全身を震わす音の(うず)が、学校中に響かないはずがない。ぐるぐるとスピンするギターサウンド。リズミカルなドラム。ずっしりと重厚感のあるベースの三重奏が一度に溢れる。
 すると、唐突に青筋を立てた男子生徒が引き戸を開け放った。

「急にライブやるなんて聞いてないぞ!」

 音楽室の真下に位置する生徒会室から、生徒会長が肩をいからせて怒鳴りこんでくるのは明白である。会長の登場が、爽やかな爆音を止めた。

「あぁ、ごめんごめん。リハをやるって言うの忘れてた」

 率先して会長をなだめるのは、意外にも雫だった。長身の彼が出向けば、誰でも気圧されてしまうようだった。

「ごめんねー、会長」
「練習するときは事前連絡! いつも言ってるだろ! 俺の頭痛がひどくなる!」

 全員で申し訳なく会釈すると、会長は肩を落としてため息を吐いた。疲れた顔で帰っていく。
 その様子をうかがいながら、雫が言った。ドアを閉める。

「……あいつも大変だよなぁ。文化祭の予算調整、溜まってるらしいぜ。文化祭、明日なのに」
「そうなんだ。大変だなー」

 邪魔が入ったことに、麟は残念そうに頭を掻いた。

「それならしょうがないか」

 郁音も肩にかけていたベースを外す。

「でも、一番楽しみにしてるのは会長なんだ。それくらい、俺たちは信頼されてんだよ。なぁ?」

 得意げに言う麟。雫も肩を震わせて笑う。
 二年前はいがみ合っていたこの二人が、すっかり仲良く肩を並べているものだから、涼香はたちまちくすぐったくなった。口元に手を当てて吹き出す。
 このバンドはサービス精神が旺盛(おうせい)だ。そこまでのもてなしをしてくれなくても良かったのに。

「明日のライブ、楽しみにしとけ」

 部室を出る間際、三人が涼香を見送ってくれた。自信に満ち溢れた麟を見ているとなんだか励まされる。渦巻くような彼のギターソロは確かに圧巻(あっかん)で、わずかな演奏でもエネルギーをもらえた。

「ありがとな、大楠。寺坂にもよろしく言っといて」

 なんの前触れもなく、雫が穏やかに言う。青いピアスが光り、どことなく危なげなにおいを漂わす彼だが、(ふところ)の深さを知ると確かに郁音が()れるのもわかる気がした。

「羽村ちゃんによろしくー」

 郁音も手を振って見送ってくれる。それに応えて手を振り返し、涼香はポニーテールをひるがえした。

 ***

「ミーント、フレーバー振ればー……思い出す、切なく消えてしまう、ふふふんふふん」

 今しがた聴いた、うろ覚えの曲を口ずさむと足取りはいくらか軽やかだった。頭痛と予算書に悩む生徒会長に二組の申請書を叩きつけ、悲鳴をあげる彼を笑いながら教室へ戻る。
 手洗い場を横切った、その時だった。

「あれ? 大楠?」

 背後から呼ばれた。ハスキーな柔らかい声。後ろにいるのが明だというのは、すぐにわかった。それまで自然と楽しかった足がピタリと静止する。

「明……」

 やや絶望めいた声が出てしまった。
 いま、ここで会うのはまずい。そんな涼香の顔色をうかがいつつ、明は人懐っこく寄ってきた。

「なんか機嫌がいいね。いいことあった?」
「あー……えーっと、BreeZeの演奏を聴いて……」
「あぁ、さっき聴こえてたね。もしかして、練習してるとこ見に行ったとか? あそこ、関係者以外立ち入り禁止なのに。いけないんだー」

 優也と喧嘩している最中なのに、どうしてこのひとはこんなにすんなりとすり寄ってくるんだろう。前々から空気が読めないとは思っていたが、それならさりげないフォローはできないと思う。こちらの相談に応じたり、面倒な役回りを買って出ることも不得意なもの。
 わざとだろうか。ないがしろにしている優也に対し、地味な仕返しをしているのだろうか。疑心がよぎり、涼香はすごすごと離れる。

「大楠? どうした?」

 彼は手洗い場まで追い詰めてきた。逃げ場がない。

「明、あのさ」
「ん?」
「私、優也と付き合ってるんだよね」
「知ってるよ。なんだよ、改まって」

 言葉の裏を読んでくれない。こちらの気まずさをどうしてもわかってくれない。気分がどんどん下がっていく。

「こうして明と会ってると、優也が誤解する」
「なんで? それならクラスの男子、全員がその対象じゃない? 僕だけがダメっていう理由がないでしょ。いままでだって、普通に話してたのに。変だよ」

 今日の明はやけに強気だ。

「それは、そうだけど」

 流されるな。
 強く思っても、心はゆらゆらと危なっかしい。優也とこころに散々言われたことだから、かえって気まずい。それを明は察してくれない。
 にっこりと優しく笑う顔が、なんだか怖い。優しくも厳しい圧を感じ、目をそらした。

「もしかして、優也に会うなって言われてる?」
「………」
「図星か。まぁ、そうかもしれないね……僕が大学の推薦枠をとったから、あいつは僕のことが気に入らないんだ」
「それは違う!」

 感情が急いて、強く口走った。自分でも驚くほどの大声で、周りにいた生徒たちが振り向いた。その視線に、明も気にしたらしく、顔を引きつらせた。ようやく笑顔の仮面が崩れ、どことなく機嫌の悪さがうかがえる。

「……場所、変えよっか。ちょっと、話したいことがあるんだよ」

 その提案には静かに乗るしかない。高揚はすでに冷めきっていた。


 屋上へは生徒の立ち入りが禁止されている。しかし、いまは横断幕を用意する生徒会の出入りが激しいので、普段は施錠(せじょう)されているはずの扉はすんなり開いた。
 濃い青空と、焼けるような西陽。青が強く、景色は見事なブルーモーメントを描いていた。だが、きれいな風景も寒風が吹けば寒々しく感じる。

「屋上、初めて来たなぁ。空がきれいだねー。ね、大楠」
「そうだね」

 冷たい風を受けるせいで、いつもより口が重くなる。迷ってしまう。すると、明は心配そうな顔を向けた。

「寒い? 僕のカーディガン、使う?」
「ううん。いらない。って言うか、そういうことしないでよ」
「せっかく気遣ってるのに。ひとの厚意(こうい)を無にするのはよくないよ」

 明の態度も不自然だが、言動もさらに不可解を極める。
 そういえば、彼は文化祭の前日に毎回、涼香の前に現れる。世界の軸が変わっても、必ず同じ場所で同じ言葉をかけてくる。示し合わせたかのように。
 どういうことなんだろう。なにか意図があるのだろうか。でも、彼がタイムリープを知るはずがない。いや、いまはそんなことどうでもいい。

「ねぇ、明」
「なに?」
「優也と仲直りして」

 この調子だと、優也はまだ明に話をしていないんだろう。問題を先延ばしにしている彼らの間に立つべきだ。そんな使命感が働き、涼香はまっすぐに明の目を見つめた。
 明は笑顔のままで唸った。「うーん」と長く唸り、空を見上げる。言葉を考えているようだった。

「大楠のお願いでも、それだけは無理かも」

 熟考の末、彼は観念するように肩をすくめた。

「どうして?」
「修復不可能ってやつだよ。僕と優也はそこまできてる。いくら説得されても、やっぱりお互いに許し合えるまでに及ばないんだ。きっかけは些細なことだったんだけど、実はもうずっとこの調子」

 それは優也も言っていた。二年の冬からこじれていたと。それを放置していたのは、もちろん優也と明の責任だろうが、涼香も無関係とは言い切れない。すがるように見つめてみるも、明の決意は固かった。

「ちなみに、さっきは右輪にも説得されたよ。お前ら、そろってお節介だよね」
「そうかもね」

 優也がと明が動かないのなら、こちらが動くしかない。こころと思考がシンクロしていることには驚いたが、あの親友のことだ。涼香よりも先回りしているのが目に浮かんで、呆れの息を吐いた。明も気を抜くように肩を落とす。

「僕は大楠と右輪みたいな熱い友情ってやつを持ってなかったんだ。純粋な親友じゃないよ。いいヤツのふりをしていただけ。結果、優也に邪険にされてるし」
「どういうこと?」
「僕が大楠のことを、いつまでたっても諦められないから」

 思わぬ言葉に、涼香の時は止まった。目を見張る。その驚きを目の当たりにした明は、ゆるゆると目を伏せた。

「優也と大楠が喧嘩したとき、誕生日プレゼントを買うとき、遊びにいくとき、勉強会するとき。なんだかんだ、僕と右輪が二人の仲を取り持ってきた……ここに右輪がいなかったら、僕はすぐに優也を裏切ったと思う」

 言いながら、彼はカーディガンのポケットから何かを取り出した。のど飴がコロンと手のひらに転がる。キシリトール配合の苦い薄荷味。優也が漂わせていたにおいのもと。

「僕、喉が強くないからさ、試合前に舐めてたんだよね。それに、薄荷味って爽やかだからさ。大楠に会う前に、優也に渡したりしてて」

 声のトーンを落として言う明の背後で、ギターの音が聞こえた。「ミント」という名の歌が風に乗る。

「そこまで優也に協力しておいて、なにを言ってるの?」

 明の意図がいまだに読めない。しかし、なんとなく嫌な予感がよぎる。いままさに優也の不安の原因が、紐解(ひもと)かれようとしているのではないか。
 やがて、明は「くはっ」と笑った。さながら、追い詰められた犯人のような、黒幕じみた本性が表面化する。

「やっぱり、気づいてないか。まぁ、それもそうだよね。僕が大楠を好きになったとき、お前はもう優也のだったから」

 寂しそうに、半ば非難めいた声音で言う彼の声は、掠れていてうまく聞き取れない。風とギターの音がうるさいから余計に。
 息が詰まった。頭は混乱して、真っ白になっている。

「……嘘でしょ」
「その言い方はひどいよ。傷つくなぁ」

 さっと血の気が引いた。夢なら覚めてほしいと祈ってしまいそうなくらい直視できない。それでも明の話は続き、耳は都合よく塞がらなかった。

「覚えてる? 二年前の文化祭。あのとき、初めて大楠に会って、一目(ひとめ)()れだったって言ったら信じてくれる?」
「信じない」
「……一目惚れだったんだよ。信じてよ」

 せいいっぱいの悪あがきをしようと、彼は必死に笑っていた。痛々しくて見てられない。それに、切なげな表情を見ても信用できはしなかった。愛情よりも不確かなものが、この世に存在するとも思えない。ありえない。だって、かわいくない女の子なのに、これでは都合がよすぎる。

「ひとを好きになるのに理由はいらないと思うよ。多少の好みはあるかもしれないけど、僕の場合は言葉も理由もいらなかった。大楠のことが好きになってしまった。でも、それが一パーセントの望みもないことは決まっていた。そしたらさ、僕はどうにもひねくれた考えをひらめいたんだよ」

 彼は少し言葉を切った。
 そのたびに、胸が張り裂けそうに痛む。緊張で全身が軋んでいる。顔はきっと険しくて、明を睨んでいるんだろう。それでも彼はとつとつと続けた。

「優也の一番の親友でいて、大楠の相談相手になる。絶好のポジションだろ。お前に無条件に会いたいがために、僕はずっと優也を利用してたんだよ」
「………」

 聞きたくなかった。でも、予想ができてしまった。そうじゃなきゃ、彼がずっと気にかけてくれるはずがない。そして、機をうかがっていたことも。優也と別れた直後を狙って優しく声をかけようとしていた卑怯者を、どう責めようかなんてすぐには思いつかない。

「……種明(たねあ)かししたら、罵倒してくれると思ったのに。調子が狂うな」

 明は背を折り曲げ、脱力して膝に手をついた。枯れた笑いが漏れてくる。いまにももろく崩れてしまいそうなほど、弱っている彼に冷たく罵る言葉なんて見つかるはずがない。

「どうしていま、急にそんなことを」

 (あえ)ぐように言うと、彼は顔を見せずにすぐさま返した。

「いろいろと事情はあるんだけどさ。それを抜きにしても、いま言っておかないとダメだと思った」
「だからなんで?」
「このタイミングを逃したら、僕はもう一生、大楠に告白できないから」

 彼の気持ちと同じく不確かで曖昧な答えだった。そんなことを言われても納得できるわけがない。涼香は腕を抱いて寒さに耐えた。
 あんなに爽やかで心地よかった歌が、いまは寒々しくて寂しい。
 明はまだ顔を上げてくれない。どんな顔をしているかわからないから、責めることも慰めることもできない。

「じゃあ、このことを優也は……」
「知らない。でも、感づいてる。それで僕を避けてるんだ。警戒してるんだろうね。だから、あいつとはもう仲直りできないんだよ」

 淡い期待はもろく崩れ去った。そして、優也に無神経な言葉をかけたことを悔やんだ。明を傷つけてきたことを恨んだ。様々な黒い感情が渦巻き、風に煽られたら倒れてしまいそうだった。それは明も同じなのかもしれない。そして、優也も。
 その瞬間、脳が冴える。明の言動は、はじまりの文化祭で明らかだった。繰り返した過去の中で、決定的な分岐があるとすれば、明を助けたか否か。彼を文化祭で助けていたら、ここまでこじれることはなかっただろう。
 やはり、過去を変えることは重罪だった。

「もう一つ言うと、僕は明日の文化祭でお前に告白するつもりだった。区切りをつけたくて。そんなの、僕の勝手な自己満(じこまん)でしかないんだけど、聞いてほしかったんだ」
「それなのに、いま言うんだ」
「仲直りしてくれって言われて、はいわかりましたって言えるほど簡単なものじゃないからね。ずっと近くで片思いして、絶対に実らないっていう生き地獄(じごく)みたいな状況に、そろそろ耐えられなくて」

 たしかに、ここまでくれば修復は望めないんだろう。わかっていても、すぐには受け入れられることではなく、涼香はその場に立ち尽くすだけ。
 明はゆっくりと顔を上げた。涙を滲ませて、悲しそうに笑う。

「好きだったよ、ずっと。あんなやつより、僕を見てほしい。それはいまも思ってる」
「………」
「これを言ってしまうと、もう友達には戻れないよね……でも、もう疲れたんだ。だから悪いけど、優也と一緒に悪者になって」

 一方的な八つ当たりだ。でも、そんな明を責めることはできない。おそらく優也も。それほどに無神経なことをしてきた。無自覚に明を傷つけてきた。どんなに願っても、いつの間にか狂った友情は修復できない。
 涼香はうなずくこともできず、呆然としていた。答えなんて出てくるはずがなく、いまだに彼の思いを拒否している。いつまでも口を開けないでいると、明が諦めた。脇をすり抜けるように、屋上の出口へと向かう。
 そして、彼はふと、ドアの前で立ち止まった。

「——告白したきっかけはね、ほかにもあるんだ」

 静かな声の中に火花が散った。呆れにも似たため息と乱暴な声が同時に出てくる。振り返ると、明がドアノブを回した。

「……これでいいんだろ? 右輪(・・)

 開いたドアの向こうには、ふわふわの三つ編みが唇を噛んで立ち尽くしていた。