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「……消えたいなあ」
もうずっと、頭にはそれしかなかった。
眼前に広がる景色には色が付いているけれど、淡く鈍色がかって、端々が錆び付いて見えるのだ。気のせいなのだけれど、でも以前のような色に見えないのは確かだった。
吹き曝しの渡り廊下の手摺りに組んだ腕を乗せ、その上に顎を置く。
「そっか。そうだよなあ」
間延びした声で同意を示されても、夏哉が同じことを考えいるとは思えなかった。教室を出て行くところを目敏く見つけて、夏哉はわたしについて回る。五人分の間隔を開けて手摺りに背を凭れる夏哉との距離を詰める気はない。夏哉も右に一歩近寄ればわたしが左に一歩逃げると知っていて、距離を保っている。
いま、わたしがこの手摺りを跨いだとしたら、夏哉の手は届くのだろうか。
そんな馬鹿な考えが頭に過ぎって、けれどそれを馬鹿なことだとは言い切れなくなったのは最近の話ではなかった。
希死念慮が寝ても覚めても渦巻いて、膨れて、いつ糸が切れてもおかしくないことを自覚していた。
悩みがないのに死にたい理由を知りたかった。知っている感情や経験だけでは言い表せず、飲み下すことも吐き出すこともできない何かを消したくて仕方がなかった。
夏哉が傍らにいると気が紛れるときもあったのに、隣に立つその姿さえ輪郭が霞んで見えてしまう。
「どうする? 戻る? サボる?」
そわそわと声を弾ませる夏哉を無視して、中庭の時計に目を凝らす。あと二分で授業が始まる。手摺りを強く押す反動でぐっと背筋を伸ばし、教室へと向かう。夏哉はぶつぶつと文句を垂れながら、わたしの後ろをついてきた。
教室に戻ると、クラスメイトの視線が一斉に集まり、すぐに散っていった。
廊下側の列の自分の席に座ると、真逆の席の夏哉がなぜか机のわきにしゃがみこむ。机の淵に顎をぶつけながら、じっとわたしを見上げてくる。
「戻りなよ。何してるの」
「んー? まだいいよ」
電波時計の秒針はあとななつ振れたら0に戻る位置にある。会話を続ける間もなくチャイムが鳴る。それでもゴンゴンと顎をぶつけて目だけはわたしに向ける夏哉の肩を手の甲で押す。
「ほら、戻らないと」
廊下の向こうに先生の姿が見えた。力ずくで押し返そうとするけれどびくともしない。わたしがムキになるのが面白いのか、夏哉はけらりと笑いながら自分では動こうとしなかったのに、先生がドアを開けると同時に自分の席へすっ飛んでいって、派手な音を立てて着席した。
授業中、わたしは終始下を向いていた。
テストのときに困らないように、ノートチェックのときに指摘されないように、しっかりと黒板の文字は写す。それさえ、顔を上げるのが嫌で、黒目を限界までつり上げて、黒板を睨みつけるようにして書き留めたものだ。
挙手制ではないから、いきなり当てられてしまうときがあって、それがすごく苦手だった。黒板にチョークで文字を書くのが嫌だ。黒板へと向かう姿を、文字を書く指先を、隠すことのできない背中を、みんなに見られるのが嫌だ。
先生に指名されたとき、首を横に振って拒否をする人なんて誰もいない。わからないと正直に吐く人はいるけれど、わたしと同じ理由を並べる人はいない。誰もしていないことを、わたしができるわけがない。
校則に従って結んだ髪だって、本当は解きたい。
スカート丈は短くしたくないからちょうどいい。
五十分間、俯き続けて、首の後ろの張るような痛みにも慣れてしまった。
授業の合間に渡り廊下に出ることは、わたしにとって呼吸をするようなものだった。