くちびるから溢れ出た自分の吐息が耳に触れて目が覚めた。

昨日、朔間先生に夏哉の話を聞かされたからか、昔の夢を見ていた。


「……大丈夫」


そのあとに続いた言葉を、一言一句違わずに覚えている。

フローリングの床に足をつくと、温もっていた体が一気に冷えていく。


今日は、こんなにも冷たい。


コートを羽織り、ポケットに携帯と未開封の手紙を突っ込む。

物音に気付くように、とあの日から眠るときはずっと開けられている両親の寝室の前を、足音を潜めて通り過ぎる。

あの朝からしばらくは、両親もろくに眠れなかっただろう。外から鍵をかけるような強行に出ていれば良かったのに、とどこか他人事のように考える。


階段の軋む音ひとつにも細心の注意を払いながら一階へ降りて、玄関に向かう。

一度だけ振り向いて、階段の先を見上げた。


今更、あの日と同じことをしようだなんて思わない。

けれど、もしここへ戻ってこられなくても構わないという気持ちもある。


迷いがないことに不安を覚えた。

自分のことなのに、ここへ戻ってくるとは言いきれなくて、だったらどこへ向かうつもりなのかといわれると、それにも答えられない。


玄関のドアを押し開けて、鍵を開ける音は押さえられてもかける音は手の打ちようがないからと開けたまま家を離れた。


あの日、葦の中に放った自転車は不法投棄の名目で今もそこにあるはずだ。

早朝にはまだ早い時間、暗闇の中を歩いているとどうしても、夢の続きにいるような気分になる。

またあのテトラポットの奥に蹲っていたら、太陽がわたしを呼んでくれるんじゃないかと、淡い期待さえ胸を過ぎった。


迷った末に、橋を超えて河川敷の公園に向かう。

幼い頃、夏哉と目指した場所。どうして今隣に、夏哉はいないのだろう。

吐いた息の色も見えないほど透明な夜の下を、落とさないように、なくさないように、ポケットの中の手紙をしっかりと掴んで歩いていく。


向かう先が、昨日なのか、今日なのか、明日なのか。

戻りたくないし、繰り返したくないし、欲しくない。


夢の続きを忘れていないことを確かめたくて、あの、決定的な言葉を夏哉がくれた日のことを思い出そうとする。


明日はきっと、明るくて。

明日はきっと、あたたかくて。

明日はきっと、優しい世界になる。


それらはすべて、夏哉がいたから成り立っていた。

ただの明日なら、夏哉がいなくてもやってくる。

欲しくもない明日から逃れた先こそが、明日の始まりであることは、終わらない悪夢のなかを溺れるようだった。


触れなかったくちびる、握られるばかりで掴めなかった手、夏哉に向かって踏み出せなかった一歩。

どれかひとつでも、足りていたら、満たされていたら、夏哉に届いていたのだろうか。


「……夏哉」


寂しい、悲しい、苦しい。

色んな感情が顔を出そうして、詰まって、息をする隙間さえない。


たった六枚の紙切れがこの手から離れていった程度で、指針を無くしたように心がぶれ始める。一歩、一歩と進むたびに、そんなつもりはないと思っていたのに、あの日に向かっていくみたいだった。


夜の町はとても静かで、けれど、行くところによってはとてもうるさい。

現実よりも夢の中の方が幸せだと知ったのは、未知で恐ろしいものが減って、こわい夢をあまり見なくなったあとだ。

眠らなければ朝は永遠に来ないものなのだと信じて、短針が0が跨ぐ前までは起きていようと意気込んでも、いつの間にか眠ってしまうから、朝に負けたような気分で起き上がっていた。


今はもう、朝まで起きていられることもできるくらいなのに、夜はいつの間にか、あっさりと明けてしまう。

幼い頃、眠るまでそばにいると言って頭を撫でてくれた人は、わたしが眠ったあと、どこへ行ってしまったのだろう。今日と明日の歪に落ちて、いなくなっているのだと、いつまでも信じていたかった。


『泣かないで、冬華』


公園にたどり着いて、露に濡れた芝生を踏み締める。

夏哉の声が、今もまだ鮮明に聞こえているつもりだったのに、脳内に響いたのは夏哉の台詞を読み上げるだけの自分の声だった。


ナオキと出会ったあとから、わたしは携帯を手放せなくなった。どこに行くにも携帯を持って、今だって、残り少ない充電がそろそろ切れてしまうというのに、ポケットに入れて。その理由が、悔しい。


わたしは、もう。

写真で確認しなければ、夏哉の顔をぼんやりとしか思い出せない。

声なんて残していないから、似た声を聞き分けることはできても夏哉の声を再生することはできない。


そうであることに決定的に気付いたのは、ナオキを待っている間に写真のフォルダを見たときだ。なんとなく感じた、夏哉ってこんな顔だったんだ、が見る間に膨れて腫れ上がった。いつでも、夏哉の顔がわかるように、これを持っていないと不安なのだ。


静寂が辺りを満たす中、一縷の望みに縋るように、7通目の手紙を開く。

宛名も数字もない封筒が風に攫われて飛んでいく。

便箋だけは決して手放さないように、としっかりと両手で掴む。


雲間から月が顔を覗かせたタイミングで、文字に目を落とした。