涼香は記憶の海に身を投げた。まばたきをすればするほど視界の色が()せ、解像度の落ちた世界に沈んでいく。
 こんなはずじゃなかったのに、現実はどんどん冷たく(にご)っていく。
 考えたくない。なにも考えたくない。なにも知らなかった時代へ帰りたい。
 うららかで、恥ずかしくて、優しかったあの日を思い出せ。

 ——四月十日。

 涼香はその日、高校一年生になった。晴れやかな気持ちでいたわけではなく、あくびが絶えない朝だった。
 校舎を囲む葉桜がまるでモザイクのように目障(めざわ)りで陽気な春。浮き足立つ両親のカメラを適当にあしらい、そそくさと新しい教室へ駆け込んだ。地元の学校なので、教室には同じ中学の顔見知りが何人かいる。

「あ、おはよー、涼香」

 声をかけてくるのは中学から仲が良かった美作郁音だった。すらっと長い片手を挙げて涼香を呼ぶ。
 黒板に貼られている席表では校庭側の最後列が自席だった。郁音の席は反対側の廊下側にある。涼香は口だけで「おはよ」と短く言い、自分の席に座ることを選んだ。
 郁音はどうやら、自分の周りの席にいる女子生徒と楽しげに話をしている。その間に入りこむほど爛漫(らんまん)な性格ではない。
 とは言え、一人でホームルームまで待つのは退屈(たいくつ)だ。ふと、ベランダを見やる。
 ふわふわの三つ編みの小柄な女子生徒が教室に背を向けて校庭を見つめているの姿が目に入った。そろそろと彼女の背後まで近づき、ポンと肩を押す。

「ねぇ」

 なんとなく声をかけてみると、彼女は怯えたように振り返った。

「わっ……わー?」

 目をしばたたかせ、驚きの声を上げるも続かない。そんな彼女の困惑を受け、涼香は愉快に笑った。

「はじめまして」

 かしこまった挨拶をしてみると、彼女も慌てて「はじめまして」と返してくれた。ぺこりと一礼する。

「あ、あの、あたし、右輪こころです」

 ふんわりとした明るさを持った彼女に、すぐに好印象を抱く。それまで気だるいと思っていた入学式や春の空気が、たちどころに淡いうららかな陽気を帯びるようで、急に心が軽くなった。

「私は大楠涼香。よろしく」
「んふふふ。こちらこそ、よろしくね」

 まだ緊張が残る笑いを交わす。
 教室の熱よりも、ベランダの爽やかな温度がちょうどいい。会話が走らずに済み、緩やかな間が空く。涼香は教室を見やりながら、こころに言った。

「このへん、(くぼ)中学校が近くてさ、ほとんど同中(おなちゅう)だった子ばかりなんだよね」
「あ、なるほど。どうりで、みんな仲良いなって思ってた」
「右輪さんは、どこ中だったの?」
紅林西(くればやしにし)中学校だよ」

 紅林西と言えば、この窪地域から電車で三駅離れた場所にある。中学生のとき、バスケの試合観戦のために一度だけ行ったことがある。

「へー。遠いとこから来てるんだね」
「ううん。地元はこっち。いろいろあって、転校しなかったんだけどね」
「ふうん?」
「あたしの家、くぼ商店街の中にあるミギワ堂古書店なんだけど、行ったことある?」
「あー、何回かあるかも。ってか、私の家から近いよ」
「そうなの!? わー、すっごい偶然!」

 しきりに嬉しそうな声をあげるので、こちらまで嬉しくなってくる。

「あたし、友達できるかすっごく悩んでたから、いますっごく安心してる。あー、良かった! 涼香ちゃん、声かけてくれてありがとう!」
「涼香でいいよ」

 なんだか久しぶりのむずがゆさがあり、涼香は口の端をプルプルと震わせた。気恥ずかしく、思うように破顔できない。

「じゃあ、あたしもこころって呼んで」

 ひと懐っこい彼女は笑ったプードルみたいだ。愛嬌たっぷりの彼女の笑顔につられてしまう。面倒だと思っていた新生活も、彼女がいれば楽しめそうだ。
 そう思っていると、教室に勢いよく走りこんでくる気忙しい音が鳴った。教室がわずかに時を止める。

「おはよー! おー、お前も同じクラスか! なんだよ。かわりばえしねぇな」

 教壇に上がって全員を見渡すのは、テンションの高い男子生徒。こちらもよく知っている顔だ。

「うるせーよ、寺坂」

 彼に肩をつかまれた男子生徒が文句を言えば、その場にいた全員からどっと笑いがあふれる。寺坂優也の堂々たる登場に、涼香は冷めた息を吐いた。

 ——あいつも同じクラスか。

 ただでさえ教室の温度が高いのに、優也のはしゃいだ声が混ざれば騒音となってしまう。

「あのひとも同中?」

 こころが聞いた。あっという間にクラスメイトに囲まれる彼の人気ぶりに驚いている。涼香は煩わしいとアピールするように顔をしかめた。

「寺坂っていうんだけどね。私、中三の時もあいつと同じクラスだったんだけど、うるさいのなんのって」
「ほほーう。なんか面白そうな人だねぇ」
「まぁ、ムードメーカーと言えばそうなんだけどさ」

 優也に対する涼香の評価はそれほど高くはない。呆れた様子で見ていると、優也が人懐っこい笑顔をこちらに向けた。

「あー! お前もいたかー、大楠!」

 ツノのような寝癖がたった髪型で、彼はバタバタと机の間を縫って涼香のもとにやってくる。

「やだ、こっちにこないで。鬱陶しい」
「いいじゃん、俺とお前の仲なんだしさ」
「誤解を招く発言はやめて」

 そういう調子のいい態度が嫌だった。彼の腕をバシッと思い切り叩くと、スナップの効いた力加減に優也は驚いて目を丸くした。

「暴力反対!」
「あーもう、うるさい! ほら、こころが困ってるじゃん。あっち行け」
「こころ?」

 優也の目がようやくこころをとらえた。同時に、こころが頬を緊張させて笑う。

「あ、あの! あたし、右輪こころっていいます」

 急なことに面食らったのか、彼女はぎこちなく言った。対し、優也は軽い。

「おー! 新顔発見! いやぁ、かわり映えのない連中ばっかで新鮮味(しんせんみ)っていうの? そういうのがないからさー。良かったぁ。あ、俺、寺坂優也です! よろしく!」

 畳み掛けるように失礼な発言をする優也に、涼香は彼の胸にパンチした。こころが吹き出す。パンチを食らった優也は涼香のひたいをはじこうと構えていたが、それを素早くかわす。
 この一部始終を、こころは感心げに見ていた。ぷくっと頬をふくらませ、笑いをこらえている。

「仲いいんだねー」
「よくない!」

 言ったのは涼香だった。それに(ともな)い、こころは大仰に笑った。すると、優也が調子に乗る。

「こいつ、すぐ暴力振るってくるからなぁ。右輪さんも気をつけろよ。大楠もむやみに俺を罵倒するな! でないとお前の本性を知って右輪さんが逃げるかもしれねーからな。友達なくすぞー」
「はぁ? なにそれ。意味わかんないんですけど」

 本性もなにも、いまだって素のままの自分だ。優也の言い方に呆れるも、いっぽうでこころは絶えずに笑いころげている。それをたしなめるように涼香は言った。

「そんなに笑うと寺坂が調子に乗るから」
「あははっ。だって、面白いんだもん……ふふっ。みんな仲良くていいね」

 涼香も優也も顔を見合わせた。その不思議そうな顔が愉快だったのか、こころは体をくの字に曲げて笑った。

 はじまりの日は陽気な色についていけず、気後(きおく)れしていた。でも、なじませていけば色が混ざるのと同じように、こころはあっという間にクラスに溶け込んでいき、それに合わせて涼香も正体不明な煩わしさから少しは解放された。
 みんな仲が良くて楽しかったあの日々。懐かしくて胸が爪弾(つまび)かれそうで、地味にじくじく痛みだす。
 いままで、不干渉(ふかんしょう)で鈍感だった。だれかの心を救っているなんて、思いもしなかった。また、だれかを傷つけているなんて思いもしなかった。どうせなら痛みにも鈍感でいられたら良かったのに——。

 耳元でギュルギュルとフィルムを巻く音がする。
 目を開けると、空が(まわ)っていた。
 濃紺とオレンジと、水色と白。黄色の光源が点滅し、一定の間隔で横切る。色が反発し合う。ぐるぐるとかき混ぜられ、次第に渦を巻いて溶ける。やがて色がもつれ、淡い色は濃い色に吸収された。
 その極彩色の天井へ思わず手をのばすと、涼香の腕までもが一気に飲み込まれた。

 ***


「——涼香」

 耳に届くのは柔らかな優也の声。

「大楠、聞こえる?」

 不安を押し殺したような明の声も聞こえる。
 目を覚ますと、二人の顔があった。視界が明るくなれば、その光に頭蓋骨(ずがいごつ)が悲鳴を上げた。
 顔をしかめると、二人が息を飲んで顔をのぞきこんできた。ぼやけた視界がクリアになる。

「大丈夫? 体育館裏で倒れてたんだよ」

 すぐに言ったのは明だった。優也は安堵の息を吐いて、天井を見上げた。

「ここは?」
「保健室だよ。病院に連れて行こうかって、先生たちが慌ててたけど、貧血みたいだったからひとまず様子を見てて」
「そう、なんだ……」

 白いカーテンの中でベッドを囲む二人を見やり、深く枕に頭を埋めた。大騒ぎになったであろう状況を想像すると恥ずかしくなる。
 どのくらい眠っていたんだろう。外を見ると、赤い夕焼けが眩しかった。

「まったくもう……受験勉強のしすぎじゃない? がんばりすぎるのもほどほどにしなよ」

 明が体をのけぞらせて笑った。いっぽう、優也も頰を引きつらせたまま苦笑する。

「ほんとそれ。あんまり心配させるなよ」

 どうしよう。頭が働かない。寝ぼけたように見れば、彼らはそれぞれ不思議そうに首をかしげた。

「涼香、本当に大丈夫か? 頭打ったんじゃないか?」

 言い方はぶっきらぼうだが、優也の声は深刻そうだった。その扱いに、涼香は反射的に体を起こした。

「大丈夫だよ! ちょっと色々あっただけだから……っ!」

 少し声をあげただけで、頭の奥がキーンと痛んだ。思わず項垂れてしまうと、明がたしなめるように優也の太ももを殴る。

「おい、優也」
「ごめん」

 優也は素直に謝った。そして、大事そうに涼香の手を握る。

「無理すんな。今日はもう帰ったほうがいい。早く寝て、早く元気になって」
「うーん……そうする……」

 ひたいを揉んで痛みを緩和すると、少しはマシになった。まぶたを抑えて、頰をつまんで顔を上げる。
 優也と明が並んで座っていると、胸がほっこりとあたたかくなるようだ。安堵のおかげか、顔が自然と笑う。すると、明が人懐っこく言った。

「もうすぐ文化祭なんだからさ、ゆっくり寝て、体を休めてね」
「うん。ありがと……」
「疲れたときは塩だからな。塩なめとけ」
「優也、それ、彼女に言うセリフ? ほかにもっと言うことあるだろ」

 こういう場面は久しぶりに見るような気がする。優也と付き合うようになって、それでも気の利いた言葉を言ってくれないから、明がフォローする。のんびりと穏やかな空間だ。
 あの亀裂が嘘みたいに――

「ちょっと待って」

 たまらず二人の間に割って入った。明がキョトンと目を丸くし、優也は眉をひそめてこちらを見る。
 涼香は優也の手を握り返し、おそるおそる聞いた。

「あの、いま、私たちって何年生?」
「は?」
「いいから答えて」

 変な質問だというのはわかっている。すがるように言えば、彼らは顔を見合わせた。

「……三年だけど」

 明が言う。涼香は食い気味に次の質問をした。

「じゃあ、今日は何月何日?」
「おい、涼香」
「いいから! お願いだから答えて!」

 その剣幕に、優也はごくりと喉を鳴らして驚く。そして、ぎこちなく答えた。

「十月二十日」

 何度も繰り返した、繰り返させられた日だった。
 いつの間にか時間が飛んでいる。一年の文化祭だったはずなのに、でも、眠っていた時間は二年というわけではないようだ。どうにもこの矛盾が解消できない。

「涼香、もういいから寝ろ。疲れてんだよ。親には連絡入れとくから、スマホ()せ」

 心配からのいらだちが彼の手から伝わってくる。
 涼香はカーディガンのポケットから素直にスマートフォンを出した。優也に渡すと、彼は顔をしかめたまま「ん」と唸った。いっぽう、明は涼香と優也を交互に見ており、その場から動こうとはしなかった。
 優也が涼香のスマートフォンを操作し、保健室を出て行こうとする。

「明、涼香のこと見といて。こいつ、大丈夫じゃないのに大丈夫って嘘つくから」
「わかった」

 あしらわれてしまうことにモヤモヤするが、それよりもこのタイムパラドックスを処理するのに忙しい。いや、矛盾はないのかもしれない。確実に過去は上書きされている。ということは、過去改変が完了したことを意味するのだろう。
 これが、こころが望んだ世界か。
 涼香はあたりを見回した。すると、はだけたシーツを明が掛け直そうとした。優也の言うとおり、涼香を寝かしつけてくる。

「そんなわけだから、親が迎えにくるまで寝よう」
「待って待って。その前にもうひとつだけ聞いていい?」
「えぇ?」

 ためらう明だが、構っていられない。涼香は間髪をいれずに聞いた。

「こころはどこ?」
「え?」
「こころだよ! 右輪こころ! あの子はどこにいるの?」

 彼女の姿が見えないから、余計に不安になる。こういうとき、絶対に横にいてくれるはずなのに。
 最後に彼女を見たときは、随分とひどいことを言った。自分の弱さを押し付けた。
 謝らないと。
 でも、その前に彼女の安否が気になる。妙な胸騒(むなさわ)ぎが止まらない。
 明は困ったように眉をひそめた。天井を見上げ、枯れた笑いをこぼす。やんわりと、こちらの事情を汲もうとするも、彼の問いはストレートなものだった。

「えーっと……だれ、かな?」

 そんな言葉は聞きたくなかった。