スマートフォンの中にあるはずの、こころの連絡先を調べた。しかし、どこにもなかった。そのあと、郁音と羽村にメッセージを入れた。翌日、教室で机を確認した。担任教師にも聞いた。
しかし、誰もが不思議そうに口を揃えて返してくる。
【だれの話?】
右輪こころという存在がどこにもなかった。彼女の面影が消えている。入学式の日、教室のベランダで話しかけたあの時間も、何度もやり直してきた文化祭もなかったことにされている。
文化祭――間もなく、高校生活最後の文化祭が迫っていた。時間はあざ笑うかのように止まってくれない。
涼香は、もの足りない教室でただ呆然としているだけしかできなかった。そして、文化祭前日というこの日もひっそりと教室から離れ、体育館裏でぼんやりとうずくまっていた。
グラウンドでは明日の祭りに備えようと制服姿の生徒と、部活動に励むユニフォームがせめぎ合う。すると、外を走る男子バスケ部の生徒たちの掛け声が聞こえてきた。屋内競技の部活は外で体力トレーニングをしているらしく、その中には引退したはずの優也の姿もある。その様子をフェンス越しにぼんやり眺めた。
時の流れが無情で、居場所がどこにもないように思えてくる。頭の中は喪失でいっぱいだ。
寂しい。寂しくてつらい。あの思い出全部が幻なのではないかと、虚無感にさいなまれる。
どうしてこんなことになったんだろう。また道を間違ってしまったんだろうか。こころが消えてしまう世界が正解だったとでもいうんだろうか。
「違う。そんなこと、絶対違う」
こんな結末は望んでいない。
じゃあ、なにが正しかった——?
「涼香?」
部活に顔を出していた優也がタオルを首にかけたままで現れた。どうやら気づいていたらしい。ランニングから抜けてきたようで、すずしい空の下でも汗だくだった。
「今日も早く帰れよ。俺、家まで送るし」
「ううん。勉強の息抜きの部活でしょ。邪魔したくない」
わざと突き放すように言うと、彼はバツが悪そうにタオルで汗を拭いた。
「なんだよ。この前から本当におかしいぞ」
「まぁね……そりゃ、おかしくもなるよ」
いままですべてが夢だったと思うと、今度はこころの姿も幻影となっていく。彼女の姿が記憶には残っているのに。焼きついて離れないのに、現実は非情だ。
こころが存在しないと知ったとき、涙が止まらなかった。優也のシャツにしがみついて泣いた。喉が壊れるんじゃないかと思うくらい、声を枯らして泣いた。それを思い出すと恥ずかしくなったが、気にしていられるほど心に余裕はない。
「誰って言ったっけ? お前の親友ってやつ」
優也は気づかうように言った。彼の優しさに、素直に甘える。
「右輪こころ」
「そうだ、ミギワさんだ。あれだろ、ミギワ堂古書店の右輪さんじゃねぇの? 店に行ってみようよ」
「優也……本当に私の話を信じてるの?」
バカバカしい話だ。世界から消えてしまった、存在しない女の子を探しているだなんて。
しかし、あの日の彼はいつになく優しくて、珍しく頼りになった。大号泣して、しきりに「こころがいない」と喚いたら、優也は言葉を失っていたが、それでも彼は何も言わずに受け止めてくれた。支離滅裂の説明ですべてを理解してくれたわけじゃないけれど、ただ黙って慰めてくれる。
彼はあれからずっと気にかけてくれる。
「お前が泣くほど探してるんなら、信じるしかねぇだろ。絶対に泣かない鉄の女を、あんなに泣かせたやつの顔は見てみたいし」
ぶっきらぼうな優也の言葉に、涼香の泣いて腫れ上がった目は、いくらか落ち着いたものの、笑うと目尻が痛んだ。
「鉄の女って、言い方ひどすぎ」
「だってそうじゃん。中学の予餞会も卒業式も、そのあとのクラス会だって泣かなかったし」
「それは、高校でもみんなに会うから。寂しさを感じなかったの」
「そうかもしれねぇけど……俺、お前が泣くとこを初めて見たんだ」
優也の顔は真剣だった。冷やかしなんてどこにもなく、まっすぐに涼香を見つめている。
「そうだっけ?」
「そうだよ。だから、びっくりした。どうしていいのかわからなくなった。お前は感情表現が豊かじゃないし、意地っ張りだし、他人に弱みは見せたくない性格だからな。それが一気に、壊れたみたいに泣くから……」
優也の声がしりすぼみになる。彼もまた不安を押しこめているかのようで、じっと見返せば目をそらされる。
「怖くなったよ。そんで、お前が泣いてても何もできない俺が情けなくて、ムカついた。こういうとき、明だったら優しく声をかけるんだろうなーって、そんなこと思った」
「自分の彼女がわんわん泣いてる時にそんなこと思ってたの?」
減らず口は相変わらずで、何度やり直そうとも強情のまま。でも、自分を曲げることは難しいから、甘んじてしまう。
しかし、そっけない言い方をすれば、優也はくつくつと笑った。
「それもこれもミギワさんのせいだけどなー」
そうして優也は悔しそうに言い、白い空に向かって敗北の笑いを投げた。
「しかも、タイムリープだとか、俺たちが別れただの明と喧嘩するだの、ありえねー話をするだろ。やっぱ悪い夢でも見たんじゃねーかって、いまでも正直そう思ってんだけど……でも、お前のことを否定したくはないから」
力強い言葉が、寂れた胸に届く。思いが伝わると、余計に喉が苦しくなった。
だめだ。また涙が出てきてしまう。空を見上げて目を乾かした。しかし、優也はその涙を見抜いたように、涼香の頭に手のひらを置いた。
「あんまり強がるなよ。俺じゃ頼りないかもしれないけど、素直にぶつけてくれ。受け止められるように努力するから」
「やめて。そんな風に優しくされたら、泣いちゃう」
言ってるうちに目頭が熱くなった。やわな涙腺に辟易しつつ、あふれる涙を堪えることができない。泣き顔を見せたくないから、顔をうつむけたら彼はそれを悟ったように黙って背中をさすった。
優しい彼を手放したくない。でも、この世界もきっと虚像なんだろう。
こころがいない世界は平和で、優しくて、あたたかくて、甘い。あんなに焦がれた世界なのに、涙が止まらない。水っぽい鼻をすするのもつらくなり、涼香は袖で顔を隠した。
「私、こころにひどいこと言ったの」
誰も知らない物語が口から飛び出す。
「うん……」
優也は小さく唸るように相づちを打った。あまりにも優しいから、口はいよいよ堰を切って話した。
「大事な友達なのに、傷つけるようなことを言った。多分、私の知らないところでこころはずっと苦しんでた。それなのに、私は能天気に笑って過ごしてたの。自分の甘さを見てみぬふりして、ひとのせいにして、ずるいことをいっぱいした。それなのに、謝らせてもくれない」
泣いて詫びても許されないだろう。それでも許してほしいと乞うだろう。痛いほど思い知ったのに、気づけばまた自分を甘やかしている。いつまで経っても消えない自己愛を心底軽蔑する。
そして、そんな自責めいた懺悔も鬱陶しいものだ。いくら悔やんだところで、こころは帰ってこない。たとえ、タイムリープを引き起こしたのが彼女だとしても、過去を書き換えた共犯なのだから、その代償を受けなくてはいけないんだろう。
悲壮が漂う。時間は少し、穏やかだった。
やがて、優也が言う。
「……タイムリープかぁ」
その声はどこか調子がずれていた。場を和やかにしようと、やけに明るげに言うものだから、涼香は涙のまま顔をあげた。
「タイムリープってさ、過去に戻るんだろ? SF映画とか、アニメでも見たことがあるけど、あれでいつも思うのは、その時点で〝時間を変える世界〟と〝変えない世界〟が生み出されるよなぁって。変えた世界もあれば、変えなかった世界も同時に存在する、みたいな」
「え? なに言ってるの?」
意味が全然わからない。優也も言いながらこんがらがったようで、首をかしげて「えーっと」と逡巡した。
「だから、過去に戻った時点で世界は枝分かれしてるんだよ。分岐っていうのか。そんな感じで、同じ世界が同時に存在する確率が上がる。この分岐点に戻れば、あとは元の道を辿ればいい。言ってることわかる?」
「じゃあ、過去を書き換えても、分岐点まで戻れば元に戻せる……?」
「そうそう。上書きする前まで戻ってしまえば、軌道修正も楽だろ。まぁ、どういう原理なのかは知らねーけど」
ようやくイメージが一致し、涼香はぽっかり口を開けた。優也の得意そうな顔が目の前で笑う。呆けた涼香の頰をムニっとつまみあげた。
「アホみてぇな顔しやがって」
「だって、そんな発想はなかったから……」
「まぁ、タイムリープ自体がありえねぇからな? あんなの、フィクションだから面白いんだし」
その口調から、涼香の話をすべて信じきっているわけではなさそうだ。でも、救われたことは明らかで、涼香は地面を踏み、きっぱりと涙を拭った。
そして、深く息を吸う。
「優也、ちょっと付き合ってほしいとこがあるんだけど」
***
夕暮れのミギワ堂古書店は、蛍光灯の光よりも西陽の主張が強かった。こころがいない世界でも、この場所は変わらず夕陽の中に存在している。
白猫を抱いた老店主は、店の奥のレジ台にちんまりと座っていた。
「こんにちは」
思い切って声をかけてみると、店主は猫を撫でながら顔を上げた。メガネ越しに涼香と優也を見る。しわでたるんだ目元が優しく笑った。
「こんにちは。なにかお探しですか」
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
颯爽とレジ台まで行くと、店主は猫を抱え、居間へ放り投げた。「ぶにゃっ」とかわいげのない鳴き声がする。ゆっくりとした動作で、老店主が戻ってきた。
「なんでしょうか」
「右輪こころっていう名前のお孫さんはいますか?」
率直に問うと、店主はピタリと動きを止めた。痩せた手でレジ台をつかむ。たるんだ目元が驚愕めいた。
「こころは、うちの孫です。どうして、こころを知ってるんですか」
その問いに、涼香は緊張を解いた。後ろでは優也は息を飲む音が聞こえる。
こころはこの世に存在していた。この世界では彼女と出会わないだけであり、彼女が存在しない世界ではないのだ。その事実だけで、体の底が歓喜に震えた。
「私、こころの友達なんです! じゃあ、こころはお家にいるんですね?」
期待をこめて店主に尋ねるも、彼はどうにも浮かなかった。哀を湛えた目を向けてくる。
「いいや。いないんだよ。ずっと」
「ずっと? どういうことですか?」
聞いたのは優也だった。涼香の横に立ち、怪訝に店主を見る。そんな優也にも変わらず憂いを見せる店主の態度に、涼香はあの胸騒ぎを思い出した。
「そう。ずっと。もう六年くらいになるか……こころは、行方不明なんだ。どこに行ったのか、わからないんだよ」
「行方不明……?」
言葉の意味はすぐに理解できない。混乱が脳内を占め、冷静な判断ができない。
——行方不明? 六年? その時からいなくなった? どうして?
目の前の景色が遠のくような感覚。すべての音が消え去り、絶望はじわじわと背後に忍び寄る。
「嘘だ……」
「本当なんだ。嘘だと思いたいけどね。こころは両親の離婚後、家出したんだ。それからずっと見つからない。本当なら、いまごろ君たちくらいの年齢になってるんだけど……」
にわかには信じられない。しかし、この老爺が嘘をついているようにも思えない。いまにでも泣いてしまいそうな、寂しくつらい表情でレジ台をつかんでいる。それに対し、かける言葉は見つからない。
「そんなことって」
現実に打ちのめされる涼香よりも、優也の声がショックを受けていた。呆然と立ち尽くす彼の脇をすり抜けるように、涼香はきびすを返す。
「おい、涼香!」
優也の声が追いかけてくる。それでも足は止まらない。
驚怖と混乱が再び襲いかかり、居ても立ってもいられなくなる。
「止まれ! 涼香、ちょっと、落ち着け!」
西陽に向かって走ると、わずかに遅れて優也が前に回り込んできた。急に行く手を阻まれ、涼香はそのまま彼の胸にぶつかった。それでも彼の足は強く、涼香の勢いすら吸収していく。
「落ち着けよ。急に走んな」
「だって……!」
「信じたくないのはわかるけど! って言うか、俺も信じられないし。いろいろぶっ飛んでて、意味がわかんねぇよ」
「当たり前よ! 信じられるわけないでしょ! こんなの……こんなこと、誰が想像できるっていうのよ!」
あの言い方だと、まるでこころがもう生きていないようだった。確かに存在しているはずなのに、彼女の所在も消息もわからないなんて。この世にいないなんて。そんなこと、認められるわけがない。
「こころは生きてるよ! 絶対に!」
現実の冷たさに心が折れそうだ。何度立ち上がっても世界があざ笑うから、逃げ場がどこにもない。いくら巡っても、考えても、不幸が追いかけてくる。振り切れない。どんどん悪化しているようだ。
空っ風に煽られると、大げさに背筋が震えた。
優也の両手が伸びて、涼香の震えを止めようと腕をつかんだ。そして彼は、根負けしたようにうなだれた。
「あーもう、わかったよ。右輪こころは生きてる。そういうことにしよう」
「はぁ? なにその言い方! そういうことにしようじゃなくて、」
「だから、俺はお前を信じるから、お前も信じろ。こころは生きてるし、存在する。信じろ。絶対に諦めるな!」
熱い言葉を受け、勢いよく顔を上げると、彼の顎に頭がぶつかった。激痛に呻く優也だが、その顔は笑っている。
「落ち着いた?」
「……ううん」
はっきり言えば、まだ揺らいでいる。こころの存在を認めたい。でも、雲をつかむような、なんの手触りも手応えもない。それでも、諦めたくはない。
優也の言葉に背中を押される日がくるなんて思わなかった。いや、彼には何度も助けられている。強い力で引っ張り上げてくれるから安心できる。寒さに震えた手は、彼の強い力でいくらか治ってきた。
そして、血迷った思考が落ち着きを取り戻した。相変わらず脈拍は速いものの、深呼吸をすればうまく空気と混ざり合い、正常に循環していく。
「優也、ありがとう」
「おう」
顎への一撃はしぶとく残っているようで、さすりながら苦笑した。それを見ると、こちらの表情もほつれていく。
「弱気になってちゃダメだよね」
「あぁ。お前は勝気で、暴言と暴力が武器で、鉄の女だからな。泣き顔は似合わねぇ」
およそ褒め言葉とは思えない発言に、涼香は優也の脇腹に水平チョップをお見舞いした。
そんな襲撃も、彼はくすぐったそうに笑って受け止める。そんな優也の明るい笑顔が、冷えた心を常温に戻してくれる。
こころを取り戻そう。頭でグズグズと迷っている暇はない。そのためには、この甘くて優しい自分好みの世界を捨てなくてはいけない。
眩しい笑顔を目に焼きつけながら、涼香は決意を固めた。