そんなふうに安心していると、私はふと村主さんに返すものがあることを思い出した。
「そうだ、村主さん。千円返す……」
「は? だからいいって言ったじゃん。いらねぇよ」
「でも、返す。私もいらない」
「そんな紙切れ返すくらいなら、瀬名先輩のこと返せよ」
「せ、瀬名先輩は、モノでもお金でもないから……」
「そんなこと分かってんだけど。マジレスすんなよ」
 そう言い捨てると、村主さんは私に千円を再び突き返した。
 私は行き場のないお札を持ったまま、彼女が教室を去っていくうしろ姿を眺めていた。
 村主さんが廊下に出ると、彼女を見つけた派手な女子が「ねぇ村主ー、今日もカラオケ行こう! 村主のお金で」と笑いながら話しかけていた。
 彼女はたしか……いつか廊下で絡んできた茶髪ショートボブの先輩だ。
 村主さんは平然と「いいっすよ」と答えて、その先輩と一緒に去っていく。
 私は、なぜか彼女が見えなくなるまで、目を離すことができなかった。
 そして、勝手な同情をしている自分に、少し嫌気がさしていたんだ。



『記憶のリハビリ、今日は第三音楽室集合』。
 放課後になると、瀬名先輩からいつもどおり素っ気ないメッセージが届いていた。
 この関係が続いてから、もう一カ月が経とうとしている。
 瀬名先輩に呼び出されるのはいつも気まぐれで、私が帰る直前にいつも連絡が来る。
 今日は音楽室……いったい何をするつもりだろうか。
 先輩と会うときは、いつも期待と不安に満ち溢れている。
 選択教科で音楽を選んでいないので、音楽室に向かうこと自体自分には新鮮だ。
 人気の少ない階段を駆け上がっていると、ふと村主さんの顔が頭の中に浮かんだ。
 瀬名先輩を返して、と言った彼女の顔は、悲痛に満ち溢れていた。
 たくさんの愛を必要としている彼女だけど、きっと、本当にほしい愛はたったひとつなんだろう。
 瀬名先輩の記憶のリハビリに付き合っているのは、あのノートを取り返すためだけど、この行動は、きっと村主さんを苦しめている。傷つけている。
 そう思うと、私はとたんに一歩も進むことが出来なくなってしまった。
 階段の途中で立ち止まっていると、ふと上から視線を感じた。
「あ……」
 階段をのぼりきった場所にいたのは、いつもどおり無表情の瀬名先輩だった。
 しかし、いつもと少しだけ様子が違う。