通話ボタンを押して、私は恐る恐る耳にスマホを添える。すると、近距離で瀬名先輩の低い声が鼓膜を震わせた。
『……桜木、あのさ、今から言うこと全部信じてほしいんだけど』
「せ……、瀬名先輩、私の名前覚えて……」
 どうして? 頭が追いつかないよ。
 あんなに胸が張り裂けそうなほど悲しい思いをしたのに、瀬名先輩に名前を呼ばれただけで凍てついた心が溶けていく。
『俺、じつは今日まで本当にギリギリの状態で記憶を繋いでた。スマホに桜木と過ごした記録、全部メモして、写真撮って、毎朝それを見て思い出してたんだ。だけど、スマホを昨日のカフェに忘れてたみたいで……』
「え……」
『スマホは届出てたから、交番から電話があってさっき取りに行ったんだ。ようやく桜木との記録を見て、連鎖するようにいろんなこと思い出して、放課後の桜木とのやりとりを考えて、マジで頭の中真っ白になってた』
 知らなかった事実に、私はどんどん言葉を失っていく。
 瀬名先輩が、そんなに大変な思いをして、昨日と今日を繋げていたなんて、これっぽっちも知らなかった。
 私にバレないように、瀬名先輩はどれだけの努力をしていたのだろうか。
 そしてどれだけ、毎朝昨日までの出来事を忘れていることに絶望していたのだろうか。
 それはどんなに不安で、ツラいことだろう……。
『……さっき、ごめんな。忘れてたせいで、傷つけた』
 瀬名先輩の切ない言葉に、私はスマホを持ちながらぶんぶんと首を横に振った。
 そんな優しい言葉をかけてくれる瀬名先輩に、私はそっと問いかける。
「もしかして、電話くれたのは、わざわざそれを弁解するために、かけてくれたんですか……?」
『いや、それもあるけど……。あ、着いた』
「えっ、着いたってまさか本当に……」
『カーテン開けろ、琴音』
 言われたとおりにカーテンを恐る恐る開けると、降り頻る雪の中に、ダッフルコートに身を包んだ瀬名先輩が立っていた。
 私は驚き目を丸くしながら、急いで窓を開ける。
 頬を突き刺すような冷たい風が部屋の中に入り込んで、自分の白い吐息で一瞬瀬名先輩の姿が見えなくなった。
 瀬名先輩は、下から私を見上げながら電話越しにささやく。
『……泣いてると思ったから、会いにきた』
「え……」
『お前が撮った写真、窓に顔反射してんだよ』
「う、嘘ですよね……。そんな、は、恥ずかしくて消えたい……」