——一年の文化祭っていうことは。
隣で文化祭のパンフレットをチェックするこころに構わず、涼香はゆっくりと逡巡した。
一年生の文化祭。高校初めての文化祭。手探りで作りあげた教室は、ふわふわのパンケーキをかたどった看板に綿をふんだんに使った。店のレイアウトをいちから考え、最初から最後まで楽しかった。そして、クラスの実行委員は優也と涼香だ。
「うーわー、超めんどくさーい!」
「はぁー? いまさら何言ってんの? 昨日あんだけ張り切ってたくせにー」
こころがニンマリしながら言う。涼香は頭を抱えた。
昨日のことなんか覚えてない。だって、十八歳なんだから。ちょっと先の未来から来たと言い張っても、こころは絶対に信じないだろう。いや、信じるほうがどうかしている。
「あ、ねぇね、郁ちゃんのバンドってさぁ、『BreeZe』ってバンド名らしいよ。ほら、午後一番のステージ」
「あー、うん。そうね……それなら、明も一緒に……」
「あけ?」
こころが首をかしげる。初めて発する言葉のように言い、眉を寄せた。涼香の頰が一気に硬直する。
「〝あけ〟って、確か杉野くんのこと? 一組の」
そうだった。このとき、こころはまだ明のことを知らない。優也の親友だというのは知っているが、ほとんど面識がないのだ。実際、涼香もこのときまではそうだった。
再び頭をかかえる。迂闊に発言するとボロを出しそうだ。
「そうそう、一組の杉野明。ゆ……寺坂の友達の。この間、一緒に観ようって誘われて。寺坂と一緒に。で、こころも一緒にどうかなーって」
我ながら機転がきいている。こころもすんなり納得した。
「そうなんだー。確かに、寺坂くんと涼香、仲いいもんね。お似合いだもん。いいなー、同中」
その言い方に、涼香は目を細めた。こころが仕切る告白大作戦が早くも実行されていることに気がつく。
——すでにここから始まってたのか。
二年前は気づかなかったが、状況を把握してみるとなんとも悔しい気持ちになってくる。抗うつもりはないが、せめてもの意地で皮肉った。
「そんないいものじゃないよ。なにかと張り合ってくるし、絡みうざいし、声は大きいし、よく食べるし、バスケがうまいってだけでとくに取り柄がない」
口をついて出たのは彼への不満。しかし、それすらもこころには甘く響いたらしく、ニヤニヤと笑みを浮かべた。
「んふふ。褒めてるのか、けなしてるのかわからない言い方」
「……はぁ」
もう何も言うまい。涼香は口を真一文字に結んだ。
***
よくよく考えてみれば、クローゼットに放り込んだはずのパンフレットが机に置かれていたことや、学校に忘れたはずのカーディガンを着ている時点で気づくべきだった。意味不明な敗北を感じる。普段いかに毎日を無意識に生きているのかを思い知った。いや、日常に盛大な意味を感じながら生きている人間なんて、めったにいないと思う。
そんな自問自答も無意味だと気がついたときには、学校に到着していた。
桜の木が脇に並ぶ校門は、一段と派手に彩りが施されていた。カラフルなボックスを組み合わせたアーチ。板で切り取られた「第四十二回 青浪高校文化祭」の文字は実行委員会と美術部の共同制作だ。涼香は実行委員会に所属していたが、ポスターやチラシの制作班に入っていたので、完成までろくに携わっていなかった。
「わーお。めっちゃきれいだねー」
横に並ぶこころがキラキラと目を輝かせて言った。好奇心旺盛なプードルみたい。
いっぽう、涼香はいまだにこの不思議な状況を受け入れていなかった。
「ほらほら、ぼーっとしないで! 涼香らしくない! まだ寝ぼけてるんなら、もう一発いっとく?」
ビンタの仕草をするこころ。さきほどよりも確実にスナップがきいている。空気がぶれる音がし、涼香は慌てて首を横に振った。
「いい! もういい!」
「ありゃ。そんなに痛かった? ごめんね」
今度は遠慮がちに上目遣いをする。こうもやられっぱなしだと悔しいので、涼香は彼女のひたいを「えいっ」と指ではじいてみた。
「いったぁぁーっ!」
「仕返し」
ふふん、と笑ってみると、それまで考えていたことがどうでもよくなってきた。この際、モヤモヤも指ではじいてしまおう。
目の前に広がる華やかな露店のテントが祭りの予感をふくらませる。その間をせわしなく走り回る生徒たち。巡回する先生たちもみな笑顔だ。
「ほら、こころ。行くよ」
校門をジャンプするようにまたぐ。アーチをくぐり抜けると、そこは非日常の極彩色。枯れた桜の葉も色づいていて、まるで紅葉のよう。
どこかでトウモロコシを焼く香りがする。体育館では音合わせをするギターの派手なカッティング。グラウンドでは管楽器がはずむ。中庭からは合唱部のハミング。そして、高い笑い声。学校全体が高揚感に包まれていて、新しくも楽しい空気を感じた。
じんわりと胸を打つのは、ここまで入念に準備してきた達成感。そうだ。そういうものを忘れていた。目の当たりにすると、あっさりと心が浮いた。
いつまでも感傷に浸るのは〝らしく〟ない。目の前に広がる世界に、ただただ無邪気に飛びこんでしまえばいい。
ふわふわと甘く飾り付けた教室にはクラスメイト全員が集まっていた。
「おい、おせぇぞ、実行委員!」
すぐにヤジを飛ばしたのは優也だった。鬱々とした空気はどこにもなく、彼も晴れやかな笑顔で涼香を迎え入れる。まだ、つき合う前の彼だ。
いくらか気まずく思いつつも、涼香は自然と笑顔で返した。
「ごめんごめん。楽しみすぎて夜更かししちゃって」
「涼香ったら、寝坊したんだよー! 信じらんないでしょ!」
こころが横で責める。すると、教室はどっと笑いであふれた。その笑いをかいくぐり、優也が教壇にのぼる。そして、黒板を思い切り叩いた。
「はいはーい、静粛に! やっと全員そろったので、実行委員からお話がありまーす! はい、大楠!」
呼ばれても教壇には上がりたくない。涼香は首を横に振った。
「やだやだ、私、そういうの無理……」
「いいからさっさと上がれ」
「寺坂が先にしゃべって」
涼香はなおも頑固に拒否した。ひとりひとりと話すのはいいが、教壇に上がって話をするのは緊張するから嫌だ。改まって話すのも苦手だ。そもそも、どうして実行委員になったのかというと……優也とこころの強い推薦だった。ここにも伏線が張ってあったとは。
「んじゃあ、僭越ながら」
涼香の拒否に、優也がしぶしぶといった様子でスタートを切る。クスクスと高揚を隠せない生徒たちが見守る中、優也の口がにっこりと笑顔をつくった。
「みんなの協力でここまでこれました。いよいよ今日が本番です。ひとまず、楽しい文化祭にしましょう! 全力で楽しもうぜ! 以上!」
とたんに「おぉーっ!」と湧き上がる声援と拍手。はやしたてる賑やかな口笛。その歓声を浴び、優也は涼香を手招きした。
「ほら、俺はもう言ったぞ。次、大楠。お前もがんばったんだからさ」
その言葉に、こころが背中を押してくる。ほかの女子生徒たちも涼香を教壇に上げようと腕を引っ張る。男子たちが手を叩く。
こうなっては、やるしかない。涼香は息を吸い込んで全員を見渡した。
「えーっと……普段、あんまりこういうことやらないんですが……でも、いい経験になりました。みんな、ありがとうございます」
ここまでの達成感は実感がないものだ。優也の言葉を借りるように、ぺこりとお辞儀すると、またも室内は笑いであふれた。
「なんか最後のあいさつみたいだな! まだ始まってないっていうのに!」
すかさず優也がすくい上げる。涼香は肩の力を抜いて笑った。
「はい! それじゃあ、もうすぐ開会式始まるんで、外に出よう」
優也の声と同時に、スピーカーからチャイムが鳴り響く。
『生徒会からのお知らせです。まだ教室に残っている生徒たちは、速やかにグラウンドへ集合してください』
教室が一気に慌ただしくなり、全員が廊下へ飛び出した。こころに続いて、その後ろを涼香も追いかける。
「大楠」
ふいに呼び止められ、涼香は振り返った。優也が固い表情で立ち止まっている。
「なに?」
さっきまでの威勢はどこへやら。二人きりになったとたん、彼は声を低めて真剣になる。
「……えーっと。やっぱ、なんでもない!」
「はぁ? なんなのよ」
文句を飛ばすも、涼香はすぐに記憶を巡らせた。
後夜祭、優也から告白される。これも作戦のうちだったのでは。
廊下を見やると、こころの三つ編みが窓枠からはみ出していた。
——なるほど。
ここで告白するように仕向けていたんだろう。涼香は目を細めて優也を見つめた。
彼がいま、なにを考えているのかが手に取るようにわかる。素直に言えず、照れくさくて仕方がない。誘おうにも誘えない。彼はいま、とても焦っている。
だったら——
「寺坂。あのね、私、今日はけっこう忙しいんだ」
「あー……そうだな。知ってる」
「たぶん、いろいろ見てまわれないと思うんだ」
「あぁ」
結局、教室から離れられずに、近くの催しを見るだけで終わった一年の文化祭。明が引き起こした事件に巻きこまれ、優也と一緒に尻拭いをした。
優也との甘い思い出は、後夜祭のときだけだ。だから、今回はもっとスムーズに済ませてみよう。
「後夜祭は暇だから」
ほんの些細なイタズラ心だった。試すようなことを言って、彼の反応を面白がっている。どうせ夢なら、結末は変わらないし。
案の定、優也は口をあんぐり開けて、首を縦に振った。
「わかった。後夜祭な。そのときにするわ」
優也は安堵しつつも、少しだけ悔しそうに口をすぼめていた。
その時、外の賑わいに拍車がかかる。
『ただいまより——第四十三回——青浪高校文化祭を——開幕します!』
生徒会長の元気な声が窓を突き抜けた。
「うっわー! やべー! もう始まるじゃん!」
優也は慌てて廊下に出た。涼香もその後ろを追う。派手に装飾が施された無人の廊下をバタバタと足音を鳴らし、二人で駆け抜ける。
『それでは、みなさん、せーの!』
掛け声とともに色とりどりの風船が空へ放たれた。昇降口を飛び出すと、すでに風船は生徒たちの手から離れていく。花火が上がるような、空気を伝う音が高い空を沸かす。
「あーあ! 遅かったー」
優也が悔しそうに言った。その声がたくさんの拍手にかき消されていき、涼香は思わず笑った。
たちまち辺りは騒然となる。メイド服やきぐるみ、大きなマスコットキャラクターや手作りの衣装を見に付けた生徒、おそろいのTシャツを着たクラス、部活のユニフォーム姿でごった返した。
すると、グラウンド特設ステージで吹奏楽部の演奏が始まった。楽器が一斉に音を揃える。その大きな衝撃に、その場にいた生徒たちが歓声を上げた。中には踊りだす女子グループもいる。流行りの邦楽をアレンジした演奏だ。
「大楠」
「んー?」
流れる人混みの中で、二人は向き合って笑う。調子を取り戻した優也が親指を突き上げた。
「楽しくやろうぜ」
「おう!」
涼香も真似して親指を突き上げる。それを合図に、ふたりはその場からゆるゆると後ずさった。ひとの波が押し寄せ、優也の姿が見えなくなった。
「すーずーかー!」
ごった返す人波の中を、こころがかいくぐって走ってきた。三つ編みがわずかに崩れている。そんな彼女を見下ろすように、涼香は腰に手を当てて言った。
「こころ、はかったな」
「え? なんのこと?」
「とぼけないで。あんたが寺坂と二人きりにさせようとしてるのはバレバレなんだから」
「えぇ?」
なおもこころはごまかす。首をかしげて、わざとらしく白目を剥いた変顔を見せてくる。
「まぁまぁ。これをきっかけにつき合ってみるのもアリじゃん? 寺坂くん、かっこいいし」
「えぇー? かっこいいかぁ? そうかなぁ?」
口はついつい辛辣になった。それも祭りムードのせいか、これから起きる甘い時間の予感か。意地っ張りな心は、この時間を密かに楽しんでいた。
校舎へ戻って、お祭りムードの廊下を過ぎる。例えようのない愉快な気分。足は幾分軽やかだ。
「まぁま、なんだか元気が戻ったようで安心だよー」
雑踏の中、こころがひっそりと言った。怪訝に見やる。
「え?」
「だって、不安だったんでしょ? 文化祭実行委員だし、なんかあったら怖いし。でしょ?」
「あー……」
返答に困る。しかし、こころは涼香の反応に構うことなく続けた。後ろ手を組んで微笑む。
「あたし、涼香のことならなんでもわかるんだからね」
いかにも親友らしいセリフに、気恥ずかしさが沸き立った。
教室のドアを開け放つと、スタンバイしているクラスメイトたちのはしゃいだ声が飛びこんでくる。陽気な圧迫感に怖気づくも、こころが後ろからポンと背中を押した。
「さぁ、文化祭だ!」
隣で文化祭のパンフレットをチェックするこころに構わず、涼香はゆっくりと逡巡した。
一年生の文化祭。高校初めての文化祭。手探りで作りあげた教室は、ふわふわのパンケーキをかたどった看板に綿をふんだんに使った。店のレイアウトをいちから考え、最初から最後まで楽しかった。そして、クラスの実行委員は優也と涼香だ。
「うーわー、超めんどくさーい!」
「はぁー? いまさら何言ってんの? 昨日あんだけ張り切ってたくせにー」
こころがニンマリしながら言う。涼香は頭を抱えた。
昨日のことなんか覚えてない。だって、十八歳なんだから。ちょっと先の未来から来たと言い張っても、こころは絶対に信じないだろう。いや、信じるほうがどうかしている。
「あ、ねぇね、郁ちゃんのバンドってさぁ、『BreeZe』ってバンド名らしいよ。ほら、午後一番のステージ」
「あー、うん。そうね……それなら、明も一緒に……」
「あけ?」
こころが首をかしげる。初めて発する言葉のように言い、眉を寄せた。涼香の頰が一気に硬直する。
「〝あけ〟って、確か杉野くんのこと? 一組の」
そうだった。このとき、こころはまだ明のことを知らない。優也の親友だというのは知っているが、ほとんど面識がないのだ。実際、涼香もこのときまではそうだった。
再び頭をかかえる。迂闊に発言するとボロを出しそうだ。
「そうそう、一組の杉野明。ゆ……寺坂の友達の。この間、一緒に観ようって誘われて。寺坂と一緒に。で、こころも一緒にどうかなーって」
我ながら機転がきいている。こころもすんなり納得した。
「そうなんだー。確かに、寺坂くんと涼香、仲いいもんね。お似合いだもん。いいなー、同中」
その言い方に、涼香は目を細めた。こころが仕切る告白大作戦が早くも実行されていることに気がつく。
——すでにここから始まってたのか。
二年前は気づかなかったが、状況を把握してみるとなんとも悔しい気持ちになってくる。抗うつもりはないが、せめてもの意地で皮肉った。
「そんないいものじゃないよ。なにかと張り合ってくるし、絡みうざいし、声は大きいし、よく食べるし、バスケがうまいってだけでとくに取り柄がない」
口をついて出たのは彼への不満。しかし、それすらもこころには甘く響いたらしく、ニヤニヤと笑みを浮かべた。
「んふふ。褒めてるのか、けなしてるのかわからない言い方」
「……はぁ」
もう何も言うまい。涼香は口を真一文字に結んだ。
***
よくよく考えてみれば、クローゼットに放り込んだはずのパンフレットが机に置かれていたことや、学校に忘れたはずのカーディガンを着ている時点で気づくべきだった。意味不明な敗北を感じる。普段いかに毎日を無意識に生きているのかを思い知った。いや、日常に盛大な意味を感じながら生きている人間なんて、めったにいないと思う。
そんな自問自答も無意味だと気がついたときには、学校に到着していた。
桜の木が脇に並ぶ校門は、一段と派手に彩りが施されていた。カラフルなボックスを組み合わせたアーチ。板で切り取られた「第四十二回 青浪高校文化祭」の文字は実行委員会と美術部の共同制作だ。涼香は実行委員会に所属していたが、ポスターやチラシの制作班に入っていたので、完成までろくに携わっていなかった。
「わーお。めっちゃきれいだねー」
横に並ぶこころがキラキラと目を輝かせて言った。好奇心旺盛なプードルみたい。
いっぽう、涼香はいまだにこの不思議な状況を受け入れていなかった。
「ほらほら、ぼーっとしないで! 涼香らしくない! まだ寝ぼけてるんなら、もう一発いっとく?」
ビンタの仕草をするこころ。さきほどよりも確実にスナップがきいている。空気がぶれる音がし、涼香は慌てて首を横に振った。
「いい! もういい!」
「ありゃ。そんなに痛かった? ごめんね」
今度は遠慮がちに上目遣いをする。こうもやられっぱなしだと悔しいので、涼香は彼女のひたいを「えいっ」と指ではじいてみた。
「いったぁぁーっ!」
「仕返し」
ふふん、と笑ってみると、それまで考えていたことがどうでもよくなってきた。この際、モヤモヤも指ではじいてしまおう。
目の前に広がる華やかな露店のテントが祭りの予感をふくらませる。その間をせわしなく走り回る生徒たち。巡回する先生たちもみな笑顔だ。
「ほら、こころ。行くよ」
校門をジャンプするようにまたぐ。アーチをくぐり抜けると、そこは非日常の極彩色。枯れた桜の葉も色づいていて、まるで紅葉のよう。
どこかでトウモロコシを焼く香りがする。体育館では音合わせをするギターの派手なカッティング。グラウンドでは管楽器がはずむ。中庭からは合唱部のハミング。そして、高い笑い声。学校全体が高揚感に包まれていて、新しくも楽しい空気を感じた。
じんわりと胸を打つのは、ここまで入念に準備してきた達成感。そうだ。そういうものを忘れていた。目の当たりにすると、あっさりと心が浮いた。
いつまでも感傷に浸るのは〝らしく〟ない。目の前に広がる世界に、ただただ無邪気に飛びこんでしまえばいい。
ふわふわと甘く飾り付けた教室にはクラスメイト全員が集まっていた。
「おい、おせぇぞ、実行委員!」
すぐにヤジを飛ばしたのは優也だった。鬱々とした空気はどこにもなく、彼も晴れやかな笑顔で涼香を迎え入れる。まだ、つき合う前の彼だ。
いくらか気まずく思いつつも、涼香は自然と笑顔で返した。
「ごめんごめん。楽しみすぎて夜更かししちゃって」
「涼香ったら、寝坊したんだよー! 信じらんないでしょ!」
こころが横で責める。すると、教室はどっと笑いであふれた。その笑いをかいくぐり、優也が教壇にのぼる。そして、黒板を思い切り叩いた。
「はいはーい、静粛に! やっと全員そろったので、実行委員からお話がありまーす! はい、大楠!」
呼ばれても教壇には上がりたくない。涼香は首を横に振った。
「やだやだ、私、そういうの無理……」
「いいからさっさと上がれ」
「寺坂が先にしゃべって」
涼香はなおも頑固に拒否した。ひとりひとりと話すのはいいが、教壇に上がって話をするのは緊張するから嫌だ。改まって話すのも苦手だ。そもそも、どうして実行委員になったのかというと……優也とこころの強い推薦だった。ここにも伏線が張ってあったとは。
「んじゃあ、僭越ながら」
涼香の拒否に、優也がしぶしぶといった様子でスタートを切る。クスクスと高揚を隠せない生徒たちが見守る中、優也の口がにっこりと笑顔をつくった。
「みんなの協力でここまでこれました。いよいよ今日が本番です。ひとまず、楽しい文化祭にしましょう! 全力で楽しもうぜ! 以上!」
とたんに「おぉーっ!」と湧き上がる声援と拍手。はやしたてる賑やかな口笛。その歓声を浴び、優也は涼香を手招きした。
「ほら、俺はもう言ったぞ。次、大楠。お前もがんばったんだからさ」
その言葉に、こころが背中を押してくる。ほかの女子生徒たちも涼香を教壇に上げようと腕を引っ張る。男子たちが手を叩く。
こうなっては、やるしかない。涼香は息を吸い込んで全員を見渡した。
「えーっと……普段、あんまりこういうことやらないんですが……でも、いい経験になりました。みんな、ありがとうございます」
ここまでの達成感は実感がないものだ。優也の言葉を借りるように、ぺこりとお辞儀すると、またも室内は笑いであふれた。
「なんか最後のあいさつみたいだな! まだ始まってないっていうのに!」
すかさず優也がすくい上げる。涼香は肩の力を抜いて笑った。
「はい! それじゃあ、もうすぐ開会式始まるんで、外に出よう」
優也の声と同時に、スピーカーからチャイムが鳴り響く。
『生徒会からのお知らせです。まだ教室に残っている生徒たちは、速やかにグラウンドへ集合してください』
教室が一気に慌ただしくなり、全員が廊下へ飛び出した。こころに続いて、その後ろを涼香も追いかける。
「大楠」
ふいに呼び止められ、涼香は振り返った。優也が固い表情で立ち止まっている。
「なに?」
さっきまでの威勢はどこへやら。二人きりになったとたん、彼は声を低めて真剣になる。
「……えーっと。やっぱ、なんでもない!」
「はぁ? なんなのよ」
文句を飛ばすも、涼香はすぐに記憶を巡らせた。
後夜祭、優也から告白される。これも作戦のうちだったのでは。
廊下を見やると、こころの三つ編みが窓枠からはみ出していた。
——なるほど。
ここで告白するように仕向けていたんだろう。涼香は目を細めて優也を見つめた。
彼がいま、なにを考えているのかが手に取るようにわかる。素直に言えず、照れくさくて仕方がない。誘おうにも誘えない。彼はいま、とても焦っている。
だったら——
「寺坂。あのね、私、今日はけっこう忙しいんだ」
「あー……そうだな。知ってる」
「たぶん、いろいろ見てまわれないと思うんだ」
「あぁ」
結局、教室から離れられずに、近くの催しを見るだけで終わった一年の文化祭。明が引き起こした事件に巻きこまれ、優也と一緒に尻拭いをした。
優也との甘い思い出は、後夜祭のときだけだ。だから、今回はもっとスムーズに済ませてみよう。
「後夜祭は暇だから」
ほんの些細なイタズラ心だった。試すようなことを言って、彼の反応を面白がっている。どうせ夢なら、結末は変わらないし。
案の定、優也は口をあんぐり開けて、首を縦に振った。
「わかった。後夜祭な。そのときにするわ」
優也は安堵しつつも、少しだけ悔しそうに口をすぼめていた。
その時、外の賑わいに拍車がかかる。
『ただいまより——第四十三回——青浪高校文化祭を——開幕します!』
生徒会長の元気な声が窓を突き抜けた。
「うっわー! やべー! もう始まるじゃん!」
優也は慌てて廊下に出た。涼香もその後ろを追う。派手に装飾が施された無人の廊下をバタバタと足音を鳴らし、二人で駆け抜ける。
『それでは、みなさん、せーの!』
掛け声とともに色とりどりの風船が空へ放たれた。昇降口を飛び出すと、すでに風船は生徒たちの手から離れていく。花火が上がるような、空気を伝う音が高い空を沸かす。
「あーあ! 遅かったー」
優也が悔しそうに言った。その声がたくさんの拍手にかき消されていき、涼香は思わず笑った。
たちまち辺りは騒然となる。メイド服やきぐるみ、大きなマスコットキャラクターや手作りの衣装を見に付けた生徒、おそろいのTシャツを着たクラス、部活のユニフォーム姿でごった返した。
すると、グラウンド特設ステージで吹奏楽部の演奏が始まった。楽器が一斉に音を揃える。その大きな衝撃に、その場にいた生徒たちが歓声を上げた。中には踊りだす女子グループもいる。流行りの邦楽をアレンジした演奏だ。
「大楠」
「んー?」
流れる人混みの中で、二人は向き合って笑う。調子を取り戻した優也が親指を突き上げた。
「楽しくやろうぜ」
「おう!」
涼香も真似して親指を突き上げる。それを合図に、ふたりはその場からゆるゆると後ずさった。ひとの波が押し寄せ、優也の姿が見えなくなった。
「すーずーかー!」
ごった返す人波の中を、こころがかいくぐって走ってきた。三つ編みがわずかに崩れている。そんな彼女を見下ろすように、涼香は腰に手を当てて言った。
「こころ、はかったな」
「え? なんのこと?」
「とぼけないで。あんたが寺坂と二人きりにさせようとしてるのはバレバレなんだから」
「えぇ?」
なおもこころはごまかす。首をかしげて、わざとらしく白目を剥いた変顔を見せてくる。
「まぁまぁ。これをきっかけにつき合ってみるのもアリじゃん? 寺坂くん、かっこいいし」
「えぇー? かっこいいかぁ? そうかなぁ?」
口はついつい辛辣になった。それも祭りムードのせいか、これから起きる甘い時間の予感か。意地っ張りな心は、この時間を密かに楽しんでいた。
校舎へ戻って、お祭りムードの廊下を過ぎる。例えようのない愉快な気分。足は幾分軽やかだ。
「まぁま、なんだか元気が戻ったようで安心だよー」
雑踏の中、こころがひっそりと言った。怪訝に見やる。
「え?」
「だって、不安だったんでしょ? 文化祭実行委員だし、なんかあったら怖いし。でしょ?」
「あー……」
返答に困る。しかし、こころは涼香の反応に構うことなく続けた。後ろ手を組んで微笑む。
「あたし、涼香のことならなんでもわかるんだからね」
いかにも親友らしいセリフに、気恥ずかしさが沸き立った。
教室のドアを開け放つと、スタンバイしているクラスメイトたちのはしゃいだ声が飛びこんでくる。陽気な圧迫感に怖気づくも、こころが後ろからポンと背中を押した。
「さぁ、文化祭だ!」