後悔、するのだろうか。そんなことをぼんやり頭に思い浮かべて、早々にかき消した。
陽が落ちて暗くなった外の冷たさから逃れ、自宅へ引っ込む。リビングから漂う夕飯のにおいに目もくれず、涼香はまっすぐに部屋へ向かった。こころの心配そうな顔が頭から離れてくれない。
心配されるのは苦手だ。重たい現実も憂鬱も。そういうものを抱えることに慣れていない。
涼香は、カバンから文化祭パンフレットを引っ張り出した。水彩の青空が描かれたシンプルなデザイン。「第四十五回 青浪高校文化祭」という大きな明朝体が中央に並ぶ。
明日に備えて、見てまわるところをチェックしよう。どうせ、クラスの催しには参加しないし、こころと明と気晴らしに遊びたい。
二つ折りのA3用紙には、各クラスと部活が主催する模擬店やゲーム、演劇などが羅列されており、その横には体育館ステージとグラウンドステージのプログラムが載っている。郁音が出演するロックバンドは午後一番の十三時半。その時間帯に明が暇だったらいいけれど。そんなことを考えつつ、ふと脳裏に優也の顔が割り込んでくる。
——ほんとなら、明じゃなくて優也と……
そこまで考えて、パンフレットを閉じた。
「ふっ。クラス内恋愛のこわいところは、別れたときの気まずさだ」
思考を打ち消すように、ひとりごとを天井に放つ。
「あーあ。あのときは楽しかったなぁ……って、これが後悔か。なるほどね。私も後悔とかするんだなぁー、あはは」
——あぁ、もう。
クラスでうまくいかなくなったのは、優也にふられたから。みんなが距離をとるようになったから。その波紋はあっという間に広がってしまい、思えば羽村との衝突も急だった。無言の遠慮と憐れみ、そして腫れ物扱い。気丈にしているつもりなのに、教室の気圧をはねのけるほどの強さはなかったわけだ——自己分析終了。
いつの間にか「かわいそうな子」になっていたらしい。せっかくの文化祭だが、もう楽しめないだろう。楽しくない祭りに参加する必要はない。
涼香はパンフレットをクシャクシャに丸めて、ゴミ箱に投げ捨てた。
その瞬間、机に置いたスマートフォンが音を鳴らす。トークアプリの通知音だった。ノロノロとベッドから降りてスマートフォンをつかむと、画面には「杉野明」という文字があった。
【明日、絶対に来いよ】
「うわっ」
見張られているんじゃないかと思うほどにタイミングがいい。すると、こころからも連絡が届いていた。
【明日はお家まで迎えに行くからね!】
「もう……二人とも……」
とにかくほっといてほしいのに。気遣いはありがたいのだが、気が乗らない。返事をせずに画面をひっくり返してしまい、再びベッドに寝転がった。白い天井をぼうっと眺める。
——明日なんてこなくていいのに。
ふと、そんなフレーズがよぎる。と、同時に夕方、こころが読んでいた本も思い出す。たしか「逆巻きの時空間」とかなんとか。「逆巻き」とは少し違うが、ちょっと前にもこころが似たようなおまじないにハマっていたような。
「えーっと。さかさ時計のおまじない、だっけ?」
嫌なことを回避できるおまじないだ。たしか、そういう気休めじみたもの。方法はどんなものだったか。
涼香はクローゼットを開けた。中には制服と学用品が放り込んである。
一年生のときの文化祭パンフレットを引っ張り出した。紺色のカーディガンにブルーのリボン、チェック柄のスカートといった、青浪高校の制服を着た女の子が笑うイラストが現れる。たしか、このパンフレットにこころが落書きしていたはず。
「あった」
裏面の、校舎案内図の上にさかさまの文言を見つけた。
【さかさ時計のおまじない】
①人生で一番幸福な瞬間を思い浮かべる
②北極星を軸に反回転する
③三回深呼吸をする
※注意・必ず一人で行うこと
「うわぁ……嘘っぽい……」
これがどうして「さかさ時計」なんていう名称なのか、さっぱりわからない。しかし、おまじないなんてものは基本的に気休めだ。
涼香はパンフレットをクローゼットに放り投げ、ベッドの上に立った。そして、なんとなく目をつむる。
幸福の瞬間——人生で一番の幸福——やはり、優也に告白されたあのシーンだろう。よくも悪くも、あれほどの幸福感は二度と訪れなかった。優也の腕に包みこまれた瞬間は、昨日のように思い出せる。あれが一番の幸福だというのなら、彼への未練がたっぷりあるじゃないか。
左足を軸にくるりと左へ回ってみる。北極星なんてどこにあるのかわからないし、家の中だから確かめようがない。全身が壁を向いたが、なんとなくまだ目をつむったままでいる。
それから、三度の深呼吸。ゆっくり、息を吸って——吐いて。吸って、吐いて。もう一度吸って、吐き出す。
涼香はおそるおそる目を開けた。
目の前には白い壁。
「ぶっ……ふはははっ」
誰も見ていないのに、とたんに恥ずかしい。
腹を抱えて笑い、しゃがみこんでベッドに倒れる。思い切り声に出して笑うと、肺に冷たい空気が流れ込み、爽快にも感じられる。
「はーあ。でも、ちょっとは気が楽になったかも? 変なおまじないも意外と役に立つじゃん」
こうなったら開き直って文化祭を楽しんでやる。でないと、優也に負けた気がして悔しい。私は、あんたなんかいなくても平気なんだから、という態度を見せつけてやる。
「さぁ、寝よ寝よー」
今年のパンフレットはゴミ箱に放ったまま。電気を消して、ベッドに潜り込む。まくらに顔をうずめて素早く寝入った。
***
始まりも終わりも優也からだった。
「ごめん、涼香……別れてほしい」
大事な話がしたいと言われて、誘われるままにゴミ収集場に行き、腐葉土みたいなにおいのする空の下で静かに切り出された。言われた直後は、意味がわからなかった。しかし、彼との距離が離れていることは薄々感じていたから、自然と腑に落ちてしまう。
冷たくてかわいげのない彼女と付き合うのがつらくなった。そんなところだろう。彼の感情を勝手に分析し、涼香はじっとりと毒を含んだ声で言った。
「あー……もしかして、私のこと嫌いになった?」
「いや」
「じゃあ、ほかに好きな子できた?」
「違う」
嘘がつけない性格だから、もしほかに好きな子ができたとして、それを隠し通す器用さはない。ある意味まっすぐで純粋な彼だから、そういうところは信頼できる。
わかっていても涼香の口は意地悪に笑った。冷え冷えとした声で優也を嘲った。そうして、追い詰められて口をまごつかせる彼の目をじっと見つめる。
「……ほら、もうすぐお前も受験だろ」
「そうだね」
「俺はスポーツ推薦の枠が取れたし、うまくいけば進路はそっちになるし」
「うん。それで?」
「遠距離になるだろ」
「うん。私はそれでもいいって、言ったよね」
優也の進路に口出しなんかできるはずがなく、どちらかと言えば、彼の夢を応援したかった。彼の夢を優先した。わがままを言わず、利口にしていたはずだ。それなのに別れを告げられるなんて。
だったら、理由はひとつしかない。嫌われた。でも、それを彼は言わないでいる。優しいから、どうにか傷つけないようにしている。そう思えた。その態度がかえっていらつく原因にもなるのだが。
そのいらだちを察したか、やがて彼は鬱憤を吐き出すように言った。
「俺の気持ち、考えてよ」
「はぁ?」
問題を投げつけられてしまったことに驚いてしまい、声が大きく出てしまった。非難の声が余計に空気を凍らせ、すると、優也も不機嫌な表情になる。
「遠距離になって、お前と一緒にいる時間も減って、そうなったら、付き合ってく自信がないんだよ」
随分と弱気な理由だった。情けない。それが二年付き合った結論か。
近くにいられないから、ほかのひとになびくかもしれないと、そんな不安が彼の中で渦巻いている。つまり、信用されていない。そういうことだろう。悲しみよりも脱力感が勝り、涼香はため息を吐いた。
「あぁ……そう……じゃ、しょうがないね」
我ながら物分りがいいと思う。泣いてすがって「別れないで」と感情をぶつけるのはかっこ悪いから、どうやってきれいに終われるのかを考え始めた。
『どこで間違えたのかな?』
ふいに、頭上から声が降ってきた。ような気がした。
見上げると、そこには薄く白んだ空。桜の木は秋風に震えて、葉が萎びている。突如、舞い上がる風。砂と枯葉が旋回する。
そのとき、景色が滑らかに色を変えた。早戻しの映像を見ているような。同時に、耳元でギュルギュルとフィルムを巻く音がする。
空が、廻る。
濃紺とオレンジと、水色と白。黄色の光源が点滅し、一定の間隔で横切る。色が反発し合う。ぐるぐるとかき混ぜられ、次第に渦を巻いて溶ける。やがて色がもつれ、淡い色は濃い色に吸収された。
その極彩色の天井へ思わず手をのばすと、涼香の腕までもが一気に飲み込まれた。
***
「……涼香ー? 涼香ってばー、早く起きなさーい」
水にうもれたように遠い声。それが母の呆れた声だと気がつくのに、数分を要した。
ガバっと勢いよく飛び起きると、なんだか目の前がチカチカする。頭を振ってまぎらわせていたら、再び母の声が響いてきた。
「んもう、涼香ー? こころちゃんが迎えにきてるんだけどー! 早く支度しなさいよー」
「んー。わかったー」
涼香はあくびを噛みながら返事した。
喉が痛い。かさついていて、渇ききっているようだ。
ベッドから降りるとようやく頭が冴えてくる。シャツとスカートを身につけ、リボンの位置を鏡で見て、紺色のカーディガンに袖を通す。机の上に置いていたきれいなパンフレットをカバンに押しこみ、部屋を出る。階段を駆け下りると、エプロン姿の母が食卓で頬をふくらませていた。
「外でこころちゃんが待ってるから、朝ごはん抜きで行ってきなさい」
「えー? ひどーい!」
「文化祭なんだし、適当に学校で食べればいいでしょー? 待たせてるんだから、朝ごはんよりも友達優先! ほら、行った行った!」
容赦ない言い方に、涼香も母と同じく頬をふくらませる。カバンを肩に引っ掛けて、不満たっぷりに「行ってきます!」と投げつける。
玄関を飛び出すと、ふわふわの三つ編みが手を振って笑いかけてきた。
「おはよ! 涼香!」
「おー、おはよー」
こころは朝からテンションが高い。今日は一段と張り切っている。
「今日は高校〝初めて〟の文化祭だね! 気合いれて楽しもう!」
「あー、うん。そうね。気合いれて楽しもう……」
言ってから、口をつぐむ。こころの言葉に違和感を覚える。彼女の肩をガシッとつかみ、涼香はこころを見つめた。
「いま、なんて言った?」
「へ? 気合いれて……」
「じゃなくて、高校初めての文化祭って言った?」
その問いに、こころはキョトンと目を丸くした。やがて、合点したように口を開く。
「あー、そっちね! うん。言ったね。だって、高校初めての文化祭だし」
「いやいやいや、待って。私たち、今年で最後のはずでしょ。こころ、なに寝ぼけてんの」
いくら文化祭だからといって、そんな低レベルなはしゃぎようはないと思う。
すると、こころは目を大きく見開かせて声を上げた。
「はぁー? 涼香のほうが寝ぼけてるじゃん! 顔洗って出直してらっしゃいよ!」
「顔は洗ったし。寝ぼけてないし」
彼女とは話が噛み合わないこともしばしばあるが、ここまで重症じゃなかったはずだ。
しかし、こころは頑として「高校初めて」を連呼する。カバンから文化祭のパンフレットを引っ張り出した。
「ほら! 第四十三回青浪高校文化祭!」
具体的な回数を言われてもピンとこない。しかし、その表紙を見せられて、涼香は慌てて自分のカバンを探った。今朝、寝ぼけたままで自然とつかんでいたパンフレット。昨夜、丸めて捨てたはずだ。
よく見ると、表紙のイラストが違った。シンプルな青空ではなく、漫画タッチのイラストが笑いかけている。
「涼香、だいじょうぶー?」
この異常事態に、こころも不安な表情を見せた。そんな彼女におそるおそる聞いてみる。
「こころ……今日、私たちがやるのって、脱出ゲームだよね?」
「なに言ってんの。あたしたち、一年二組がやるのはパンケーキ屋さんだよ。まぁでも、来年以降はその方向で考えるのもアリだねー」
噛み合ってないのに納得するこころは、楽しそうに言う。涼香は空を仰いだ。
——なんか、タイムリープしてる……しかも、地味に。
認めたくはないが、こころの言っていることが正しいなら、おそらく二年前の文化祭の日に戻っている。まだ夢を見ているのかもしれない。
涼香は自分の頬をつまんだ。痛みはある。しかし、確かめようがない。
「こころ、私のほっぺた叩いて」
頬を差し出してうながす。すると、こころは躊躇なく構えた。パーン!と、勢いよく水平に手のひらが頬をはじく。
「いったぁぁーっ!? えぇーっ!? 嘘でしょ!」
「へ? だって、叩けって言うから……」
「しんっじらんない! 普通、水平ビンタする!?」
「目がさめるかと思って」
親友の気遣いが斜め上を走っていく。
涼香はビンタをくらった頬をさすり、飛び出た涙をぬぐった。突き抜けるような痛みは本物で、どうやら夢ではないようだ。
「ほら、もう! 早く行こうよー! 開会式、間に合わないじゃん!」
かかとをはずませて涼香を引っ張るこころ。なすがままに連れて行かれる。
「えぇ……やだ、ありえない……」
「んもう! グダグダ言わないのー!」
親友の叱責を受け、涼香は戸惑いながら学校への道を進んだ。
陽が落ちて暗くなった外の冷たさから逃れ、自宅へ引っ込む。リビングから漂う夕飯のにおいに目もくれず、涼香はまっすぐに部屋へ向かった。こころの心配そうな顔が頭から離れてくれない。
心配されるのは苦手だ。重たい現実も憂鬱も。そういうものを抱えることに慣れていない。
涼香は、カバンから文化祭パンフレットを引っ張り出した。水彩の青空が描かれたシンプルなデザイン。「第四十五回 青浪高校文化祭」という大きな明朝体が中央に並ぶ。
明日に備えて、見てまわるところをチェックしよう。どうせ、クラスの催しには参加しないし、こころと明と気晴らしに遊びたい。
二つ折りのA3用紙には、各クラスと部活が主催する模擬店やゲーム、演劇などが羅列されており、その横には体育館ステージとグラウンドステージのプログラムが載っている。郁音が出演するロックバンドは午後一番の十三時半。その時間帯に明が暇だったらいいけれど。そんなことを考えつつ、ふと脳裏に優也の顔が割り込んでくる。
——ほんとなら、明じゃなくて優也と……
そこまで考えて、パンフレットを閉じた。
「ふっ。クラス内恋愛のこわいところは、別れたときの気まずさだ」
思考を打ち消すように、ひとりごとを天井に放つ。
「あーあ。あのときは楽しかったなぁ……って、これが後悔か。なるほどね。私も後悔とかするんだなぁー、あはは」
——あぁ、もう。
クラスでうまくいかなくなったのは、優也にふられたから。みんなが距離をとるようになったから。その波紋はあっという間に広がってしまい、思えば羽村との衝突も急だった。無言の遠慮と憐れみ、そして腫れ物扱い。気丈にしているつもりなのに、教室の気圧をはねのけるほどの強さはなかったわけだ——自己分析終了。
いつの間にか「かわいそうな子」になっていたらしい。せっかくの文化祭だが、もう楽しめないだろう。楽しくない祭りに参加する必要はない。
涼香はパンフレットをクシャクシャに丸めて、ゴミ箱に投げ捨てた。
その瞬間、机に置いたスマートフォンが音を鳴らす。トークアプリの通知音だった。ノロノロとベッドから降りてスマートフォンをつかむと、画面には「杉野明」という文字があった。
【明日、絶対に来いよ】
「うわっ」
見張られているんじゃないかと思うほどにタイミングがいい。すると、こころからも連絡が届いていた。
【明日はお家まで迎えに行くからね!】
「もう……二人とも……」
とにかくほっといてほしいのに。気遣いはありがたいのだが、気が乗らない。返事をせずに画面をひっくり返してしまい、再びベッドに寝転がった。白い天井をぼうっと眺める。
——明日なんてこなくていいのに。
ふと、そんなフレーズがよぎる。と、同時に夕方、こころが読んでいた本も思い出す。たしか「逆巻きの時空間」とかなんとか。「逆巻き」とは少し違うが、ちょっと前にもこころが似たようなおまじないにハマっていたような。
「えーっと。さかさ時計のおまじない、だっけ?」
嫌なことを回避できるおまじないだ。たしか、そういう気休めじみたもの。方法はどんなものだったか。
涼香はクローゼットを開けた。中には制服と学用品が放り込んである。
一年生のときの文化祭パンフレットを引っ張り出した。紺色のカーディガンにブルーのリボン、チェック柄のスカートといった、青浪高校の制服を着た女の子が笑うイラストが現れる。たしか、このパンフレットにこころが落書きしていたはず。
「あった」
裏面の、校舎案内図の上にさかさまの文言を見つけた。
【さかさ時計のおまじない】
①人生で一番幸福な瞬間を思い浮かべる
②北極星を軸に反回転する
③三回深呼吸をする
※注意・必ず一人で行うこと
「うわぁ……嘘っぽい……」
これがどうして「さかさ時計」なんていう名称なのか、さっぱりわからない。しかし、おまじないなんてものは基本的に気休めだ。
涼香はパンフレットをクローゼットに放り投げ、ベッドの上に立った。そして、なんとなく目をつむる。
幸福の瞬間——人生で一番の幸福——やはり、優也に告白されたあのシーンだろう。よくも悪くも、あれほどの幸福感は二度と訪れなかった。優也の腕に包みこまれた瞬間は、昨日のように思い出せる。あれが一番の幸福だというのなら、彼への未練がたっぷりあるじゃないか。
左足を軸にくるりと左へ回ってみる。北極星なんてどこにあるのかわからないし、家の中だから確かめようがない。全身が壁を向いたが、なんとなくまだ目をつむったままでいる。
それから、三度の深呼吸。ゆっくり、息を吸って——吐いて。吸って、吐いて。もう一度吸って、吐き出す。
涼香はおそるおそる目を開けた。
目の前には白い壁。
「ぶっ……ふはははっ」
誰も見ていないのに、とたんに恥ずかしい。
腹を抱えて笑い、しゃがみこんでベッドに倒れる。思い切り声に出して笑うと、肺に冷たい空気が流れ込み、爽快にも感じられる。
「はーあ。でも、ちょっとは気が楽になったかも? 変なおまじないも意外と役に立つじゃん」
こうなったら開き直って文化祭を楽しんでやる。でないと、優也に負けた気がして悔しい。私は、あんたなんかいなくても平気なんだから、という態度を見せつけてやる。
「さぁ、寝よ寝よー」
今年のパンフレットはゴミ箱に放ったまま。電気を消して、ベッドに潜り込む。まくらに顔をうずめて素早く寝入った。
***
始まりも終わりも優也からだった。
「ごめん、涼香……別れてほしい」
大事な話がしたいと言われて、誘われるままにゴミ収集場に行き、腐葉土みたいなにおいのする空の下で静かに切り出された。言われた直後は、意味がわからなかった。しかし、彼との距離が離れていることは薄々感じていたから、自然と腑に落ちてしまう。
冷たくてかわいげのない彼女と付き合うのがつらくなった。そんなところだろう。彼の感情を勝手に分析し、涼香はじっとりと毒を含んだ声で言った。
「あー……もしかして、私のこと嫌いになった?」
「いや」
「じゃあ、ほかに好きな子できた?」
「違う」
嘘がつけない性格だから、もしほかに好きな子ができたとして、それを隠し通す器用さはない。ある意味まっすぐで純粋な彼だから、そういうところは信頼できる。
わかっていても涼香の口は意地悪に笑った。冷え冷えとした声で優也を嘲った。そうして、追い詰められて口をまごつかせる彼の目をじっと見つめる。
「……ほら、もうすぐお前も受験だろ」
「そうだね」
「俺はスポーツ推薦の枠が取れたし、うまくいけば進路はそっちになるし」
「うん。それで?」
「遠距離になるだろ」
「うん。私はそれでもいいって、言ったよね」
優也の進路に口出しなんかできるはずがなく、どちらかと言えば、彼の夢を応援したかった。彼の夢を優先した。わがままを言わず、利口にしていたはずだ。それなのに別れを告げられるなんて。
だったら、理由はひとつしかない。嫌われた。でも、それを彼は言わないでいる。優しいから、どうにか傷つけないようにしている。そう思えた。その態度がかえっていらつく原因にもなるのだが。
そのいらだちを察したか、やがて彼は鬱憤を吐き出すように言った。
「俺の気持ち、考えてよ」
「はぁ?」
問題を投げつけられてしまったことに驚いてしまい、声が大きく出てしまった。非難の声が余計に空気を凍らせ、すると、優也も不機嫌な表情になる。
「遠距離になって、お前と一緒にいる時間も減って、そうなったら、付き合ってく自信がないんだよ」
随分と弱気な理由だった。情けない。それが二年付き合った結論か。
近くにいられないから、ほかのひとになびくかもしれないと、そんな不安が彼の中で渦巻いている。つまり、信用されていない。そういうことだろう。悲しみよりも脱力感が勝り、涼香はため息を吐いた。
「あぁ……そう……じゃ、しょうがないね」
我ながら物分りがいいと思う。泣いてすがって「別れないで」と感情をぶつけるのはかっこ悪いから、どうやってきれいに終われるのかを考え始めた。
『どこで間違えたのかな?』
ふいに、頭上から声が降ってきた。ような気がした。
見上げると、そこには薄く白んだ空。桜の木は秋風に震えて、葉が萎びている。突如、舞い上がる風。砂と枯葉が旋回する。
そのとき、景色が滑らかに色を変えた。早戻しの映像を見ているような。同時に、耳元でギュルギュルとフィルムを巻く音がする。
空が、廻る。
濃紺とオレンジと、水色と白。黄色の光源が点滅し、一定の間隔で横切る。色が反発し合う。ぐるぐるとかき混ぜられ、次第に渦を巻いて溶ける。やがて色がもつれ、淡い色は濃い色に吸収された。
その極彩色の天井へ思わず手をのばすと、涼香の腕までもが一気に飲み込まれた。
***
「……涼香ー? 涼香ってばー、早く起きなさーい」
水にうもれたように遠い声。それが母の呆れた声だと気がつくのに、数分を要した。
ガバっと勢いよく飛び起きると、なんだか目の前がチカチカする。頭を振ってまぎらわせていたら、再び母の声が響いてきた。
「んもう、涼香ー? こころちゃんが迎えにきてるんだけどー! 早く支度しなさいよー」
「んー。わかったー」
涼香はあくびを噛みながら返事した。
喉が痛い。かさついていて、渇ききっているようだ。
ベッドから降りるとようやく頭が冴えてくる。シャツとスカートを身につけ、リボンの位置を鏡で見て、紺色のカーディガンに袖を通す。机の上に置いていたきれいなパンフレットをカバンに押しこみ、部屋を出る。階段を駆け下りると、エプロン姿の母が食卓で頬をふくらませていた。
「外でこころちゃんが待ってるから、朝ごはん抜きで行ってきなさい」
「えー? ひどーい!」
「文化祭なんだし、適当に学校で食べればいいでしょー? 待たせてるんだから、朝ごはんよりも友達優先! ほら、行った行った!」
容赦ない言い方に、涼香も母と同じく頬をふくらませる。カバンを肩に引っ掛けて、不満たっぷりに「行ってきます!」と投げつける。
玄関を飛び出すと、ふわふわの三つ編みが手を振って笑いかけてきた。
「おはよ! 涼香!」
「おー、おはよー」
こころは朝からテンションが高い。今日は一段と張り切っている。
「今日は高校〝初めて〟の文化祭だね! 気合いれて楽しもう!」
「あー、うん。そうね。気合いれて楽しもう……」
言ってから、口をつぐむ。こころの言葉に違和感を覚える。彼女の肩をガシッとつかみ、涼香はこころを見つめた。
「いま、なんて言った?」
「へ? 気合いれて……」
「じゃなくて、高校初めての文化祭って言った?」
その問いに、こころはキョトンと目を丸くした。やがて、合点したように口を開く。
「あー、そっちね! うん。言ったね。だって、高校初めての文化祭だし」
「いやいやいや、待って。私たち、今年で最後のはずでしょ。こころ、なに寝ぼけてんの」
いくら文化祭だからといって、そんな低レベルなはしゃぎようはないと思う。
すると、こころは目を大きく見開かせて声を上げた。
「はぁー? 涼香のほうが寝ぼけてるじゃん! 顔洗って出直してらっしゃいよ!」
「顔は洗ったし。寝ぼけてないし」
彼女とは話が噛み合わないこともしばしばあるが、ここまで重症じゃなかったはずだ。
しかし、こころは頑として「高校初めて」を連呼する。カバンから文化祭のパンフレットを引っ張り出した。
「ほら! 第四十三回青浪高校文化祭!」
具体的な回数を言われてもピンとこない。しかし、その表紙を見せられて、涼香は慌てて自分のカバンを探った。今朝、寝ぼけたままで自然とつかんでいたパンフレット。昨夜、丸めて捨てたはずだ。
よく見ると、表紙のイラストが違った。シンプルな青空ではなく、漫画タッチのイラストが笑いかけている。
「涼香、だいじょうぶー?」
この異常事態に、こころも不安な表情を見せた。そんな彼女におそるおそる聞いてみる。
「こころ……今日、私たちがやるのって、脱出ゲームだよね?」
「なに言ってんの。あたしたち、一年二組がやるのはパンケーキ屋さんだよ。まぁでも、来年以降はその方向で考えるのもアリだねー」
噛み合ってないのに納得するこころは、楽しそうに言う。涼香は空を仰いだ。
——なんか、タイムリープしてる……しかも、地味に。
認めたくはないが、こころの言っていることが正しいなら、おそらく二年前の文化祭の日に戻っている。まだ夢を見ているのかもしれない。
涼香は自分の頬をつまんだ。痛みはある。しかし、確かめようがない。
「こころ、私のほっぺた叩いて」
頬を差し出してうながす。すると、こころは躊躇なく構えた。パーン!と、勢いよく水平に手のひらが頬をはじく。
「いったぁぁーっ!? えぇーっ!? 嘘でしょ!」
「へ? だって、叩けって言うから……」
「しんっじらんない! 普通、水平ビンタする!?」
「目がさめるかと思って」
親友の気遣いが斜め上を走っていく。
涼香はビンタをくらった頬をさすり、飛び出た涙をぬぐった。突き抜けるような痛みは本物で、どうやら夢ではないようだ。
「ほら、もう! 早く行こうよー! 開会式、間に合わないじゃん!」
かかとをはずませて涼香を引っ張るこころ。なすがままに連れて行かれる。
「えぇ……やだ、ありえない……」
「んもう! グダグダ言わないのー!」
親友の叱責を受け、涼香は戸惑いながら学校への道を進んだ。