青。
青い弾丸がはじけ飛ぶ。飛びのいて回避すると、色はそのまま教室の床に落ちた。
「ごめん、大楠! 絵の具かからなかった?」
羽村が大げさに慌てふためき、そのせいで教室中がわずかに静まった。
気を使っているのが丸わかりで、周囲の視線が痛々しい。そんな空気を、涼香は笑い飛ばした。
「ちょっと、羽村ー。顔にかかったらどうしてくれんのよ」
「いや、全然無事じゃん。あっぶな。焦ったー」
羽村は刷毛をバケツに突っ込み、拝むような仕草をした。
「まったくもう、しょうがないなー」
周囲の空気がいくらか緩和されるものの、一旦注目を浴びてしまうと、目のやり場に困った。
ちらりと優也を見ると、彼は慌てて目をそらした。
このところ、ずっとこれだ。教室にいると気まずいが、文化祭準備も差し迫ったこの時期、穴を空けるわけにはいかない。
「絵の具かかってたら嫌だし、顔洗ってくるわ」
「かかってないのにー。大楠ってば、ちょっと神経質じゃない?」
羽村は空気を読まなかった。そんな彼女に目で合図する。優也を気にするようにちらりと見れば、彼女はようやく事情を把握してくれた。
「お、おー。そうだね! 行ってきなよ!」
ごまかし方が下手なので呆れるしかない。ため息を吐いて、涼香は伸びをするように立ち上がった。
「じゃ、あとは任せた」
手を振って教室を出ると、固まっていた空間がようやく動きを取り戻す。まったく、クラスメイトたちの心境はわかりやすい。ドア越しに様子をうかがっていると、羽村が無言で優也を見ていた。こういうとき、羽村は頼りになる。
責めるような視線から逃げようと、優也もまた教室を出た。後方のドアを開き、すぐに目が合う。気まずい沈黙が流れた。
「えーっと……本当にかかってないの?」
優也が先に声をかけてきた。主語が足りないので、涼香は意地悪に首をかしげた。
「なにが?」
「なにって、絵の具」
いま聞きたいのはそんなことではない。涼香はジャージのポケットに手を突っこみ、ふてぶてしく顔を持ち上げた。
「己を振った女の心配をする必要はないと思いまーす」
ふざけて間延びした口調で冷やかすと、優也はなにも言えずに押し黙った。責められるのならまだしも、茶化してもてあそぶのは少々やりすぎだったとすぐに反省する。
涼香はゆらゆらと大げさに体を左右に振りながら近づいた。
「……まぁ、なんて言うの。この前は、突然あんなこと言って悪かったよ」
「本当に悪いって思ってんのか? 全然そんな風に見えないんですけど」
「うん。だからさ、ちゃんと話そう」
優也の肩を叩いてうながすと、彼もまた腹を決めたように、一歩遅れてあとを追いかけてきた。
なんの因果か、始まりと同じ場所で別れを告げた体育館裏を選んだのは、意地悪が過ぎるかもしれない。でも、やっぱりここで話をしなくてはお互いに未来へ進めないと思う。
「別れよう」と切り出したのは十月二十日だった。涼香自ら言い出したことで、優也にはなんの落ち度もない。強いて言うなら、彼は優柔不断だった。
進路と恋愛を両立するのは難しい。他県の遠い大学でバスケを続けるなら、遠距離恋愛になってしまう。それが続けられるのか不安で仕方ないと言っていた。一緒にいられないのも耐えられないし、一緒にいれば恋愛に偏ってバスケが疎かになる。このメンタルの弱さには毎度呆れるものだ。
だから、きっぱりと身を引くつもりだった。この時間の流れに抗う気はなく、それでも身勝手に寂しく思っている。時間を空けて、ゆったりと最適解を探した。
「優也のこと、好きだよ。でも、そのせいで優也が迷うなら、私はその邪魔をしたくない。夢を追いかける優也のことが好きだから」
「そんな風に言われると、ますます別れたくないんだけど」
「夢と私で揺れるくらいなら夢を選んだ方がいいよ。将来の方が大事じゃん。それを、ここでフイにしちゃうのはもったいないよ」
悩ませるくらいなら潔く身を引こう。ズルズルと関係を続けていくのは、結局どちらも甘えが生じてしまう。
優也は力なくゆるゆるとしゃがみこんだ。
「あーあ、情けねぇ。お前がそんなに気丈だと、ますますお前から離れられなくなる」
「そうなるのがダメだから別れようって、私から言ってあげたんでしょ。こうでもしなきゃ、決められないんだから」
「そうなんだよ。俺、お前がいねぇとダメなんだよ。でも両立できねぇんだよ。あー、もう」
だんだん自虐的になっていく優也だが、そんな彼の頭を優しくなでてなだめたくても、それはやってはいけないと自戒する。優しさはときに残酷な毒になるから。
理想は常に甘いのに、現実はつらい。それでも、踏ん張っていくしかない。まだ鈍感なうちに。
空気がしんみりする。
その時、背後から急な横槍が入った。
「おい、優也。いい加減にしろよ」
ハスキーな柔らかい声。後ろにいるのが明だというのは、すぐにわかった。
言葉とは裏腹に、彼はなんだか愉快そうな気配だ。
「なに? 盗み聞き? サイテー。羽村だってそんなことしないよ」
すぐに言えば、明は苦笑しつつ拝むような仕草をした。
「だって、喧嘩になったら僕が止めなきゃいけないと思って」
「そんなことするわけねぇだろ」
優也は不機嫌な声を投げつけた。それに怯んだ明が涼香のほうへ近寄る。これを邪険に手で追い払えば、彼はすかさず肩を落とした。
「で、なんだって? 俺が元カノに未練タラタラな場面を見て、お前はやけに嬉しそうじゃん」
矢継ぎ早に優也が責める。
つい先日、二人が揉めたらしいことは郁音から聞いた。これは生徒会経由で各部長らに広まった。まさか自分の彼氏の揉め事を他人から聞かされるとは思ってもみない。
これがきっかけで、涼香はとっさに破局に踏み切った。
「そんなことないよ。いまなら告白大チャンスだ、なんて思ってないから」
明はあっけらかんと言った。そのせいで確実にいま、この場に三本の亀裂が入る。
「でもさ、まだ好きなら別れなくてもいいじゃん。遠距離がつらいから? バスケも辞めたくないから? なに甘ったれたこと言ってんだよ。二年間片思いしてきた僕を馬鹿にしてるとしか思えない」
その言い方は棘があった。涼香もむやみに責めることはできず、優也と明を交互に見る。
優也はムスッと黙り込んでいた。
「それにね、あんまりグダグダされると僕もすっきりしないんだ。大楠のこと、僕が取ってもいいっていうんなら話は別だけど」
時が止まった。
優也はいらだたしげに頭を掻き、せわしなく空を見上げ、また頭を掻き、ため息を吐く。
対し、明はいたずらっぽく笑うまま。ふざけた口調で優也を焦らす。
「いいのかー? 本当にいいのかー? お前がそれでいいなら、僕が大楠とつき合うよ」
「明……」
思わずたしなめると、明は意地悪に笑った。
「ほら、優也。さっさと決めろ。いいの? お前が手放すんなら、僕がもらう」
「いや、お前にだけは絶対取られたくねぇ」
優也は明の肩をつかんで引っ張った。歯を食いしばりながら言う優也の答えは単純明快だ。これに、明が潔く敗北のため息を吐いた。
「ほら、大楠も変な意地張らないでさ、そうしなよ。優也を助けられるのは、大楠なんだから」
明の目は、わずかに潤んでいたように見える。
涼香は天を仰いだ。
この選択が正しいのか、どうなのか。誰にもわからない。新しい選択に、ここはひとまず賭けてみるべきか。
迷っていると、唐突にふわふわの三つ編みを思い出した。
彼女のビンタは涙が出るほど痛い。あの喝は二度と食らいたくない。それに、彼女もきっとそう言うだろうと勝手に想定する。
「……うん、そうだね。そうしよう。大変そうだけど」
「だってよ、優也。おめでとう!」
明は力強く優也の肩を叩いた。涼香も二人に近づいた。
「優也」
差し出した手を、彼はしばらく見つめて悩んでいた。やがて頷いて、手を取る。珍しく冷たい彼の手をぎゅっと握り返すと、熱が蘇った。その上に明の手が重なる。
「まぁ、優也に飽きたら僕のとこに来てよ。いつでも待ってるから」
軽々しく誘う彼の口車には絶対に乗りたくないと思った。そんな明の鳩尾に優也が思い切り肘鉄を入れる。この不意打ちに驚いた明がその場に崩れたのは言うまでもない。
「調子にのるな」
優也が冷たく見下ろした。
涼香も一瞥した。そんな二人の視線を浴び、明は枯れた笑いを浮かべた。憎めない笑顔が力なく言う。
「救世主にその態度はひどい……」
正論が返ってきたので、涼香と優也は顔を見合わせて笑った。明もまんざらでもなさそうで、腹をおさえて涙目で笑った。
十月二十四日の空は消えそうな水色で、雲との境界線がはっきりしない。学校を囲む桜の木も葉を落として寒そうだ。むき出しの幹は湿り気を帯びている。いつだってそうだ。しかし、風はいくらか柔らかで心地いい。
ここまでたどり着くのに、随分と遠回りなことをしてきた気がする。大事なことがわからなければ終わっていた時間だった。こんな選択があるなんて思いもしなかった。
道はまだ見えないけれど、それでも一筋の光は感じられる。それはきっと、この漠然とした喪失感をも凌駕するだろう。
教室へ戻る途中、涼香は白い空をぼんやり眺めた。そのとき、タイミングよく教室の窓から羽村が顔をのぞかせた。
「あ、大楠ー! ヨリは戻したかー?」
気になっていたんだろう。しかし、公衆の面前で暴露する度胸はない。
涼香は手で追い払う仕草を見せた。それに羽村は首をかしげる。察しの悪さが腹立たしい。お節介な友人を持つと面倒だ。あとできちんと話そう。
昇降口に戻ると、優也と明は揃って部活に顔を出すと言うので、見送ることにした。
優也の背中が遠ざかる。軽やかな足取りだ。それを見ながら涼香は、逃げようとする明のカーディガンを引っ張った。
「わざわざ悪役になる必要なかったのに」
「なんのこと?」
「とぼけないで」
まったく、その笑顔が憎めない。
明はするりと涼香から離れた。
「一年の文化祭で、おまえらには助けられたからね。これで貸し借りなしだよ」
「はー、ちゃっかりしてるなー」
呆れるも、思わず笑った。すると、明はポケットに手を突っ込んで、のど飴を出した。くれるのかと思いきや、それは彼の口の中にコロンと転がる。
「僕の失恋を踏み越えて、おまえらにはなにがなんでも幸せになってもらわなきゃいけないんだよ。でないと、僕が報われないから」
明の言い方はいつか屋上で見たものと重なった。
それがただ申し訳なくなり、心がすくみそうになる。その気配を察したのか、明はふんわりと優しく笑った。
「これ、ずっと言いたかったんだよ」
その言葉と爽やかな薄荷を残し、明はもう振り返らずに体育館へ走っていった。
二人を見送った後、涼香は一人でのんびりと階段をのぼった。
放課後の準備時間は十八時までと決まっている。教室は忙しなく明日の準備に追われていた。
ドタバタと走り回る一年生。妙な被り物を作ってはしゃぐ二年生。三年生は受験勉強の息抜きがてら、作業に勤しむ。
科学室からは小麦粉と砂糖の甘い匂いが漂い、家庭科室からはポップコーンの香ばしい音がはじけ、美術室からはなぜかトンカチを叩く音がガンガン鳴り響き、放送室からは機材が運び出されていた。そうして階段を降りるたびに音が変わっていく。
やがて、ズゥゥゥンと低いベースギターの音が聞こえてきた。ガヤガヤした廊下の隙間を縫って耳に届いてくる。
まっすぐ教室に向かうつもりが、あのベース音を聞いたら導かれるかのように足は音楽準備室へ吸い込まれる。
扉には律儀に「軽音楽部」と書かれたボードが貼られており、窓から中をのぞくと、黒いショートヘアーの女子生徒が弦をつまみながら音を合わせていた。
「郁ちゃん」
無遠慮に扉を開けてみると、女子生徒のまぶたが驚いたように開いた。
「おやおや、珍しい客」
郁音は嬉しそうにはにかんだ。それと比例するようにベース音がさらに重くなる。まるで深海のような深い音で、心臓が震える。
「それ、なんの曲?」
「新曲だよ。文化祭でお披露目するの」
郁音は恥ずかしそうにも、満悦に口の端を持ち上げてにやけた。姿勢を正してベースのボディを太ももの上に置きなおす。
弦をはじく。ピックで震わす重低音。ズゥゥゥンと消えゆく。そしてまた水底から上がるように音が震える。波が渡り、後から後から追いかけてくる。寄せては返す波打ち際へと浮かび上がってくる。
郁音はちらりと目線を上げ、涼香の表情を見た。
「これね、『ミズイロ炭酸水』っていうの。なんと、初恋愛ソング」
郁音は嬉しさを隠せず、早々に種明かしをした。
「へぇ。初なんだ」
「うん。いままでは青春の応援歌って感じだったんだけど、麟が急に恋愛ソング作るっていうからさぁ。あいつ、ろくに恋愛したことないくせに」
ケタケタといたずらに笑う郁音の顔に憂さは一つもない。
「二年間こじらせた私の初恋をバカにしてるんだよ。ま、そのつもりはないんだろうけど」
郁音の恋はやはり実らなかった。そんな予感をしていたが、彼女がさっぱりとしているので涼香は怪訝に見つめた。
「失恋したのに元気だね」
「そりゃあもう、空元気だよ。あ、そうそう。これね、私が詞を書いたんだよ」
多分、これが言いたくてうずうずしていたんだろう。この高揚がすぐに伝染し、胸の内が躍動した。
「そうなの? すごいじゃん!」
前のめりになって言うと、やはり郁音はくすぐったそうに笑った。彼女はずっと浮かれている。失恋したとは思えない陽気な顔だ。
「ちょっと歌ってみてよ」
「しょうがないなぁ。ファン第一号のお願いなら断れなーい」
あっさり快諾され、これにも拍子抜けだったが、涼香もワクワクが止まらなかった。
すぅっと空気が震える。そして、郁音の口が柔らかに音を奏でた。
「『ぐっと飲み干してしまうのも もう何回目? 君が僕の前を走っていく それに追いつけなくて もどかしい』」
小さく囁くようなアカペラが部室の中で淡くはじけた。それを濁すように、郁音はベースを鳴らす。低い音の中で彼女の高く恥ずかしげな声が浮かんでは消える。
「『だからまた飲み込んでしまうんだ 淡く弾ける炭酸水 飲み干すと水色の味がした』……って感じ」
「おぉー! きれいな歌。しかもちょっと切ないやつだね」
「まぁね。私の初恋をぶつけてやったわ」
どうやら、彼女の憂さはとっくに晴れていたようだ。
***
紫と赤を組み合わせた市松模様の古風なタイルに、濃い青のリボンのような装飾。おしゃれなレタリングで「第四十五回 青浪高校文化祭」と描かれたアーチが建てられている。実行委員会と美術部の共同制作だ。
アーチをくぐり抜けると、そこは非日常の極彩色。枯れた桜の葉も色づいていて、まるで紅葉のよう。
どこかでトウモロコシを焼く香りがする。体育館では音合わせをするギターの派手なカッティング。グラウンドでは管楽器がはずむ。中庭からは合唱部のハミング。そして、高い笑い声。学校全体は高揚感に包まれていて、楽しくも寂しい空気を感じた。
こころがいないと、やっぱり味気ない。
彼女と同じ時間を過ごす世界にたどり着けなかったことは悔やまれるが、彼女がちゃんと無事に存在してくれるだけで十分だ。欲張ると、また失いそうで怖いから、これくらいがちょうどいい。出会いはどうあれ、世界はどうあれ、彼女との縁は切っても切れない。
まったく、人生というやつは手間がかかる。
それに、感傷に浸るのは「らしく」ない。いまは目の前に広がる世界に、ただただ無邪気に飛び込んでしまえばいい。
「すーずーかー!」
伸びやかに明るい声が聞こえる。振り返ると、ふわふわの三つ編みが満面の笑顔を振りまいていた。
レモンクリームのセーターに、空色のスカートを合わせたこころが手を振る。手には文化祭のパンフレットを握りしめて、好奇心旺盛なプードルよろしく駆け寄ってくる。
涼香も校門のアーチから引き返し、駆け込むこころの前に立ちふさがった。
「早いね。まだ一般解放じゃないよ。よくもまぁ一番乗りでやってくるね」
「うん。だって、楽しみにしてたんだよー! それに、今年は最後じゃん!」
なんだかこちらよりもテンションが高い。アーチを見上げて興奮気味にジャンプしている。落ち着きがない。
――まぁ、いっか。
大きく回り道をしてきたけれど、ようやく足並みがそろったのだから未来はいくらか明るい。いまはそんな世界を信じている。
「涼香」
不意に、こころが手のひらをくすぐった。
「ん?」
「ここまで連れてきてくれて、ありがとう」
横でささやく彼女の言葉にハッとする。だんだん気恥ずかしくなってしまい、照れ隠しに空を見上げた。
「なんのことー?」
「なんでもなーい」
こころは含むように笑った。そして、気が抜けた涼香の背中を思い切り叩く。
「さぁ、〝最後〟の文化祭だ!」
やけに張り切ったこころの声が、祭ばやしの中を駆け抜けた。
〈完〉