて笑った。

「落ち込んでるよね?」
「別に」
「あれについては、大楠が気負うことはないからさ、元気出しなよ」

 涼香は居心地が悪くなり、目を伏せた。明の笑い声がだんだん枯れていく。彼は目をそらして首筋を掻いた。
 心配されるのは苦手だ。よどんだ空気を払拭しようと、涼香は息を吸い込んだ。

「もう大丈夫だよ。優也もいろいろ考えてくれたんだしさ」
「嘘。そんなこと思ってないくせに」
「嘘って、あんた。私のなにを知ってるのよ」
「知ってるよ。クラスはずっと違ったけど、二人がずっと仲良くて、どっちも思い合ってるのなんて。二年も見てればわかるよ」

 明は常に応援してくれていた。優也が悩んでいるときは真剣に聞き、また涼香の悩み相談も受けてくれる。バスケ部ではゲームでも人間関係でもフォローがうまいとか。散々、優也から聞いている。それがまた優也の面影を浮かばせるから胸が痛む。
 彼の優しい(なぐさ)めがひどく耳障(みみざわ)りだ。

「優也だって、本当は別れたくないはずなんだ。だからさ、もう忘れてしまおうよ」
「やだ、そんなこと言わないでよ!」

 思わず両耳をふさいだ。濡れた手から水滴が鼓膜(こまく)へ入り込む。自分でも驚くほどに大声が出てしまい、たちまち空気が凪いだ。飛び出した拒否の声に、明が固まってしまう。
 心にヒビが入る音がした。もう見て見ぬふりができない。

「お願い……やめて。これ以上、私を惨めにさせないで」

 涼香の声を、明は真正面から受けて息を飲んだ。冷たくて暗い、張り詰めたものが淡々と空気を圧迫する。
 そのとき、二人の間にこころの鋭い声が割り込んだ。

「涼香!」

 文化祭実行委員の彼女は、頼まれていたものを運ぶ途中だったらしい。段ボールを両手に抱えたまま涼香の元へ走ってくる。

「ちょっと、杉野くん! 涼香になにしたの?」
「なにもしてないよ」

 敵意を向けるこころに、明は慌てて両手を振った。

「僕はただ、大楠を慰めようと……」
「じゃあなんで、涼香がつらそうな顔してるの? おかしいよね? どういうこと?」
「こころ、大丈夫だから。明は悪くないから」

 しがみつくようにこころのカーディガンをつかむ。すると、こころは険悪な空気をわずかに解いた。

「そう……それならいいけど。でも、杉野くん、傷心してる女の子にすぐ近寄っちゃだめだよ。誤解されてもしょうがないんだから」

 ビシッときつく言い放たれれば、明は言葉に詰まり、枯れた苦笑を漏らした。

「あー、うん。ごめん。そうだよね……」
「もう! 気をつけなさい!」

 ようやくこころの声がおどけた調子に変わる。涼香はほっと安堵し、明を見やった。彼も目元を緩めている。そして、ため息混じりに言った。

「でもさ、このタイミングで別れるなんて、意味がわからないよ。僕もあいつとはつき合いが長い方だと思うんだけど、理解不能」

 こういうときに限って、彼のフォローは裏目に出る。かえって逆効果となり、涼香は無言で教室へ戻った。

「んもう! 杉野くんのバカ!」

 こころの罵声(ばせい)が飛び、明の不満そうな唸りが背中を突き刺した。

 ***

 夕暮れのミギワ堂古書店は、蛍光灯の光よりも西陽の主張が強い。古本だらけの棚の中で、涼香は読んでいた漫画をパタンと閉じた。

「デジャブだ」

 おもむろにつぶやくと、こころが顔を上げた。レジ台に座って、古本を開いている。その「逆巻きの時空間」という小難しいタイトルの本を引ったくると、こころは「わぁ」と気が抜けた声をあげた。

「私、前にも優也にふられて、明に慰められたことがあるんだよね」

 ちょっと前にタイムリープをした、とまでは言えなかった。肝心なところで言葉がひるんでしまう。

「それは、デジャブってやつ? あるある、そういうこと」

 答えるこころの目は柔らかだ。なんとなく憐れみを感じる。その目に指を突き刺そうとすると、彼女は大きくのけぞって回避した。

「嫌な夢でも見たんじゃない?」
「うーん? だとしても、正夢になってるし。最悪」

 あれは夢だったんだろうか。確かめる必要がある。

「ねぇ、こころ。一年のときの文化祭で、BreeZeが歌った曲はなんだった?」

 聞いてみると、こころは視線を上に向けて、思い出すようにリズムをとった。

「えーっと、サビが確か……はじける水色、ポップポップ……ポップシャワー!」
「正解。じゃあ、私が優也に告白された場所って、どこだったっけ?」
「図書室の下の階段」

 これは回答が早かった。
 やはり書き換わっている。あのいっときの時間旅行は夢ではなかった。どうしてタイムリープができたのか、いまだにわからない。

「あのさ、私はSFに詳しくないから、よくわかんないんだけどさ」

 本の表紙を見つめながらゆっくりと言う。宇宙色のワームホールが描かれた黒い表紙。かつてはクリアだったろう紙の質感をなぞる。

「なんて言うの……ほら、タイムリープみたいなことって、現実的に起こるものなの?」

 ちらりと視界に入れたのは、十年前に流行ったアニメ原作の漫画。主人公の男の子が過去に戻って、失恋相手だった同級生の女の子を助けに行くストーリー。女の子は事故に遭う運命を回避するというハッピーエンド。

「うーん……どうなんだろ? でもさ、時間の巻き戻しができるおまじないならあるよ」

 こころがもったいぶって頬杖をついた。それに涼香はすぐに食いつく。

「さかさ時計のおまじない?」
「そうそう。よく知ってるねー」

 拍子抜けしたように言うこころに違和感を覚える。涼香は首をかしげた。

「あれ? 一年のときに教えてくれたんじゃなかったっけ?」
「そうだっけ? 忘れちゃったー」

 こころの記憶力は薄いようだ。意味不明な敗北を感じ、涼香はため息を吐いた。

「それって、嫌なことを回避するおまじないでしょ?」
「なに言ってんの。これはちゃんと時間を巻き戻すおまじないなんだよ」

 こころはムキになって言った。対し、香は眉をひそめて鼻で笑う。

「あー! バカにした! ほんとなんだってば!」

 身を乗り出し、こころが本を奪い返す。そして、不満に頰をふくらませた。

「このおまじないはね、実在したタイムトラベラーにちなんだもので、結構あちこちで流行ったんだから」
「うわぁ、すっごく胡散(うさん)くさい……」
「ちゃんと事例があるんだよ。これで過去に戻ったひともいるし、デジャブを経験したり、危機回避したり。ネットで検索したらいっぱい出てくるし、この本にも書いてある。信ぴょう性はかなりあると思うよ」

 こころの声音が低くなる。涼香は笑いつつも、血の気が引いた。まさかそんな裏話があったとは思いもよらず、またそんなおまじないを軽い気持ちで行ったことを後悔する。
 しかし、このおまじないをやってみたからといって、おいそれと過去に戻れるわけがない。いや、どうなんだろう。戻った事例がすでにここにある。
 涼香は神妙に唸った。どうにも納得がいかない。脳は混乱を極めている。

「……涼香ー、あんまり思いつめないでね? まぁ、過去に戻りたい気持ちはよくわかるけど」

 こちらの不穏を読み取り、こころが遠慮がちに言ってきた。

「……やっぱり、精神的にきついんだよ。必死に忘れようとしてない? 泣きたいときは思いっきり泣いていいんだよ。つらいときは素直に吐き出して。でないと、涼香が壊れちゃうよ」

 こころの声がだんだんと深刻になっていく。そんな親友の姿を見て、涼香は思わず口を開いた。

「大丈夫だって。失恋ごときでそう簡単に壊れてたまるかっての」
「でも、あたしは、そういうのをいままでに見たことがあるから、わかるんだよ」

 言いにくそうに飛び出すこころの声。そこにはかすかに不快が垣間見(かいまみ)れた。

「涼香だって、知ってるでしょ。あたしの両親のこと」

 そこまで言われて、ようやく涼香は思い当たった。

 こころの両親は、彼女が十二歳のころに離婚(りこん)した。父と母の末路は、喧嘩別れだったそうだ。かつては愛し合って結婚したはずの二人がいがみ合い、顔も見たくないほどに憎んでしまう。そんな一部始終を見てきたこころだからこそ敏感(びんかん)に感じ取れるのだろう。

「……私も、ちょっとよくわかんないんだ」

 ようやく出た答えはひどく曖昧なものだった。

「優也と別れたっていう実感がない。将来のこととか考えないといけないのに、目の前のことでいっぱいいっぱいで、どうしたらいいのかわかんない」

 タイムリープも都合のいい妄想なのかもしれない。運命を変えたいと、現実逃避した結果なのかもしれない。答えはどこにも見つからない。

「じゃあさ」

 やがて、こころがさっぱりとした声で言った。自然とうつむいていた顔を上げる。こころの爛漫(らんまん)な笑顔が目の前にあった。

「家でさかさ時計のおまじないをやってみようよ。あれは一人でやらなきゃいけないから、お互いの部屋で試してみる。それで、明日の朝に答え合わせしようよ」

 なんだかこちらの事情を汲んだような言い方だ。それも、かなり気を使っている節がある。
 涼香は不服にも頷いた。落ち込んでメソメソしているのは、やっぱりキャラじゃない。かっこ悪い様をさらしかけたことに呆れてしまう。鼓舞(こぶ)するように手のひらに力を入れて握った。
 空はまだ青く、西へ緑と黄色、オレンジのグラデーションがかかっている。オレンジなのに青い。対比した色合いなのに、不思議と目に優しい。冷えた寒色に、燃える暖色。境界線が曖昧で、涼香はこの気持ちと同じようだと思った。

 ――もう一度戻れるなら、次は必ず運命を変えてやる。

 あんな結末が訪れる未来なんて、いらない。