涼香は記憶の海に身を投げた。まばたきをすればするほど視界の色が褪せ、解像度の落ちた世界に沈んでいく。
こんなはずじゃなかったのに、目の前の現実は冷たい。この前まではうまくいってたはずなのに。
うららかで、恥ずかしくて、優しかったあの日を思い出せ。
「——大楠。俺と付き合って」
一年生の秋、高校最初の文化祭。中学からなにかとクラスが同じで話すことが多かった優也から突然に切り出された。
夜。誰もいない図書室の奥で、天井まで続く本棚に隠れて。後夜祭のかがり火と、にぎやかな声と群青、そして超高速のギターサウンドを背にして。ギュルギュルとフィルムを巻くような音を聞いた。外の熱とは対称に、図書室はひと気のなさを引きずっており、少し冷える。
「やめてよ。私、そういうの苦手……冗談でしょ?」
「いや、本気。いいかげん察しろよ。鈍感すぎ。俺がなんの下心もなしに話しかけるわけないだろ」
随分と横暴な言い方だ。すぐさま口の端を曲げて抗議した。
「なにそれ。そういう目的ならお断りなんだけど。へんたーい」
「はぁ?」
みるみる真っ赤になった優也の顔を、ここぞとばかりに笑って冷やかしてやる。
てっきり冗談だと思っていたから油断していた。手首をつかまれて、真剣な目を向ける彼に射抜かれた。振りほどけなかった。動けなくなった。
だから、口を動かすことに徹した。得意の毒舌で怯ませれば、この状況から逃げられる。
「俺、本気だから。お前のこと、好きだから」
強い語気に感情が大きく揺れる。胸が熱くなって、かじかんだ指も一気に熱がまわっていく。
一度に想起したのはよくある青春漫画の一ページで、男の子と女の子が苦難を乗り越える物語。自分とは無縁な世界だと割り切っていた世界。それでも、劇的なドラマは熱望していないから、恥ずかしくなってしまう。
これから先、彼氏がいる世界を想像したら——その幸福感にときめいた。
優也と付き合う。それはきっと、明るい世界だ。
まさか、こんな場面に直面するなんて思いもしなかった。身構えているはずがなかった。
涼香は本棚にもたれた。顔が下を向いた。こういうとき前髪があると目元を隠せるのに、あいにく前髪はつくっていない。
「……好きって、どこを?」
好かれる理由がわからないから、つい試すように聞いてしまう。
「どこって、そんなの……」
優也は口ごもった。目をつむって息を吐いて、彼も顔をうつむける。
「いや、その、好きなとこがないってわけじゃなくって。うまく言えねぇけど……あぁ、もう」
しゃべると墓穴を掘ると思ったのだろう。優也は黙り込んだが、つかんだ腕は離さない。指の皮が厚くてしっかりした強さが、彼の思いを語っていた。
「……こんな私でいいの?」
「うん」
「私、口悪いじゃん。すぐ叩くし、怒るし、冷たいし、優しくないよ」
「いい。それでもいい」
「寺坂ってドM?」
「違う」
「違うんだ……」
「おい、大楠。話をそらすな」
さすがに怒らせただろうか。でも、ふざけていないと緊張で顔が上げられない。
「だって。私、告白されたの、初めてで……」
決断なんかすぐにできるわけがない。恋愛感情なんて、まだまだ育ってない。実感がない。浮かれるようでも、気が滅入るようでもある。不思議な気持ちになってしまう。そうして感情を大きく揺り動かすと、自分の姿が滑稽に思えた。甘い空気がむずがゆい。
彼とは友達のままだと思っていたから。
次第に緊張していき、言葉もうまく出てこない。様子をうかがう優也の顔が近くなる。
正直、彼はイケメンかと聞かれたらそうじゃないと思う。鼻も低いし、全体的に薄い。笑えばえくぼが目立つ口を、いまは真剣に引き結んでいる。
それを見ていると、考えるのが億劫になった。
たぶん、理屈はいらない。言葉なんていらない。好きだと言ってもらえるだけで嬉しくて、舞い上がっていく。気持ちが爆発してしまえば、あとはもう、どうとでもなれ。
「——わかった」
声は小さく、うまく伝わっているか不安になる。
そっと彼の手を握ってみた。冷たくひんやりとした指先が触れると、優也はわずかに後ずさった。自分から言っておきながら、涼香の回答に驚いている。彼は震える声で聞いた。
「いいの?」
「いいよ」
涼香もぎこちなく言った。
喉が干上がって、思うように声が出ない。心音がうるさくて、それは一体どちらのものかわからなかった。
「涼香」
初めて彼から名前で呼ばれた。その瞬間、緊張はさらに高まっていき、必死に顔を隠すことでいっぱいいっぱいだった。
「……なに?」
「ギュって、していい?」
そのお願いは、そう簡単に受け入れられるものじゃない。でも、彼のことを思うと感情が先走っていき、彼のためにもその願いは叶えたい。
こくんと小さく頷くと、強い力で引っ張られた。身構えてなかった体がふわっと倒れこみ、それを優也が抱きとめる。中学生のころは同じ身長だったのに、とっくに差がつけられていて、涼香の体なんてすっぽり埋まってしまう。
「ありがとう、涼香」
視界は白。少し陰る。汗くさい。でも、嫌なにおいじゃない。
優也は広い手のひらで涼香の頭をなでた。その動きがぎこちなく、指先は震えていた。それを感じり、涼香はただただ優也のシャツに顔をうずめたままでいる。
初めての感触に涼香自身も戸惑っていた。心臓の鼓動が速い。緊張している。多分、お互いに。
こうして、寺坂優也の告白は成功した。
まさかこれが、こころの作戦だったとは、このときの涼香は知るよしもない。
***
ダイジェストで振り返ったはじまりの淡く甘い日。今はもう過ぎ去ったあの日に逃避していると、陰気な声でこころが切り出した。
「……こんなことになるなんて、思わなかったよ」
夕暮れのミギワ堂古書店は、蛍光灯の光よりも西陽の主張が強い。
こころはレジ台に座っており、読んでいた古本をパタンと閉じた。「逆巻きの時空間」という小難しいタイトルの新書。小説なのか啓発本なのかはたまた参考書の類か、一瞬では判断つかない。
「あーあ。なんでこんなことになるかなぁー」
長いため息をつく。その真ん前の本棚で、涼香は古い少女漫画を開いていた。十年前に流行ったアニメの原作。内容は頭に入ってない。
「なんでこころがショック受けてるの? 意味わかんないんだけど」
漫画を棚に戻して聞く。すると、こころは不満そうに頬杖をついた。
「だって、あたし、あのときすっごくがんばったんだよ? 寺坂くんと涼香がうまくいきますように! って、お百度参りまでしたのに」
「そこまでしたの? て言うか、がんばるところ違くない?」
「まぁ、それは冗談なんだけどさ」
冗談にしては面白くない。涼香はジャージのポケットに手をつっこみ、本棚にもたれた。
「でもでも、寺坂くんから相談を受けてから、二人をどうにかくっつけたいと思ったのよ。寺坂くんって、バスケ部のくせにプレッシャーに弱いよねぇ」
「そう。メンタルが弱いんだよ、あいつ。まぁ、別れの理由もそんな感じだったわけで。要は、あいつの夢と私が天秤にかけられてたわけ。私は夢に負けたんだ。切り捨てられたの」
自虐的な口はいたって軽々しく、無感情なセリフを紡いだ。
「ま、私もかわいげがなかったし。とにかく、私には恋愛なんて最初から無理だったんだよねぇ」
言ってすぐに顔をしかめた。眉間が痛くなり、すぐに開放させた。ゆるんと肩を落とす。その無気力な仕草を見たこころは盛大に嘆いた。
「二年も付き合っといて、なに言ってんだか」
「それこそ奇跡だよ、キセキ。かわいいものが似合わない私に彼氏とか、ありえないから」
「ありえないとか言わないの。涼香だってかわいいんだから、自信持ちなよ」
「女子が言う『かわいい』って言葉ほど信用できないものはない」
褒められても嬉しくない。それに「かわいい」という言葉に嫌悪が走る。この複雑な気持ちをこころはわかってくれず、面白がって「かわいい」を連呼してきた。無視しよう。
気をまぎらわそうと、本棚を物色したがどれもこれも古臭くて汚い本ばかりだ。おまけに分厚く、色褪せた背表紙はなんと書かれているのか読み取れない。
ミギワ堂古書店はこころの祖父が営む店だ。窪地区の都心部に軒を並べる「くぼ商店街」の中腹に位置する。
まっすぐに差し込む夕陽の筋に当たり、涼香の影が伸び上がって移動した。ゆるやかな時間が流れていく様を、ただただぼうっと眺める。時間を限りなく無駄遣いできる場所なので、放課後から夕飯までの暇つぶしにはちょうどいい。こころの話を聞かなければいけないけれど。
彼女は文化祭前日だろうが、文化祭当日だろうが、学校から帰ったらすすんで店番をする。そんな彼女に付き合うのももう三年目だ。
「……涼香ー、あんまり思いつめないでね?」
こちらの不機嫌を読み取り、こころが遠慮がちに言ってきた。気を使わせるのも癪なので、涼香はふわりと微笑を返す。
「うーん……私、そこまで深刻に考えてないよ?」
「嘘だー! 彼氏と別れたばっかりで、そんな冷めきってしまうわけない! て言うか、涼香はもっとちゃんと泣いて!」
「はぁ? なんで私が泣かなきゃいけないの? 失恋ごときで」
実際、こんなことで感情を乱されるわけにはいかない。たかが失恋で、ショックを受けていたら受験まで身が持たない。
「そもそも受験前なのに、あいつと付き合うの大変だったんだから。めんどくさい連絡とかさ、デートとか話とか部活見に行くのとか。もうこれからは、そういうことしなくていいんだし。楽でいいじゃん。せいせいする」
一息に言い、最後には「あっははー」と高笑いしてやる。しかし、こころは笑ってくれなかった。
「本当にそう思ってる? 自暴自棄になってない?」
「しつこいなぁ。なんでそう思うの?」
「だって……最近の涼香、ちょっと変だよ」
その言葉に、涼香は口角を上げたまま固まった。
「え……?」
胸の奥深くで、風船がパンと割れたような気がする。それも大きな衝撃じゃなく、小さなもの。水風船がはじけたみたいな。とたんに脳内がざわついた。動揺が血管を走りぬける。
「どこが変だっていうの?」
「無自覚なの? それこそまずいよ。羽村さんと仲悪くなったり、文化祭の準備をサボったり、この間なんて勉強会もすっぽかしたし。いろいろ、余裕がないんじゃない?」
こころはぽつりと怯えたように言った。涼香の視線に耐えられないようで、顔を下に向けてしまう。そんな親友の姿を見て、涼香は口を開いた。でも、何を言えばいいかわからず、すぐに閉じた。
「……気のせいだよ」
心にふたをしてしまえば、あっさりとざわめきが止んだ。すぅっと息を吸い込んで、笑ってみせる。
「だから、こころは心配しなくていいよ。ただでさえ、明日の文化祭で忙しいんだし。がんばってね、実行委員」
「待って!」
手を振って店を出ていこうとすると、こころが追いかけてきた。本棚をひっくり返す勢いで走ってくる。
「涼香、ダメだよ! いまごまかしても無駄なの! あとあと後悔するんだから!」
「大丈夫だって言ってんでしょ。明日は明と遊ぶし、別にそこまで優也に入れこんでたわけじゃない……」
——本当にそう思ってる?
否定的な言葉を繰り出すと、暗い本音が顔をのぞかせた。じっと胸の奥底でこちらの様子をうかがっている。それはなんだか、こころの顔にも似ていた。
頑なに気を張っていたせいか、急に力が抜けていく。
「……私も、ちょっとよくわかんないんだ」
答えを必死に探しても、どこにも見あたらない。悲しいとか、泣きたいとか、悔しいとか。そういう極端な感情がどこにもなくて、ただただ虚しく、頭はずっと空っぽだ。
「だから、泣けって言われても泣けないし。優也との思い出がきれいだったかと言われればそうじゃないし、むしろ喧嘩ばっかりで、未来が見えなかったし……軽い気持ちで付き合ってたんだよ、私は。ほら、冷たい女だからさ。かわいくないから」
——お前、ほんとに冷たいよな。かわいくない。
悪気なく冷やかす優也の言葉をいま、突然に思い出した。何度かからかわれたものなのに、地味に負担となっていたらしい。これに気がつけば、余計に惨めな気持ちになった。
こころはもう言葉を失っており、顔をしかめてこちらを見ている。いま、自分はどんな表情をしているんだろう。笑っていないことだけは確かだ。
でも、落ち込んでメソメソしているのも、キャラじゃない。かっこ悪い様をさらすのが、はるかに恐ろしい。
涼香はこころの手を振り払った。彼女もなすがままに弱々しく項垂れる。気まずい空気が境界線を引いた。
「……そっか」
こころが言う。そこには諦めが含んである。
「涼香がそう言うんなら、あたしはもうなにも言わないよ」
「うん。そのほうが助かる」
涼香は逃げるように足を踏み出した。
こんなはずじゃなかったのに、目の前の現実は冷たい。この前まではうまくいってたはずなのに。
うららかで、恥ずかしくて、優しかったあの日を思い出せ。
「——大楠。俺と付き合って」
一年生の秋、高校最初の文化祭。中学からなにかとクラスが同じで話すことが多かった優也から突然に切り出された。
夜。誰もいない図書室の奥で、天井まで続く本棚に隠れて。後夜祭のかがり火と、にぎやかな声と群青、そして超高速のギターサウンドを背にして。ギュルギュルとフィルムを巻くような音を聞いた。外の熱とは対称に、図書室はひと気のなさを引きずっており、少し冷える。
「やめてよ。私、そういうの苦手……冗談でしょ?」
「いや、本気。いいかげん察しろよ。鈍感すぎ。俺がなんの下心もなしに話しかけるわけないだろ」
随分と横暴な言い方だ。すぐさま口の端を曲げて抗議した。
「なにそれ。そういう目的ならお断りなんだけど。へんたーい」
「はぁ?」
みるみる真っ赤になった優也の顔を、ここぞとばかりに笑って冷やかしてやる。
てっきり冗談だと思っていたから油断していた。手首をつかまれて、真剣な目を向ける彼に射抜かれた。振りほどけなかった。動けなくなった。
だから、口を動かすことに徹した。得意の毒舌で怯ませれば、この状況から逃げられる。
「俺、本気だから。お前のこと、好きだから」
強い語気に感情が大きく揺れる。胸が熱くなって、かじかんだ指も一気に熱がまわっていく。
一度に想起したのはよくある青春漫画の一ページで、男の子と女の子が苦難を乗り越える物語。自分とは無縁な世界だと割り切っていた世界。それでも、劇的なドラマは熱望していないから、恥ずかしくなってしまう。
これから先、彼氏がいる世界を想像したら——その幸福感にときめいた。
優也と付き合う。それはきっと、明るい世界だ。
まさか、こんな場面に直面するなんて思いもしなかった。身構えているはずがなかった。
涼香は本棚にもたれた。顔が下を向いた。こういうとき前髪があると目元を隠せるのに、あいにく前髪はつくっていない。
「……好きって、どこを?」
好かれる理由がわからないから、つい試すように聞いてしまう。
「どこって、そんなの……」
優也は口ごもった。目をつむって息を吐いて、彼も顔をうつむける。
「いや、その、好きなとこがないってわけじゃなくって。うまく言えねぇけど……あぁ、もう」
しゃべると墓穴を掘ると思ったのだろう。優也は黙り込んだが、つかんだ腕は離さない。指の皮が厚くてしっかりした強さが、彼の思いを語っていた。
「……こんな私でいいの?」
「うん」
「私、口悪いじゃん。すぐ叩くし、怒るし、冷たいし、優しくないよ」
「いい。それでもいい」
「寺坂ってドM?」
「違う」
「違うんだ……」
「おい、大楠。話をそらすな」
さすがに怒らせただろうか。でも、ふざけていないと緊張で顔が上げられない。
「だって。私、告白されたの、初めてで……」
決断なんかすぐにできるわけがない。恋愛感情なんて、まだまだ育ってない。実感がない。浮かれるようでも、気が滅入るようでもある。不思議な気持ちになってしまう。そうして感情を大きく揺り動かすと、自分の姿が滑稽に思えた。甘い空気がむずがゆい。
彼とは友達のままだと思っていたから。
次第に緊張していき、言葉もうまく出てこない。様子をうかがう優也の顔が近くなる。
正直、彼はイケメンかと聞かれたらそうじゃないと思う。鼻も低いし、全体的に薄い。笑えばえくぼが目立つ口を、いまは真剣に引き結んでいる。
それを見ていると、考えるのが億劫になった。
たぶん、理屈はいらない。言葉なんていらない。好きだと言ってもらえるだけで嬉しくて、舞い上がっていく。気持ちが爆発してしまえば、あとはもう、どうとでもなれ。
「——わかった」
声は小さく、うまく伝わっているか不安になる。
そっと彼の手を握ってみた。冷たくひんやりとした指先が触れると、優也はわずかに後ずさった。自分から言っておきながら、涼香の回答に驚いている。彼は震える声で聞いた。
「いいの?」
「いいよ」
涼香もぎこちなく言った。
喉が干上がって、思うように声が出ない。心音がうるさくて、それは一体どちらのものかわからなかった。
「涼香」
初めて彼から名前で呼ばれた。その瞬間、緊張はさらに高まっていき、必死に顔を隠すことでいっぱいいっぱいだった。
「……なに?」
「ギュって、していい?」
そのお願いは、そう簡単に受け入れられるものじゃない。でも、彼のことを思うと感情が先走っていき、彼のためにもその願いは叶えたい。
こくんと小さく頷くと、強い力で引っ張られた。身構えてなかった体がふわっと倒れこみ、それを優也が抱きとめる。中学生のころは同じ身長だったのに、とっくに差がつけられていて、涼香の体なんてすっぽり埋まってしまう。
「ありがとう、涼香」
視界は白。少し陰る。汗くさい。でも、嫌なにおいじゃない。
優也は広い手のひらで涼香の頭をなでた。その動きがぎこちなく、指先は震えていた。それを感じり、涼香はただただ優也のシャツに顔をうずめたままでいる。
初めての感触に涼香自身も戸惑っていた。心臓の鼓動が速い。緊張している。多分、お互いに。
こうして、寺坂優也の告白は成功した。
まさかこれが、こころの作戦だったとは、このときの涼香は知るよしもない。
***
ダイジェストで振り返ったはじまりの淡く甘い日。今はもう過ぎ去ったあの日に逃避していると、陰気な声でこころが切り出した。
「……こんなことになるなんて、思わなかったよ」
夕暮れのミギワ堂古書店は、蛍光灯の光よりも西陽の主張が強い。
こころはレジ台に座っており、読んでいた古本をパタンと閉じた。「逆巻きの時空間」という小難しいタイトルの新書。小説なのか啓発本なのかはたまた参考書の類か、一瞬では判断つかない。
「あーあ。なんでこんなことになるかなぁー」
長いため息をつく。その真ん前の本棚で、涼香は古い少女漫画を開いていた。十年前に流行ったアニメの原作。内容は頭に入ってない。
「なんでこころがショック受けてるの? 意味わかんないんだけど」
漫画を棚に戻して聞く。すると、こころは不満そうに頬杖をついた。
「だって、あたし、あのときすっごくがんばったんだよ? 寺坂くんと涼香がうまくいきますように! って、お百度参りまでしたのに」
「そこまでしたの? て言うか、がんばるところ違くない?」
「まぁ、それは冗談なんだけどさ」
冗談にしては面白くない。涼香はジャージのポケットに手をつっこみ、本棚にもたれた。
「でもでも、寺坂くんから相談を受けてから、二人をどうにかくっつけたいと思ったのよ。寺坂くんって、バスケ部のくせにプレッシャーに弱いよねぇ」
「そう。メンタルが弱いんだよ、あいつ。まぁ、別れの理由もそんな感じだったわけで。要は、あいつの夢と私が天秤にかけられてたわけ。私は夢に負けたんだ。切り捨てられたの」
自虐的な口はいたって軽々しく、無感情なセリフを紡いだ。
「ま、私もかわいげがなかったし。とにかく、私には恋愛なんて最初から無理だったんだよねぇ」
言ってすぐに顔をしかめた。眉間が痛くなり、すぐに開放させた。ゆるんと肩を落とす。その無気力な仕草を見たこころは盛大に嘆いた。
「二年も付き合っといて、なに言ってんだか」
「それこそ奇跡だよ、キセキ。かわいいものが似合わない私に彼氏とか、ありえないから」
「ありえないとか言わないの。涼香だってかわいいんだから、自信持ちなよ」
「女子が言う『かわいい』って言葉ほど信用できないものはない」
褒められても嬉しくない。それに「かわいい」という言葉に嫌悪が走る。この複雑な気持ちをこころはわかってくれず、面白がって「かわいい」を連呼してきた。無視しよう。
気をまぎらわそうと、本棚を物色したがどれもこれも古臭くて汚い本ばかりだ。おまけに分厚く、色褪せた背表紙はなんと書かれているのか読み取れない。
ミギワ堂古書店はこころの祖父が営む店だ。窪地区の都心部に軒を並べる「くぼ商店街」の中腹に位置する。
まっすぐに差し込む夕陽の筋に当たり、涼香の影が伸び上がって移動した。ゆるやかな時間が流れていく様を、ただただぼうっと眺める。時間を限りなく無駄遣いできる場所なので、放課後から夕飯までの暇つぶしにはちょうどいい。こころの話を聞かなければいけないけれど。
彼女は文化祭前日だろうが、文化祭当日だろうが、学校から帰ったらすすんで店番をする。そんな彼女に付き合うのももう三年目だ。
「……涼香ー、あんまり思いつめないでね?」
こちらの不機嫌を読み取り、こころが遠慮がちに言ってきた。気を使わせるのも癪なので、涼香はふわりと微笑を返す。
「うーん……私、そこまで深刻に考えてないよ?」
「嘘だー! 彼氏と別れたばっかりで、そんな冷めきってしまうわけない! て言うか、涼香はもっとちゃんと泣いて!」
「はぁ? なんで私が泣かなきゃいけないの? 失恋ごときで」
実際、こんなことで感情を乱されるわけにはいかない。たかが失恋で、ショックを受けていたら受験まで身が持たない。
「そもそも受験前なのに、あいつと付き合うの大変だったんだから。めんどくさい連絡とかさ、デートとか話とか部活見に行くのとか。もうこれからは、そういうことしなくていいんだし。楽でいいじゃん。せいせいする」
一息に言い、最後には「あっははー」と高笑いしてやる。しかし、こころは笑ってくれなかった。
「本当にそう思ってる? 自暴自棄になってない?」
「しつこいなぁ。なんでそう思うの?」
「だって……最近の涼香、ちょっと変だよ」
その言葉に、涼香は口角を上げたまま固まった。
「え……?」
胸の奥深くで、風船がパンと割れたような気がする。それも大きな衝撃じゃなく、小さなもの。水風船がはじけたみたいな。とたんに脳内がざわついた。動揺が血管を走りぬける。
「どこが変だっていうの?」
「無自覚なの? それこそまずいよ。羽村さんと仲悪くなったり、文化祭の準備をサボったり、この間なんて勉強会もすっぽかしたし。いろいろ、余裕がないんじゃない?」
こころはぽつりと怯えたように言った。涼香の視線に耐えられないようで、顔を下に向けてしまう。そんな親友の姿を見て、涼香は口を開いた。でも、何を言えばいいかわからず、すぐに閉じた。
「……気のせいだよ」
心にふたをしてしまえば、あっさりとざわめきが止んだ。すぅっと息を吸い込んで、笑ってみせる。
「だから、こころは心配しなくていいよ。ただでさえ、明日の文化祭で忙しいんだし。がんばってね、実行委員」
「待って!」
手を振って店を出ていこうとすると、こころが追いかけてきた。本棚をひっくり返す勢いで走ってくる。
「涼香、ダメだよ! いまごまかしても無駄なの! あとあと後悔するんだから!」
「大丈夫だって言ってんでしょ。明日は明と遊ぶし、別にそこまで優也に入れこんでたわけじゃない……」
——本当にそう思ってる?
否定的な言葉を繰り出すと、暗い本音が顔をのぞかせた。じっと胸の奥底でこちらの様子をうかがっている。それはなんだか、こころの顔にも似ていた。
頑なに気を張っていたせいか、急に力が抜けていく。
「……私も、ちょっとよくわかんないんだ」
答えを必死に探しても、どこにも見あたらない。悲しいとか、泣きたいとか、悔しいとか。そういう極端な感情がどこにもなくて、ただただ虚しく、頭はずっと空っぽだ。
「だから、泣けって言われても泣けないし。優也との思い出がきれいだったかと言われればそうじゃないし、むしろ喧嘩ばっかりで、未来が見えなかったし……軽い気持ちで付き合ってたんだよ、私は。ほら、冷たい女だからさ。かわいくないから」
——お前、ほんとに冷たいよな。かわいくない。
悪気なく冷やかす優也の言葉をいま、突然に思い出した。何度かからかわれたものなのに、地味に負担となっていたらしい。これに気がつけば、余計に惨めな気持ちになった。
こころはもう言葉を失っており、顔をしかめてこちらを見ている。いま、自分はどんな表情をしているんだろう。笑っていないことだけは確かだ。
でも、落ち込んでメソメソしているのも、キャラじゃない。かっこ悪い様をさらすのが、はるかに恐ろしい。
涼香はこころの手を振り払った。彼女もなすがままに弱々しく項垂れる。気まずい空気が境界線を引いた。
「……そっか」
こころが言う。そこには諦めが含んである。
「涼香がそう言うんなら、あたしはもうなにも言わないよ」
「うん。そのほうが助かる」
涼香は逃げるように足を踏み出した。