大学のお手洗いの鏡に向かって、今の私を写し出す。
 今日はいつもの私に眼鏡がくっついている。イメチェンじゃない。今朝は時間がなくて出発時刻になったと同時にワンデーのコンタクトを掴んで家のドアを開けた。これからもこういうドタバタ劇が永井家で繰り返されるかもしれない。
 コンタクトのカバーを開けて、モザイクガラスの目にコンタクトをかぶせる。十分な水分がなかったのかうまくはまらない。もう一度私はコンタクトを湿らせて、目に近づけるとスマホが洗面台のそばで鳴った。いじわるじゃないだろうけど、タイミングが良すぎてコンタクトを床に落としてしまった。お手洗いと言えば聞こえはいいけど、トイレの床に落としたとなると目に装着するのは気が引けた。洗えば使えるかもって思ったけど、保存液を今は持っていない。捨てるしかない。
 一日分のコンタクトを無駄にして失意の私は再び眼鏡をかけてスマホを覗き込むと、無料通信アプリにメッセージが届いていた。送信者は沙織だった。コンタクトのことで少しだけ抗議したくなったけど、沙織に謝られたらただ許すだけだから何も言わない。

「今日用事があって一限目の講義に行けないからプリントがあったらお願いします! ごめんね」

 講義室へと向かう足取りが止まった。まるで講義室の通路の途中に信号があるように。でも、青に変わったとしても、私は次の一歩を出す勇気があるだろうか。
 私は一人になる。いつもいる沙織がいないということは。
 宏紀たちがいる。でもそこには七海もいる。二人の姿を近くで眺めることになるっていうことだ。
 七海のことは大好きだ。実験科目の時に初対面でも普通に話してくれたし、真面目で笑った表情は天使だ。でも私の心をかき乱してくることも事実だった。意図してのことじゃない。また缶コーヒーが置いてあったら嫌だ。それも意図したことじゃない。私も七海が好きだったら、同じことをしたかもしれない。
 講義の時間が近づいてくる。仕方ない。そんな理由で講義をサボるわけにもいかない。沙織にプリントも頼まれている。
 講義室のドアを、私は俯きながら開けた。いじめられていて足取りの重い女の子のように、ただ誰にも気づかれないようにひっそりと。
 私と沙織がいつも座っている席は空きになっている。みんな律儀なのか、席に各学生の名前入りの紙が置いてあるかのように、だいたいみんな同じ席に座る。あそこに一人で座るのも寂しい。でも宏紀たちに近づいて行くのも怖い。
 どうしたらいいんだろう。
 私は仕方なくいつもの指定席に吸い込まれていった。既定路線のように。迷う前からこの路線しか私の選択肢にはなかったみたいだ。
 前を向くと七海、真也、宏紀は席についていた。前の席に七海が、そのすぐ後ろに宏紀と真也が並んで座っている。三人で談笑している感じだ。私にとって、その三人だけ妙に輝いて見える。華のあるアーティストがスポットライトに照らされているようだった。みんな心から笑っているように見えるし、何よりも大好きな宏紀がそばにいる。
 目が虚ろになって霧が立ち込めてくる。眼鏡越しだからじゃない。むしろメガネの方が度が強いからよく見えるはず。ただの羨望の眼差しだった。
 霧の裏側からひかりがじわじわとたちこめてくる。七海と目が合った。
 その瞬間に私は頬を吊り上げさせられてぎこちない笑みを浮かべる。
 小さく手を振る七海は立ち上がって私に近づいてきた。
 体を小刻みに揺らしながら七海の受け入れ態勢を作る。急造の笑顔はさらに進化して、私の顔の筋肉は鍛えられそうだ。
「未砂ちゃん、おはよう」
「おはよう……」
 話しかけられるのは楽だ。ただ相手の話に耳を傾ければいいから。でも今は例外。
「今日は沙織ちゃんいないの?」
「一限目は来られないんだって。だから……今日はぼっちなんだ」
「前においでよ。私の隣、空いてるから」
 基本的に誘われて断らないのが私の性格だ。前に行くのは嫌だけど、七海を断る気になれない。
 一人の私に気付いて、わざわざ声をかけてくれるなんて、すごく優しい。宏紀が七海に惹かれる理由は十二分に理解できる。何の障害物もなくただ目的地に向かうように、道は平坦でまっすぐなんだ。
「ありがとう」
 誘ってくれたのは素直に嬉しい。私は立ち上がって前に向かった。
「永井さん、おはよう」
 真也がそうやって迎え入れてくれた。
「未砂……遅かったね」
 宏紀がそうやって真也の言葉に続けた。寝不足なのか宏紀の目元にクマができている。
「おはよう」
 宏紀の目元を気にしながら真也と宏紀の出迎えに応える。
 私は空席になっている七海の隣に座った。七海の真後ろに真也が、そして私の後ろに宏紀がいる。七海を真似する形で、私は体を宏紀たちの方に傾ける。
 私の眼鏡越しにある恍惚とした光。でも今日は特別に晴れているわけでもない。誰かがスマホで何かを照らしているわけでもない。それは自然に生まれたもの。
 真也に目を奪われる。キラキラと照らす星のありかは真也の瞳からだった。
 光を放つ星の行く先は七海だった。
 私は思わず身を引いてしまった。見えないテープがひかれているようだった。あまりにもまっすぐなまなざしがある。これを見たら、私じゃなくても自分の居場所はないと感じたかもしれない。
 そして宏紀は、特に何も話すことなくポツンと座っている。宏紀も行き場を失っているようだった。目のクマを至近距離で見ると、寝たいのに眠れていない感じなのか。
 七海は真也に任せておいて、私は宏紀に選んでみた映画のラインナップを見せようと思った瞬間だった……今までばらついていたものが一つの線になってはっきり見えるようになった。知らぬ間に何かに辿り着いた。きれいに整えられた線を動かすのは気が引ける。だから慎重に、崩れないように歩いてみよう。
 周囲には百人近くの学生がいるのに何も聞こえない。
 私は真也と宏紀を同時に見つめる。
 嫌な静寂が私を包んだ。

 部屋のベッドの上に寝転がって私は天井を見つめている。明かりが私の視線のすぐそばにあるから少しだけまぶしいけど、そんなこと今はどうでもいい。私を照らそうが照らさまいが。
 考え事をしていたせいで五、六人の無料通信アプリの返信が滞っていた。私ってこんなに人気があったかなって思った。今はそんなことどうでもいい。
 七海に誘われていった前の席。集中して講義は受けられたけど、胸の痛みを聞くのが嫌で一人になってまで傷を隠した。前に行くのが怖かった。でもそのおかげで、今の宏紀をうまく描写できるようになった。今の宏紀を理解する過程では、必要なことだったんだ。
 真也の光輝く目に私は身を引いた。私に間接的にかかわらないでほしいとまではいかないけど、そんなような雰囲気を感じた。私の考えすぎかもしれない。でも確かに見えないテープは存在したんだ。
 あの眼差しに、私は真也の一途な七海への気持ちを見たような気がした。
 要するに真也も七海が好きなんだ。私じゃなくても、誰が見ても真也の気持ちは丸裸だった。そして何も言わず、視線を落としたままで行き場のない宏紀がいた。
 宏紀も七海が好きだと思う。真也のように七海と相まみえたいと思っているのにそれができないでいる。なぜなら真也がいる。こんなにも近くに真也がいるんだ。
 会話を真也に譲っていると、最初はそう思った。
 でも宏紀の七海への気持ちはそんな軽いものではない。おそらく中学生の時から抱えている気持ち。たまたま同じ大学、同じ学部、同じ学科に所属することになって、秘めてきた想いが蘇ってきたんだ。きっと再会を喜んで、七海に想いを伝えようとしていたんだ。アパートにも出入りできるような間柄だ。
 真也に気を遣っているのか。
 どこかのタイミングで、宏紀は真也の気持ちを聞かされたのかもしれない。それで真也に気を遣って話さないようにしているのか。
 いや、譲る、気遣うということじゃない。
 宏紀は自分の気持ちが自由に表出することができなくなったんだ。真也は知らず知らずのうちに宏紀の気持ちに釘を強く打ち付けてしまった。身動きが取れなくなり、おとなしくポツンと座っていたんだ。真也の視界に、あの時の宏紀の姿は映っていただろうか。おそらくそうじゃない。
 この前、分析室で青ざめた宏紀の表情を見た時から様子が変だと感じた。宏紀に嫌われてしまったのかもって勝手な妄想を脳裏で展開していた私は、恐怖で体をなぞられた。でもうって変わって、カチューシャを私の髪の毛から消し去ってしまったことを謝ってきた。
 最初にカチューシャの感想を尋ねられた時、宏紀の周囲には当然、真也や七海がいた。きっと、二人のことが気になってまともな返事ができなかったのかもしれない。もしかしたら、質問の意味でさえ、分かっていなかったのかもしれない。いつも肯定的な宏紀だから、人を否定するようなことは言わないと思う。
 そしてあの缶コーヒー。
 講義のギリギリになって、宏紀はひょっこり現れた。誰にも何も告げることなく、宏紀はコーヒーを買いに行った。でも宏紀はコーヒーが好きじゃない。あの時も、宏紀の言動と行動には矛盾があった。目的はコーヒーではなかったんだろう。二人と距離を置きたくて、買いたくもないコーヒーを手にして、「最近、飲めるようになった」と嘘を言ったんだ。
 きっとそうだ。
 どこかで真也の気持ちを知ってしまった。それでどんな態度を取ればいいのか分からなくなってしまった。七海と仲良くする姿は、真也を刺激してしまうかもしれない。真也の気持ちも分かった。応援したい気持ちもあった。
 でも溢れかえる七海への気持ちは消せない。そう考えれば、宏紀の表情、張りのない声、虚ろな目が理解できる。私の相手なんて、している暇がないっていうのが宏紀の本音だったんだろう。それでも、笑ってくれたり、新浦安駅まで歩いてくれたり、映画の約束もしてくれていたんだ。宏紀の気持ちに寄り添えなかった自分が笑えてきた。
 そしてこの答えに導かれた時、宏紀は猛烈な嫉妬の気持ちに苛まれていると思う。今の私のように。
 あの缶コーヒーも私の視界から二度と映らないようにしてほしいとさえ思った。コーヒーにとりわけ恨みなんてあるはずがないのに。アパートで食べた野菜炒めの話。七海を気遣う宏紀の優しさ。すべてが私を強く揺さぶってぐちゃぐちゃにする。
 宏紀も身動きが取れない中で、真也と七海が仲を深めていくさまをあんなにも近くで見ているんだ。俯いていたのはそれに必死で抵抗していたんだ。目に見えない嫉妬という名の敵と格闘していたんだ。
 もっと言うと、ただ単純に見たくないんだろう。真也と七海が仲を深めていく過程なんて。
 宏紀の気持ちは中学生の時からのものだ。突然、真也のことがあるからと言って断ち切ることは難しいと思う。
 きっとそうだ。
 私は一人で身を震わした。
 この推測が宏紀の取り巻く現実ときれいに重なれば、表現しようのない恐怖に襲われることになる。自分の気持ちを伝えたくても伝えられない苦しさは、想像するだけでも涙が出てきそうだ。好きなのに好きと言えない。好きなのに、何もできない。
 私はただ首を振って、描き出された苦悩を振り払った。
 宏紀は、このままでいいんだろうか。
 せっかく七海と再会できたのに、このままでいいんだろうか。
 真也と七海が仲良くなったとしても、まだ宏紀に分があると思う。これまで秘めてきた想いを伝えるチャンスなのに、何もせずに終わっていくのだろうか。
 その一方で、この状況は私にとって好都合であることも事実だった。
 七海への気持ちを伝えられないとなれば、これ以上、宏紀と七海の関係の進展はないだろう。七海という最強のライバルはここで姿を消すんだ。真也が止めてくれている間に、私は宏紀の今を理解して、傷を癒してあげればいい。そして弱みにつけこんで、私は宏紀の気持ちを掴むんだ。
 ゾッとした。背筋に溶けた氷のしずくが落ちた。そんなメリットを導き出していた私の卑怯さ。宏紀を苦しめる過程で、宏紀の気持ちを掴もうとするあざとさ。私はただただ最低だった。
 これが、私がたどり着いた宏紀の今だった。
 私の目が閉じていく。ただされるがままに手を引かれて眠り落ちてしまった。