「夏哉ー、ありがとうな」
いつの間にか隣にいたナオキが両膝を地面について深く頭を下げる。前髪の毛先が水に浸かるほど深く、長いことナオキは顔をあげなかった。
聞くか、聞かずにおくべきかを迷う。ナオキは自分がこうすると決めているし、揺らぐことは決してないだろう。夏哉の言葉にさえ、動じないのだから。
開きかけた口を何度も噤むけれど、前髪の水滴を払いながら横目にわたしを見るナオキの瞳とかち合って、最後に一度だけと問う。
「言わないの?」
「なに? 冬華も夏哉と同じことを言うのかよ」
足元の小石を指で転がし、ナオキは歯切れの悪い声を漏らす。まだ、迷うのなら、天秤がわずかでも振れるのなら、夏哉の後押しでも足りないのなら、わたしもその背中を押したい。
「……言わねえ、かな」
「それで、いいの?」
「いいんだ」
煮え切らない返事であればここで畳み掛けるところだった。ナオキはポケットに仕舞っていた手紙を取り出し、額に当てる。目を閉じて、祈るように。
「なあ、夏哉。お前的には、伝えて見送るのが理想なのかもしれないけど、俺にとってはそうじゃないんだよ」
頼むから、とか細い声のあとに続く。
「もう、何も言わないでくれな」
あと一歩の勇気が必要なら、この手紙がその一歩分になりますように。その、夏哉の願いが足りなかったわけではない。食い違っていたわけでもなくて、ナオキの答えはもう出ていた。余計な真似を、とは言わないけれど。
「……ごめん」
「なんで冬華が謝んの。夏哉にも謝らせねえよ」
息を吐くと、白く燻り空へと昇る。行き場のない気持ちを小分けにして、吐き出していく。
「ほら、これも入ってた」
「ありがとう」
四つ折りのメモ用紙を受け取り、手元をナオキが覗き込むのも構わずに広げる。そして、目を疑った。
「これ……って」
初めて住所の書かれたメモを受け取った。町の名前、地区の名前、耳にしたことはある。けれど、それよりも。
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五人目は、ヒサコさん。
すごく優しくて可愛いんだ。
住所は一応書いておくけど
わからなかったからコウトに聞いてな。
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一通目の手紙を届けてから、コウトくんには会っていない。先に手紙を、と遠ざけているうちに訪ねづらくもなっていた。どうしてその名前が今出てくるのかがわからなくて、掴めもしない繋がりを頭のなかで片っ端から洗っていく。
住所が書いてあるから、コウトくんを頼らずに手紙を届けることはできるだろう。先にこの住所の場所に、とまで考えたところでふと取り残していたナオキを気付く。
お互いに状況が把握できていないうちに、首を傾げてみせるとナオキも真似て首を捻った。
手に持っていた手紙をわたしの眼前にかざし、端から顔を出す。
「これ、冬華が持っておくか?」
「どうして? ナオキへの手紙なのに」
「だって、半分は冬華への告白だからさ。千切るか、いっそのこと」
「ううん。ナオキが持っていて」
冗談だとわかっていたけれど、ナオキの持つ手紙に手を添えて突き返す。
「読みたくなったらいつでも言えよ。無くしたら夏哉に怒られそうだし、帰ったら何枚かコピーするけど」
軽口を叩きながら立ち上がるナオキの手を取る。
流されていった花はもうどこにも見えなくて、駅までの道のりをゆっくりとした足取りで歩いた。
同じ方面へ向かう電車に乗り、次の駅で降りる。地名まではわからずとも、これからわたしの向かう場所には察しがついているようで、ドアの境を跨ぎ終えた背中を大きな手のひらが押してくれた。
「またな、冬華」
また、と返すよりも早くドアが閉まる。電車が見えなくまでその場に立ち尽くし、次のアナウンスが響くころに改札へと向かった。