ぼうっと私の顔を見つめたまま、その場から動かないでいる。
「瀬名先輩……? 記憶のリハビリ、するんですよね」
 そう呼びかけると、瀬名先輩はハッとしたように目を見開いて、自分の頭を片手で強く叩いていた。
 あまりに不可解な行動に、私は一連の様子を訝し気に見つめることしかできない。
 もしかして、今一瞬私の顔を忘れていた……?
 いや、まさか。そんなこと、あるわけない。
「遅ぇーよ。そんなとこで止まってないで、早く来い」
「あ……、はい」
「髪の毛、いつもみたいに顔隠してなかったから逆に一瞬分かんなかったわ」
 そういうことか、と、ほっとしながら私は自分の髪の毛を触る。
「あ……、これ村主さんにやってもらって……」
 瀬名先輩に急かされるまま、階段をのぼり音楽室へと入る。
 めったに使われない第三音楽室なので、私はきょろきょろと落ち着きなくあたりを見回した。
 瀬名先輩は、古びたピアノの前に立つと、私の方にカメラを向けて何かを撮った。
 パシャ、という音がして、私は反射的に目を瞑ってしまう。
「え……、い、今何か撮りましたか?」
「スマホ新しくしたから、画質たしかめたくなった」
「私なんかの写真で、高画質を無駄遣いしないでくださいよ……」
「たしかにな」
 はは、と笑いながら、瀬名先輩はピアノの鍵盤蓋を開けると、ポーンとひとつ高い音を鳴らした。
 寒々とした埃っぽい音楽室に、軽やかな音が転がり込んで、私はその場に思わず立ち尽くす。
 そのまま、瀬名先輩は「覚えてるかな」と呟いて、立ちながらピアノを弾き始めた。
 信じられないことに、水辺を転がり落ちるような透き通った音が、彼の手から生み出されていく。
 なんだか聴いたことのあるメロディーだ。
 そうだ……たしか、卒業式にピアノの生演奏を聴いたことのある、ショパンの“別れの曲”だ。
 真冬なのに、一気に目の前に春の景色が浮かんで、私は言葉を失う。
 ひととおり弾き終えた瀬名先輩は、茫然としている私を見ると、手招きした。
「何突っ立ってんだよ。おいで、桜木」
 そう言われて、私は恐る恐る彼に近づく。
「な、なんで弾けるんですか」
「昔、習わされてたんだよ。母親に無理やり」
「え……」
「不思議だな。やっぱり、どうでもいいと思ってたことばかり、体が覚えてる。……今日は、なんとなくそのことをたしかめたくて、ここへ来たんだ」