靴を履きかえ校舎から出ようとしたけれど、アプリに遅延通知が流れて外に出るのをやめた。
 下駄箱が整列した冷たい昇降口から、雪が積もったバス停の景色を、ぼんやり眺めていると、どこからか話し声がかすかに聞こえてきた。
「……ずっと好きで、だから、瀬名(セナ)先輩と付き合いたいんだけど」
 開けっぱなしの空き教室から聞こえる女子の声は、緊張で震えていた。
 聞いてはいけないと思いつつも、雪が降ってる日の校舎はすごく静かで、他になにも生活音がなくてどうしても耳に入ってきてしまう。かといって、いつ遅延したバスが来るか分からないからこの場から動けない。
「俺、お前のこと忘れたことないよ」
 男子側の声が聞こえた。言葉の意味と裏腹に、なぜかその声はとても冷たい。
 瀬名……。なんかどこかで聞いたことのある名前のような……。
「え、それってどういう意味……?」
「俺が覚えてるってことは、俺にとって村主(スグリ)は全然特別じゃないってことだから」
 覚えてるってことは、特別じゃないってこと。
 普通は、逆の意味になるはずなのに。
 そこまで聞いて、私はこの人が誰なのか、完全に予想がついてしまった。
「わ、分かってるよ……。瀬名先輩の記憶障害のことは……。それでも、そばにいたいの」
「なにそれ、すげぇな。ドラマみたい」
 ーー三年生に、記憶障害を持った先輩がいると、クラスメイトが噂しているのを聞いたことがある。
 それも、その先輩の見た目がとんでもなくいいせいか、よく話題になっていた。
『瀬名先輩は、大切な人の記憶だけ忘れてしまうんだって』。
 そんな記憶障害があるんだと、聞き耳を立てながら少し驚いたのを覚えている。
 そしてそのとき、瞼を閉じて想像したんだ。
 永遠に大切な人だけが現れない世界を。
 ……想像したら、現状と変わらない世界すぎてひとりで授業中に失笑してしまったんだった。
 なんて、くだらないことを思い出しているうちに、会話は進んでいた。
「とにかく、私は伝えたから。返事はいつでもいいから」
「返事はいつでもいいなら今言うよ。答えはNOで」
「ちゃんと考えろ! バカ瀬名先輩! また明日話しかけるから、じゃあね」
「痛って、中身入ったペットボトルで殴るな」
 やばい。女生徒がこちらに近づいてくる。
 私は息を殺して下駄箱の影に隠れて、バレないように身を潜めた。