青。
青い弾丸がはじけ飛ぶ。鼻と頰とまぶたに命中して散る。
涼香は顔をそらして避けたが、どうにも間に合わなかった。まともに食らってしまった。油性のアクリルインキは腐葉土みたいなにおいでべったりと涼香をおそう。
文化祭準備で大忙しの教室はしんと静まりかえった。
「ごめん、大楠さん!」
絵の具をかけた羽村美咲は笑顔を強張らせた。慌てて謝るところ、わざとじゃないんだろう。だから、涼香もへらりと笑い返して和ませた。
「あぁ、いいよいいよー、気にしないで」
しかし、なんだろう。青い絵の具がべったりとくっついた顔と同じように、心にもなにかが貼りつく。
その正体がわからないまま、涼香は顔を背けて教室から出た。そのとき、ふわふわの三つ編みの女子とはちあわせた。
「涼香!」
親友、右輪こころが驚愕の表情で立ち止まった。
「どうしたの? 顔に絵の具がついてるよ。なにがあったの?」
過剰に心配するものだから、涼香はうんざりと苦笑した。顔を隠して、こころの脇をすり抜ける。
「あー、もう。いいから、いいから。気にしないで」
大げさな驚きがかえって神経を逆なでしそうで、その感情すら見抜かれたくなくて、絶対に振り返らなかった。憐れみの目を向けられるのは癪だ。それに、振り返れば元カレの〝あいつ〟まで視界に入る。
こころはその場から動かない様子だったが、ジャージのポケットに手をつっこんで廊下の手洗い場へ小走りに向かった。
窓から見える十月二十四日の空は消えそうな水色で、雲との境界線がはっきりしない。学校を囲む桜の木も葉を落として寒そうだ。むき出しの幹は湿り気を帯びている。
そう言えば、「人間は嘘をつくとき、決まって二回同じ言葉を繰り返す」というのをどこかで聞いた。本当かどうかはわからないけれど、ついさっき繰り返した「いいよ」はきっと嘘なんだろう。
涼香はため息を吐いた。顔についた絵の具はもう取れただろうか。折りたたみの鏡を教室に置き忘れたことを思い出し、再びため息を落とす。ついてないっていうレベルじゃない。
「あれ? 大楠?」
背後から呼ばれた。ハスキーな柔らかい声。その主が、杉野明だということは、すぐにわかった。元カレの親友にまで出くわすなんて、今日は本当についてない。
顔にへばりついた青がまだ残っているかもしれないので、絶対に振り返らなかった。流れる水滴を袖で拭う。
「大楠ってば」
無遠慮にも彼は顔をのぞかせてきた。色素の薄いサラリとした髪と好奇心の目が視界に入ってくる。
目が合うと、明はすぐに顔色をくもらせた。
「大丈夫? 絵の具ついてるよ」
「あぁもう、大丈夫だから。本当に大丈夫!」
彼の心配が、こころのものと同じく大げさで、過剰な反応がうっとうしい。冷たく突っぱねて、ポニーテールをひるがえせば、明はすぐに不安の色をくずした。
「まー、なんだ。〝あれ〟については、大楠が気負うことはないんだからさ、元気出しなよ」
明はクラスが違う。だから、二組で起きている迫害については知りようがない。はずだ。
涼香は居心地が悪くなり、目を伏せた。明の笑い声がだんだん枯れていく。彼は目をそらして首筋を掻いた。
「えーっと……大楠。明日、暇だよね?」
「暇ですが」
暇という言い方がいちいち気に障るが、平坦でいるように努める。彼はすっきりと笑った。
「じゃあさ、一緒に文化祭見てまわらない? 『BreeZe』のライブ、観に行こうよ」
これで機嫌がなおると思ったら大間違いだ。涼香は眉根を寄せた。
「……気が向いたら」
「えぇー? いいじゃん。気分転換にさ、パーっと遊ぼ!」
「ほかの子と行きなよ。ほら、私ってノリ悪いし」
「あーね。まぁ、ノリは良くないよねぇ。それでも全然いいんだけどね。大楠と遊べるんなら」
明は食い気味に言った。そのテンションについていけず、どうにも調子外れの相づちしかできない。怪訝に見てみるも、その脅しには乗らない明である。
「ま、考えといて。高校最後の文化祭、楽しくしたいじゃん。だからさ、僕とデートしよう」
「………」
言いたくないことを言わないと、そこまでしなければ明は引かないんだろう。空気が読めない人間の相手をするのは、こういうとき面倒だ。
涼香は唇の片方をめくるように意地悪な笑いを向けた。
「親友の元カノをデートに誘うなんて、明って無神経なんだね」
彼の笑顔が固まった。ようやく失言に気がついたようで、そのまま目をそらしていく。気まずく重たい空気が流れ、沈黙が続いた。
いつもそうだ。明は後先考えずに発言する。優也はそうじゃなかった。
元彼氏の寺坂優也は明と同じくらい底抜けに明るいが、口は重い。考えて言葉をひねり出して、間違った回答をしてくれていた。そのほうがまだ思いやりを感じられる。
——俺と別れてほしい。
その言葉も、考えて考えて考え抜いた結論だろう。しかし、この結末がいまだに信じられない。いや、この際なにも考えるな。逃避しよう。
涼香は上目遣いに明を見た。
「うーん、そうだなぁ……」
彼は負い目からか、わずかに後ずさった。それを追いかけようと一歩近く。
「明と遊ぶのも悪くないかもね。気分転換に、ね?」
どうにも気持ちが危なっかしい。ゆらゆらと心の天秤が傾くよう。しかし、ここで明に乗り換えても優也から咎められることはない。別れたのだから。
明は唇を舐めた。予想外の返答に戸惑っている様子だった。自分から提案しておいて、その態度はないだろう。気持ちが一気に冷めていく。
「嫌ならいいよ。ほら、私ってつまんないやつだし、冷たい女だし」
「そんなことない! 大楠は、優しくて強い子だよ」
それは予想外の言葉だった。明が真剣に言うものだから、意地悪な笑みも引っ込んでしまう。
「一年のとき、僕を助けてくれただろ。あのときから、ずっとそう思ってるよ」
記憶のフィルムが回転する。一年の文化祭。忙しくて目眩がしそうだったのに、あのときはなにも考えずに楽しんでいた。たった二年前がひどく懐かしい。それに、この二年を思い返すと、どこにでも優也が存在している。
涼香は天井を仰いだ。
「それは……優也から言われたかったなぁ」
本音が思わず飛び出した。慌てて口をつぐむ。
なにをいまさら、未練がましいことを言ってるんだろう。バカみたいだ。
そんなこちらの焦りに気づかず、明は深刻な表情で唸った。
「まぁ、優也にもいろいろあるしね……でも、このタイミングで別れるなんて、意味がわからないよ。僕もあいつとはつき合いが長い方だと思うんだけど、理解不能」
明は辛辣に言った。それもこちらの気持ちを無視しているように思え、涼香は彼から遠ざかった。
「あっ、明日はうちのクラスに来いよー!」
慌てて投げつけられた声に、返事はしなかった。
***
県立青浪高校での生活も終盤だ。
三年二組は脱出ゲームを企画しており、青や赤、黄色など原色を基調としたパズルモチーフの迷路を製作している。
優也とは中学からの腐れ縁で、高一のときに優也から告白され、つい最近まで付き合っていた。しかし、突然の別れは十月二十日の放課後に訪れた。文化祭を目前に、最悪のタイミングだ。
またたく間に破局の噂が流れていき、文化祭の浮き足立った教室が地味に冷えた。学校という箱庭は光回線ほどに速く、ねじれた情報共有をしてしまう。
「涼香が優也をふった」なんていう話をしていたのは、一年生のときから反りが合わない羽村美咲だった。これが原因で、教室に居づらくなった。しかし、彼女は悪びれることなく、班長という権力を行使する。
「大楠さん、ちゃんとやってよ。みんなと一緒に作り上げたいでしょ? 最後の文化祭なんだよ? いい加減に気持ちを切り替えてよ」
準備から逃げていると、さも全員の意見だと言うように正義感を叩きつけられた。
そして、今日。
羽村は塗り残しのダンボール紙に絵の具を塗っていた。そのはずみで、絵の具がついた刷毛を涼香に向かって振った。わざと。上履きに当てるつもりだったのだろう。そこまで盛大にふざけるつもりはなかった。ただ、ちょっとからかっただけだった。
そこまで分析ができても、腹の虫はおさまらない。
——なんでこんな目に遭わなきゃいけないの。ふざけんな。
悪いことはしていない。毅然として、準備に取りかかればいいのに足が動かない。感情をパーセンテージ化するならば、いまのところ断トツで「めんどくさい」が過半数を占めている。
「涼香……」
ためらっていると、窓からふわふわの三つ編みに呼ばれた。こころの表情はいまだに暗く、遠慮がちだ。
「もう帰る? さすがに羽村さんも気まずいみたいだし、怒られないと思うよ」
「あー、そうね……そうしようかな。だるいし」
「オーケー。んじゃ、カバン持ってくるね」
優しい親友は、涼香のもやつきの本性をつゆ知らず、甲斐がいしく教室の窓からカバンを投げた。
「ありがと」
涼香はぎこちなく笑いかけ、こころに手を振った。
「あたしもすぐに帰るから、うちで待っててよ」
そう言われてしまえばしかたない。涼香は曖昧に笑ってジャージを脱いだ。カバンにつっこみ、教室から遠ざかる。
ひとりになりたくても、いざ校内に放り出されてしまえば身勝手に寂しくなった。あちこちで飛び交うお祭りムードが廊下をにぎやかにしているせいだろう。陽気な波に乗れなくて憂鬱だ。
本当ならみんなと一緒に騒いで、高校三年間の集大成でもある青春を楽しむはずだった。それなのに、どうしてこうなったんだろう。
開いた窓から冷風が入り込み、肩が縮み上がった。シャツだけじゃ心もとない。こころはカーディガンまではカバンに入れてくれなかった。仕方なく、汚れたジャージを着直す。濃い青と、肩から手首にかけて入った白いラインのジャージが制服のスカートに合わず、アンバランスだ。
「超ダサい」
自嘲気味につぶやいていると、同時にズゥゥゥンと低いベースギターの音が聞こえてきた。ガヤガヤした廊下の隙間を縫って耳に届いてくる。
明が言っていた「BreeZe」は軽音楽部のバンド名だ。三年の上のフロアは特別教室が並んでいる。その一角に音楽室があり、軽音楽部は音楽準備室の小さな部屋で活動している。と言っても、普段は部長のツテでスタジオを借り、そこで練習をしているそうだが。
涼香は気まぐれに階段をのぼった。まっすぐ昇降口に向かうつもりだったが、あのベース音を聞いたら低音に導かれるかのように足は音楽準備室へ吸い込まれる。
扉には律儀に「軽音楽部」と書かれたボードが貼られていた。窓をのぞくと、黒いショートヘアーの女子生徒が弦をつまみながら音を合わせている。
扉を開けてみると、彼女のまぶたが驚いたように開いた。
「おやおや、珍しい客」
猫みたいな目と口元が印象的な美作郁音は、二年生でクラスが離れてしまった古い友人だ。
「久しぶり、郁ちゃん」
言いながら、涼香は部室を見回した。
「ほかの二人は?」
涼香はベースの音に負けないよう、声音を上げて聞いた。
郁音が組んでいるバンド「BreeZe」のメンバーは、彼女のほかに男子が二人いる。
「文化祭実行委員会に顔出してるよ。明日のステージの確認とか」
「へぇぇ。さっすが、校内人気バンド。すごいなぁ」
「どうも」
クールを装いつつも、郁音は嬉しそうにはにかんだ。比例するようにベースの音が重くなる。だんだん深くなり、その重さに心臓が震えた。
「ねぇ、一曲弾いてよ」
なんとなくねだった。すると、郁音は恥ずかしそうにも、満悦に口の端を持ち上げてにやけた。姿勢を正してベースのボディを太ももの上に置きなおす。
弦をはじく。ピックで震わす骨太の重低音。ズゥゥゥンと消えゆく。そしてまた水底から上がるように音が浮かぶ。波が渡り、次々と追いかけてくる。速いメロディラインに差し掛かった。
音楽はあらゆる音が重なって曲が生まれる。パーツが欠けていては締まりのない音楽になる。しかし、その楽器が奏でる一音一音を噛み締めて聞くのも好きだ。郁音の音は手作りのような温かみがあって耳が楽しい。
これにギターとドラムを組み合わせたらどうなるんだろう。自然と指がリズムをきざみ、体が左右に揺れる。楽しい。
だんだん消えていき、フェードアウトしたと同時に涼香は小さく拍手した。
「確かこれ、一昨年の文化祭でやった曲だよね?」
聞いてみると、郁音は「うん」と頷いた。
「『popshower』って曲。ベースはちょっと地味なんだけどさ、ギターソロがすごいんだよ」
郁音はどうにも謙遜しがちだ。彼女のベースだってテンポが速いパートがある。それに、音調の切り替えが複雑な曲だと思う。
「ドラムもテンポよくてさ、本当にかっこいい曲。一年のときに麟が作ったんだよ」
「麟って、リーダーの伊佐木? すごいねぇ。才能あるよ」
「うん。私じゃ絶対に書けないし、作れない。せいぜい、足を引っ張らないようにするだけ」
楽しくも切なそうな言い方に、涼香は首をかしげた。しかし、郁音はそれに答える気はないようで、話を変える。
「ところで、文化祭前日のこの忙しい時に涼香はサボり? 寺坂と別れたからって、さすがにまずいでしょ」
思わぬ指摘に胸のモヤつきが固く強張った。
「いや……別にそういうわけじゃ。ただ、郁ちゃんと話したかっただけで」
「そうなの? 普段は私に話しかけもしないくせに。都合がいいやつ」
笑いながら言う彼女の口はいたって軽々しい。冗談だろうか。それとも本気で言っているのか、すぐには判断がつかず、涼香は目を伏せた。
「ん? 涼香?」
黙っていると、郁音が顔をのぞきこむ。その目に、悪気はどこにもなかった。
青い弾丸がはじけ飛ぶ。鼻と頰とまぶたに命中して散る。
涼香は顔をそらして避けたが、どうにも間に合わなかった。まともに食らってしまった。油性のアクリルインキは腐葉土みたいなにおいでべったりと涼香をおそう。
文化祭準備で大忙しの教室はしんと静まりかえった。
「ごめん、大楠さん!」
絵の具をかけた羽村美咲は笑顔を強張らせた。慌てて謝るところ、わざとじゃないんだろう。だから、涼香もへらりと笑い返して和ませた。
「あぁ、いいよいいよー、気にしないで」
しかし、なんだろう。青い絵の具がべったりとくっついた顔と同じように、心にもなにかが貼りつく。
その正体がわからないまま、涼香は顔を背けて教室から出た。そのとき、ふわふわの三つ編みの女子とはちあわせた。
「涼香!」
親友、右輪こころが驚愕の表情で立ち止まった。
「どうしたの? 顔に絵の具がついてるよ。なにがあったの?」
過剰に心配するものだから、涼香はうんざりと苦笑した。顔を隠して、こころの脇をすり抜ける。
「あー、もう。いいから、いいから。気にしないで」
大げさな驚きがかえって神経を逆なでしそうで、その感情すら見抜かれたくなくて、絶対に振り返らなかった。憐れみの目を向けられるのは癪だ。それに、振り返れば元カレの〝あいつ〟まで視界に入る。
こころはその場から動かない様子だったが、ジャージのポケットに手をつっこんで廊下の手洗い場へ小走りに向かった。
窓から見える十月二十四日の空は消えそうな水色で、雲との境界線がはっきりしない。学校を囲む桜の木も葉を落として寒そうだ。むき出しの幹は湿り気を帯びている。
そう言えば、「人間は嘘をつくとき、決まって二回同じ言葉を繰り返す」というのをどこかで聞いた。本当かどうかはわからないけれど、ついさっき繰り返した「いいよ」はきっと嘘なんだろう。
涼香はため息を吐いた。顔についた絵の具はもう取れただろうか。折りたたみの鏡を教室に置き忘れたことを思い出し、再びため息を落とす。ついてないっていうレベルじゃない。
「あれ? 大楠?」
背後から呼ばれた。ハスキーな柔らかい声。その主が、杉野明だということは、すぐにわかった。元カレの親友にまで出くわすなんて、今日は本当についてない。
顔にへばりついた青がまだ残っているかもしれないので、絶対に振り返らなかった。流れる水滴を袖で拭う。
「大楠ってば」
無遠慮にも彼は顔をのぞかせてきた。色素の薄いサラリとした髪と好奇心の目が視界に入ってくる。
目が合うと、明はすぐに顔色をくもらせた。
「大丈夫? 絵の具ついてるよ」
「あぁもう、大丈夫だから。本当に大丈夫!」
彼の心配が、こころのものと同じく大げさで、過剰な反応がうっとうしい。冷たく突っぱねて、ポニーテールをひるがえせば、明はすぐに不安の色をくずした。
「まー、なんだ。〝あれ〟については、大楠が気負うことはないんだからさ、元気出しなよ」
明はクラスが違う。だから、二組で起きている迫害については知りようがない。はずだ。
涼香は居心地が悪くなり、目を伏せた。明の笑い声がだんだん枯れていく。彼は目をそらして首筋を掻いた。
「えーっと……大楠。明日、暇だよね?」
「暇ですが」
暇という言い方がいちいち気に障るが、平坦でいるように努める。彼はすっきりと笑った。
「じゃあさ、一緒に文化祭見てまわらない? 『BreeZe』のライブ、観に行こうよ」
これで機嫌がなおると思ったら大間違いだ。涼香は眉根を寄せた。
「……気が向いたら」
「えぇー? いいじゃん。気分転換にさ、パーっと遊ぼ!」
「ほかの子と行きなよ。ほら、私ってノリ悪いし」
「あーね。まぁ、ノリは良くないよねぇ。それでも全然いいんだけどね。大楠と遊べるんなら」
明は食い気味に言った。そのテンションについていけず、どうにも調子外れの相づちしかできない。怪訝に見てみるも、その脅しには乗らない明である。
「ま、考えといて。高校最後の文化祭、楽しくしたいじゃん。だからさ、僕とデートしよう」
「………」
言いたくないことを言わないと、そこまでしなければ明は引かないんだろう。空気が読めない人間の相手をするのは、こういうとき面倒だ。
涼香は唇の片方をめくるように意地悪な笑いを向けた。
「親友の元カノをデートに誘うなんて、明って無神経なんだね」
彼の笑顔が固まった。ようやく失言に気がついたようで、そのまま目をそらしていく。気まずく重たい空気が流れ、沈黙が続いた。
いつもそうだ。明は後先考えずに発言する。優也はそうじゃなかった。
元彼氏の寺坂優也は明と同じくらい底抜けに明るいが、口は重い。考えて言葉をひねり出して、間違った回答をしてくれていた。そのほうがまだ思いやりを感じられる。
——俺と別れてほしい。
その言葉も、考えて考えて考え抜いた結論だろう。しかし、この結末がいまだに信じられない。いや、この際なにも考えるな。逃避しよう。
涼香は上目遣いに明を見た。
「うーん、そうだなぁ……」
彼は負い目からか、わずかに後ずさった。それを追いかけようと一歩近く。
「明と遊ぶのも悪くないかもね。気分転換に、ね?」
どうにも気持ちが危なっかしい。ゆらゆらと心の天秤が傾くよう。しかし、ここで明に乗り換えても優也から咎められることはない。別れたのだから。
明は唇を舐めた。予想外の返答に戸惑っている様子だった。自分から提案しておいて、その態度はないだろう。気持ちが一気に冷めていく。
「嫌ならいいよ。ほら、私ってつまんないやつだし、冷たい女だし」
「そんなことない! 大楠は、優しくて強い子だよ」
それは予想外の言葉だった。明が真剣に言うものだから、意地悪な笑みも引っ込んでしまう。
「一年のとき、僕を助けてくれただろ。あのときから、ずっとそう思ってるよ」
記憶のフィルムが回転する。一年の文化祭。忙しくて目眩がしそうだったのに、あのときはなにも考えずに楽しんでいた。たった二年前がひどく懐かしい。それに、この二年を思い返すと、どこにでも優也が存在している。
涼香は天井を仰いだ。
「それは……優也から言われたかったなぁ」
本音が思わず飛び出した。慌てて口をつぐむ。
なにをいまさら、未練がましいことを言ってるんだろう。バカみたいだ。
そんなこちらの焦りに気づかず、明は深刻な表情で唸った。
「まぁ、優也にもいろいろあるしね……でも、このタイミングで別れるなんて、意味がわからないよ。僕もあいつとはつき合いが長い方だと思うんだけど、理解不能」
明は辛辣に言った。それもこちらの気持ちを無視しているように思え、涼香は彼から遠ざかった。
「あっ、明日はうちのクラスに来いよー!」
慌てて投げつけられた声に、返事はしなかった。
***
県立青浪高校での生活も終盤だ。
三年二組は脱出ゲームを企画しており、青や赤、黄色など原色を基調としたパズルモチーフの迷路を製作している。
優也とは中学からの腐れ縁で、高一のときに優也から告白され、つい最近まで付き合っていた。しかし、突然の別れは十月二十日の放課後に訪れた。文化祭を目前に、最悪のタイミングだ。
またたく間に破局の噂が流れていき、文化祭の浮き足立った教室が地味に冷えた。学校という箱庭は光回線ほどに速く、ねじれた情報共有をしてしまう。
「涼香が優也をふった」なんていう話をしていたのは、一年生のときから反りが合わない羽村美咲だった。これが原因で、教室に居づらくなった。しかし、彼女は悪びれることなく、班長という権力を行使する。
「大楠さん、ちゃんとやってよ。みんなと一緒に作り上げたいでしょ? 最後の文化祭なんだよ? いい加減に気持ちを切り替えてよ」
準備から逃げていると、さも全員の意見だと言うように正義感を叩きつけられた。
そして、今日。
羽村は塗り残しのダンボール紙に絵の具を塗っていた。そのはずみで、絵の具がついた刷毛を涼香に向かって振った。わざと。上履きに当てるつもりだったのだろう。そこまで盛大にふざけるつもりはなかった。ただ、ちょっとからかっただけだった。
そこまで分析ができても、腹の虫はおさまらない。
——なんでこんな目に遭わなきゃいけないの。ふざけんな。
悪いことはしていない。毅然として、準備に取りかかればいいのに足が動かない。感情をパーセンテージ化するならば、いまのところ断トツで「めんどくさい」が過半数を占めている。
「涼香……」
ためらっていると、窓からふわふわの三つ編みに呼ばれた。こころの表情はいまだに暗く、遠慮がちだ。
「もう帰る? さすがに羽村さんも気まずいみたいだし、怒られないと思うよ」
「あー、そうね……そうしようかな。だるいし」
「オーケー。んじゃ、カバン持ってくるね」
優しい親友は、涼香のもやつきの本性をつゆ知らず、甲斐がいしく教室の窓からカバンを投げた。
「ありがと」
涼香はぎこちなく笑いかけ、こころに手を振った。
「あたしもすぐに帰るから、うちで待っててよ」
そう言われてしまえばしかたない。涼香は曖昧に笑ってジャージを脱いだ。カバンにつっこみ、教室から遠ざかる。
ひとりになりたくても、いざ校内に放り出されてしまえば身勝手に寂しくなった。あちこちで飛び交うお祭りムードが廊下をにぎやかにしているせいだろう。陽気な波に乗れなくて憂鬱だ。
本当ならみんなと一緒に騒いで、高校三年間の集大成でもある青春を楽しむはずだった。それなのに、どうしてこうなったんだろう。
開いた窓から冷風が入り込み、肩が縮み上がった。シャツだけじゃ心もとない。こころはカーディガンまではカバンに入れてくれなかった。仕方なく、汚れたジャージを着直す。濃い青と、肩から手首にかけて入った白いラインのジャージが制服のスカートに合わず、アンバランスだ。
「超ダサい」
自嘲気味につぶやいていると、同時にズゥゥゥンと低いベースギターの音が聞こえてきた。ガヤガヤした廊下の隙間を縫って耳に届いてくる。
明が言っていた「BreeZe」は軽音楽部のバンド名だ。三年の上のフロアは特別教室が並んでいる。その一角に音楽室があり、軽音楽部は音楽準備室の小さな部屋で活動している。と言っても、普段は部長のツテでスタジオを借り、そこで練習をしているそうだが。
涼香は気まぐれに階段をのぼった。まっすぐ昇降口に向かうつもりだったが、あのベース音を聞いたら低音に導かれるかのように足は音楽準備室へ吸い込まれる。
扉には律儀に「軽音楽部」と書かれたボードが貼られていた。窓をのぞくと、黒いショートヘアーの女子生徒が弦をつまみながら音を合わせている。
扉を開けてみると、彼女のまぶたが驚いたように開いた。
「おやおや、珍しい客」
猫みたいな目と口元が印象的な美作郁音は、二年生でクラスが離れてしまった古い友人だ。
「久しぶり、郁ちゃん」
言いながら、涼香は部室を見回した。
「ほかの二人は?」
涼香はベースの音に負けないよう、声音を上げて聞いた。
郁音が組んでいるバンド「BreeZe」のメンバーは、彼女のほかに男子が二人いる。
「文化祭実行委員会に顔出してるよ。明日のステージの確認とか」
「へぇぇ。さっすが、校内人気バンド。すごいなぁ」
「どうも」
クールを装いつつも、郁音は嬉しそうにはにかんだ。比例するようにベースの音が重くなる。だんだん深くなり、その重さに心臓が震えた。
「ねぇ、一曲弾いてよ」
なんとなくねだった。すると、郁音は恥ずかしそうにも、満悦に口の端を持ち上げてにやけた。姿勢を正してベースのボディを太ももの上に置きなおす。
弦をはじく。ピックで震わす骨太の重低音。ズゥゥゥンと消えゆく。そしてまた水底から上がるように音が浮かぶ。波が渡り、次々と追いかけてくる。速いメロディラインに差し掛かった。
音楽はあらゆる音が重なって曲が生まれる。パーツが欠けていては締まりのない音楽になる。しかし、その楽器が奏でる一音一音を噛み締めて聞くのも好きだ。郁音の音は手作りのような温かみがあって耳が楽しい。
これにギターとドラムを組み合わせたらどうなるんだろう。自然と指がリズムをきざみ、体が左右に揺れる。楽しい。
だんだん消えていき、フェードアウトしたと同時に涼香は小さく拍手した。
「確かこれ、一昨年の文化祭でやった曲だよね?」
聞いてみると、郁音は「うん」と頷いた。
「『popshower』って曲。ベースはちょっと地味なんだけどさ、ギターソロがすごいんだよ」
郁音はどうにも謙遜しがちだ。彼女のベースだってテンポが速いパートがある。それに、音調の切り替えが複雑な曲だと思う。
「ドラムもテンポよくてさ、本当にかっこいい曲。一年のときに麟が作ったんだよ」
「麟って、リーダーの伊佐木? すごいねぇ。才能あるよ」
「うん。私じゃ絶対に書けないし、作れない。せいぜい、足を引っ張らないようにするだけ」
楽しくも切なそうな言い方に、涼香は首をかしげた。しかし、郁音はそれに答える気はないようで、話を変える。
「ところで、文化祭前日のこの忙しい時に涼香はサボり? 寺坂と別れたからって、さすがにまずいでしょ」
思わぬ指摘に胸のモヤつきが固く強張った。
「いや……別にそういうわけじゃ。ただ、郁ちゃんと話したかっただけで」
「そうなの? 普段は私に話しかけもしないくせに。都合がいいやつ」
笑いながら言う彼女の口はいたって軽々しい。冗談だろうか。それとも本気で言っているのか、すぐには判断がつかず、涼香は目を伏せた。
「ん? 涼香?」
黙っていると、郁音が顔をのぞきこむ。その目に、悪気はどこにもなかった。