データ分析室に入ると数人の学生が集まっていた。
 先週、環境に関する映像を見て、その内容の概要と感想を書いて今日の午後五時までに生活環境学部の特設サイトにアクセスしてウェブ上で提出することになっている。それを提出するために残っている学生や、生活環境学部のほかの学科の学生も使用するので、レポートを書いている学生もいる。
 私は沙織とともにデータ分析室に足を踏み入れた。本当は宏紀も誘って提出しようと思ったけど、声をかける前に足早に出て行ったからつかまえられなかった。
 パソコンにそこまで強いタイプじゃないから、私は沙織と協力して試行錯誤しながら提出しようと思っている。提出の仕方や注意事項が記されたプリントも持っているから問題はないと思うけど。
 パソコンを起動させると、私の目にカタカタとキーボードを慣れた手つきで叩く宏紀の姿があった。早く講義室を出ていったと思ったら、宏紀もレポートを提出しに来たんだろう。
「宏紀君じゃない、あれ?」
 沙織も気付いたようで私の腕に触れてきた。
 私は沙織を見て頷いた。声をかけようかと思ったけど、キーボードの操作が目で追いつけないぐらい早かったから、声をかけるのに気が引けた。とりあえず、今はレポートを提出しよう。午後五時まで三十分ぐらいあるけど、パソコンが得意じゃない私には、その時間でも短く感じてしまう。時間が読めない作業は苦手だな。
 そんな不安を押し出すように、プリントを取り出して指示通りに進めていくと、難なく提出することができた。
「すごく簡単だったね」
「心配してたのがバカみたい」
 私と沙織は『提出が完了しました』という赤い文字が見えた瞬間にそうやって言葉をお互いに漏らした。
 私は宏紀に目を移す。もうほぼ書き終わったのだろう、さっき感じた人を寄せ付けない雰囲気はなくなっていた。
 私は立ち上がって宏紀のもとへ行く。宏紀の腕をポンポンと優しく触れた。
 その瞬間に、宏紀の体が凍り付いたのが分かった。冷たさはないけど、瞬時に氷の世界に連れ出されたように体が硬直した。宏紀はゆっくりと私の方に視線を向けた。
「ごめん、ビックリした?」
「未砂か……」
 小さく、長く息を吹きながら宏紀は言った。まとわりついていた氷はどこかへ身を潜めて、今はいつもの宏紀になっている。
「いきなりだったからごめんね」
 少し上目遣いで宏紀を見つめた。
「ああ……いいよ」
 目が座っていない状態で宏紀は言った。
「ありがとう。宏紀、レポートもうできた?」
 沙織の方を見ると、『イチャイチャするなよ』と言わんばかりの表情で手を振りながらデータ分析室を出て行った。
「今から提出する」
 宏紀はレポートを保存して、特設サイトを開いた。
「そっか。提出したら、帰るの?」
 私は宏紀の隣に座った。宏紀は目を合わせずにただパソコンの画面を直視している。
「うん……」
 明らかに乗る気ではなさそうな宏紀の雰囲気が、私の不安を煽った。
 私、『何か悪いことしたかな』と思って自分を振り返ってみる。でも何かした覚えはないし、ビックリさせてしまったことはさっき謝った。
 宏紀はマウスをカチカチ動かしながらレポートを提出した。
 私は黙ってしまった。なんか宏紀の表情が怖い。私を快く受け入れられなかった過去の人みたいに冷たい雰囲気を感じる。それに普段穏やかで優しい宏紀だから余計に不穏に感じる。こうなるなら、沙織にそばにいてほしかった。電話して呼び戻そうかと思ったぐらい。
 パソコン画面に、『提出完了しました』の文字が並ぶ。
「提出できたね……」
 声を絞り出す私。だんだん言葉の端々が小さくなっていく。答えに自信がない問題を先生にあてられて俯きながら答える小学生みたいだ。
「未砂」
 私はパソコンから宏紀に視線を移した。
「ん?」
 神妙な顔で私は宏紀を見た。また私から人は離れていくのだろうか。それが怖くて身構えてしまう。宏紀に離れられたら、この先どうしよう。
「髪の毛につけてたやつは、どうしたの?」
 宏紀は自分の左耳の上の方の髪の毛に触れている。
「えっ?」
 私は拍子抜けしてしまって奇声をあげてしまった。データ分析にふんわりと広がる奇声よりも宏紀の問いかけが気になって周囲の目は私には関係なかった。
 私も同じ個所を、宏紀を模倣するように触った。
 宏紀が言っているのは、今朝つけていた薄ピンク色のカチューシャのことだ。
「ああ、これのこと?」
 私はバッグからカチューシャを取り出した。
「うん。今はもうつけてないんだね」
 これがそんなに気になるのか真面目な表情で私を見ている。
「でも、宏紀、これ、好きじゃないんでしょ?」
 今朝このカチューシャの感想を求めた時、宏紀は素っ気ない感じだったからランチの時に取り外した。本当はその場で取り外したかったけど、みんなの前であからさまだったから手を止めた。沙織も背中をさすってきたから気を遣われているって感じたのもカチューシャに触れなかった理由の一つだ。
「違う」
 首を振って宏紀は即座に否定した。
 宏紀の表情がいつもの宏紀に戻っていた。目と目が合った時、なんとなくそう感じた。
「ふふん、無理しなくていいよ、私は気にしてないから」
 本当は悲しかったけど、そんなことを今伝えても仕方ないから気にしてないで押し通す。
「本当に違う」
 宏紀は手を横に振って頑張って『違う』と連呼した。
「本当?」
「本当。また着けてよ」
 カチューシャを見つめて、私はまた今朝のように髪の毛に彩りを添えた。
 そう言ってくれたのは嬉しかったけど、鋭利な視線、打って変わっていつもの宏紀に戻った宏紀についていけなかった。違う人と話している感がどこか怖かった。
「これでどう?」
 また改めて感想を求めた私。別に『かわいい』って言ってほしいわけじゃないけど、言えるなら言ってほしい。
「いいんじゃない」
 宏紀は微笑んでくれた。冷たい後の微笑みは私の心を何回も揺さぶってきた。これって宏紀の作戦か何か? 
「もうそろそろ出てください」
 データ分析室の責任者の人がみんなに退室するように声をかけた。ここが閉まるのは、レポートの提出時間と同じで午後五時だ。
 追い出されるようにデータ分析室を出た宏紀と私は、帰宅の途につくためにメインストリートに出てバス停に向かう。
 今は普通の宏紀を保っているから、一緒に帰ってくれるみたいだ。
「これから長旅になるね」
 沈黙を作りたくなくて私は宏紀に問いかけた。宏紀といるのに黙っていたらもったいない。
「うん……でも仕方ないな」
 大学を五時に後にしても自宅に着くのは七時ごろだ。長い。とにかく長い。
「宏紀、今日なんかあった?」
 不穏な空気の真相が知りたくて、宏紀の知らない何かを眺めているのは辛い。聞いていいことかどうか分からないけど、私の行動力はいかんなく発揮された。
「別に何もないよ」
 いや、何かある。宏紀に煙のような陰りは似合わない。
「バイトとかで疲れてる?」
 今日は月曜日だ。まだ週は始まったばかり。
「ううん。バイトは土曜日だけだったから大丈夫だよ」
 宏紀を見つめる。何かあっても話してくれないのは、七海じゃないからか。
 七海のことで頭を悩ませているなら、言えるはずはないけど、何かあったのか。
「そっか……ならいいけど」
「未砂、心配してくれてありがとう」
 その言葉が今の私を救ってくれた。様子は変だけど、お礼や謝ることはできるんだ。
「うん」
 影のある表情から笑顔になる。表情の動きが今日は活発だ。
 バス停が見えてくる。案の定、長蛇の列ができている。こんなに長い人の列をバスのおじさんはものともせずにバスに送り込む。慣れているし、流れ作業みたいな感じだから大丈夫なんだろう。
「ねぇ、今日は駅までバスじゃなくて歩いて行かない?」
「えっ?」
 拍子抜けしたような声が響いた。『今から長旅になるのに気は確か』って、宏紀は思っているんだろう。
 でも私は宏紀には暑苦しいバスの中より、自然が恵んでくれる風にあたっていた方がいいと思う。それを頼りに、宏紀の意味不明な陰りも私の不安も消し去ってほしい。
「歩いて行こうよ! たくさん並んでるし」
「マジで言ってる?」
 私はうなずいて、「早く行こう!」と宏紀の腕をつかんで列からはみ出した。長蛇の列をすり抜けて行くこの快感を、宏紀は感じているだろうか。たぶん、『面倒くさい』と思っているだろう。足取りが重いから私も力一杯、宏紀の腕を引っ張る。
「分かったから」
 腕に少し痛みを感じているのか、降参して宏紀は私についていく。バス停をすり抜けた瞬間にバスのドアが閉まる音が響いた。バスがいじわるをするように私たちと距離を広げていく。
 私は宏紀の顔を見ないようにしていた。無理に連れ出したのに宏紀の表情を見たら後ろめたくなってしまうから。開き直ってもいいなら、私の不安を煽った宏紀が悪い。
 腕から自然に手を放した私は宏紀と歩幅を合わせた。見ないように努めていた宏紀の横顔を伺いみる。怒ってもいなければ、楽しそうでもない、ただ凛々しい顔で新浦安駅に向かって歩いていた。
「ごめんね、無理やり付き合わせて」
「いいよ、大丈夫」
 夕焼けが私たちをオレンジ色に染めた。
 誰かに導かれるように、私はスマホを取り出した。ただ立ち止まって思わず写真を撮りたくなった。
「ちょっと待って」
 無言で歩いていた宏紀を呼び止めると、スマホのカメラで夕焼けと街並みをスクリーンに収めた。もういつシャッターに触れても大丈夫だ。
「写真? 確かにきれいな風景だね」
 宏紀は凛々しい表情を変えずにスマホを取り出して私の行動をコピーするように二、三枚連写した。
 シャッター音が空気と調和して消えた時、私は「うまく撮れた?」
「たぶん」
 私は自分の写真と宏紀の写真を比べた。
 宏紀の写真は少しだけ横に傾けて撮影してあって少しだけぼやけている。
 私の写真は夕焼け、車、川にまたがる橋がバランスよく入っていると思う。こうやって比べると、我ながらうまく撮れたって小さく胸を張った。でも宏紀のもいい写真だと思う。
 橋の上に移動して私は下を穏やかに流れる川を見つめる。
「宏紀、下に降りてみてもいい?」
「橋の下に?」
「うん」
「帰るのが遅くなるよ」
 またも乗り気じゃない宏紀だけど、「いいから、いいから」と宏紀の手ではなく腕を再び引っ張った。
 私に急かされる形で下に向かう宏紀の足取りはさっきよりは軽い。下り坂だからだろう。
 川のそばに近づいて行くと、少し寒気を感じる。私は両腕を少しだけさする。寒いなら近づかなきゃいいのにって、思われているかもしれない。少しだけ川から離れて、私はその場にしゃがみこんだ。宏紀は少しだけ距離を置いて私の近くにいる。
 川の音が聞こえる。オレンジの色彩も加えてある。静かに目を閉じて、私は周囲の雑音はかき消して水の音色に集中する。
 その私の姿を捉えた宏紀は、しばらくただ眺めているだけだった。いつになったら新浦安駅に着くのか、もしくは私の姿に興味を持ってくれていたらいい。多分、前者だと思う。
 静かに目を開けた。私は私を見つめる宏紀を見て微笑んだ。
「ごめん、自分の世界に入っちゃった」
「別にいいよ。何か聞こえるの?」
 ただ目を閉じていただけなのに、私が音を拾っていたのは気づいていたことに驚いた。耳を澄ませる仕草なんてしてなかったのに。
「よく分かったね。川の水が流れる音が好きで」
「そうなんだ」
「なんか、優しく励まされているような感じがして、落ち着くの」
「……確かに、そんな感じかもね」
 完璧にとまでいかないかもしれないけど、ある程度理解してくれた宏紀を見つめた。
「うん」
 ただ肯定してくれる宏紀の大きな心が大好きだ。素直にそう伝えたかったけど、今はやめておく。そんなことを言って引かれてしまったら、元も子もない。
「今の磯子に引っ越してくるまで群馬県に住んでたんだけど、そこにも同じようなところがあって、いつもそこに行ってた」
 昔の出来事を思い出して私は少しだけしんみりする。
「ずっと磯子に住んでたんじゃないんだね」
「うん。お父さんの仕事でこっちに来たんだ」
「そっか。どっちが好き? 群馬と磯子」
 妙に私の背中が寂しく見えたのか、そう聞いてきた。
「どっちも好きだけど、群馬の方が、人が優しかったかな。高校に入る前にこっちに来たんだけど、友達がたくさんできたから、磯子も好きだけどね」
 本当の私ではなく、偽物の自分と仲良くすることが多くなってきたのは、こっちに来てからだ。自然体でいられるって最高なんだ。
「未砂なら、どこでもうまくやっていけそうだけど」
 そんなことはない。それはただの願望に過ぎない。
「そうかな? そうやってできたら、私も嬉しい」
「未砂、今日は泣かないでよ」
 その言葉に少しだけ涙腺がゆるむ。泣いてほしくないなら、そんなこと言わないでほしい。
「大丈夫……さぁ、駅に行こう!」
 宏紀は頷いて立ち上がった。
 私は宏紀の後ろについてまた新浦安駅を目指した。