意識を失った経験なんてないけれど、ふっと体が軽くなる瞬間があった。

それでもまだ、わたしはここにいて、冷たいとさえ感じなくなった水に全身を包まれていた。


「冬華!」


頭の上から降ってきた、わたしの名前。

ほとんど無意識に視線を上向けると、いつの間にか白んでいた空の真ん中に、夏哉がいた。わずかな隙間からたしかに目が合った。


太陽だ。

夏哉は地上の太陽だ。


こんなにも、近くにある。

本当に、届いてしまいそうなほど、近くに。


手を持ち上げられるほどの体力は残っていなくて、わたしの名前を呼び続ける夏哉の声だけが聞こえていた。


眠ったのか、意識を失ったのかわからないまま、目が覚めたときに見たのは白い天井。

揺れるカーテンの隙間から窓の外を見遣る。たぶん、まだ、朝なのだと思う。

瞬きをしながら、ぼんやりと空を探すけれど、太陽は見つからない。


体が熱くて、寒くて、重くて。

もう一度、眠ってしまった。


次に目が覚めたとき、傍らには両親がいた。泣きじゃくる母親に握られた手の感覚はまだあまりなくて、鼓膜を劈く父親の怒声は耳に綿が詰まったように遠い。


馬鹿なことを、と言われても。

どうして、と問われても。

何があったのか、と聞かれても。


答えられることはひとつもなかった。


わたしを見つけたのは夏哉で間違いないと両親に聞かされた。どうやって見つけたのか、居場所がわかったのかは知らない。夏哉は教えてくれなかった。

体調が戻り次第退院して、いつも通りの日常に戻るかと言われると、そうではなかった。


わたし自身の心がまだ不安定で、ユリの前で携帯を壊したり、授業中に気分を悪くすることが増えた。

わたしが勝手に出ていかないように、両親はわたしの部屋を玄関からいちばん遠い場所にして、窓には柵をつけ、万が一抜け出しても気付けるように、と自分たちの寝室のドアを開け放して眠るようになった。


取り返しがつかないほどのところまで、行けなかった。


相変わらず渡り廊下に出るにもついてくるし、保健室で眠るにもそばにいるし、学校に行きたくないと部屋に篭っていれば夏哉も行かないと言い始める始末。


夏哉はわたしを止めてくれると知ってしまったから。声どころか姿も見えないように眩ました行方を見つけられてしまったから。逃れられないと諦めて、消えたいときは消えたいと、死にたいときは死にたいと口にするようになれば、夏哉は決まって『そっかそっか』と頷いてわたしの手を握ってくれた。


浮いては沈み、また浮かぶ。そんな日々が続いて、あるとき、夏哉が言った。もう疲れたとでも言われるのではないかと身構えるわたしを真正面から見つめて、声が放たれる。心に流れるように、雪崩れるように。


『生きていよう』

『頑張らなくていいから、人の言うことなんてたまに聞いていればいいから、泣けなくても、笑えなくてもいいから、生きていよう』

『大丈夫、冬華』


消えてしまおうと誘うことも、生きてと言って聞かせることもなかった夏哉がはじめて、わたしに『生きていよう』と伝えてくれた。

大丈夫の意味は、夏哉がくれた言葉というだけで、じゅうぶんだった。