頭の中ではツッコミの嵐だったが、俺は桜木が手にしているパンを、桜木の手ごと包み込んでひと口食べた。
 思わぬ至近距離に、桜木は息を止めているのがわかる。彼女の丸い目を見つめながら、俺は「クソまずい」と言い放った。
「に、人気のパンはすぐ売り切れちゃうんですよ……」
「こんなまずいパン、忘れねぇわ」
「なら、よかったですね……? 記憶のリハビリになって」
 こんなテキトーなことを言う桜木といることが、なぜ俺は少しだけ心地いいと思っているんだろう。
 周りには、俺の記憶障害を不安がる大人しかいないから?
 それとも、無理やり俺に合わせてくる不自然な友人しかいないから?
 普通の高校生の会話ってやつを、桜木とだけできている気がするから?
 自問は絶えず、胸の中で桜木の存在が色濃くなっていくのを感じる。
 もっと、こいつのいろんな顔が見てみたい。
 そんなふうに思って、おもむろに桜木の額に手を置いて、無理やり顔を上げた。
 桜木の少し茶色い髪が、カーテンから漏れた光に照らされて、白く透き通って見える。
 肌は雪のように白く、長い前髪からのぞく目は丸くて動物のよう。
「……なあ、土曜ヒマだろ。どうせお前友達いないし」
「ひ、ひどい……」
「土曜十二時に、西花園駅の時計台前に集合な。遅れたらノートのことバラす」
「え……?」
「分かったら返事」
 俺は桜木の頬を人さし指と親指で挟んで脅した。
 桜木は頭の上にはてなマークを浮かべながらも、こくこくと頷いた。
 自分でもこんな脅した誘い方あるか、と思いながら、桜木の頬から手を離した。

 ……もし、彼女が自分の中で本当に大切な人になってしまったら。
 忘れることも、そんな存在が自分の中に生まれることも、本当は怖い。
 でも、俺はきっと、従弟のように「なんでもないことが大切な思い出になる」経験をしたいだけなんだろう。
 たとえ明日、忘れたとしても。



 西花園駅の時計台に、十二時集合。
 強引にそんな約束を取り付けられて、私は混乱していた。
 休日に学校の人と会うのなんて、いったい何年ぶりだろう。
 そんな思い出、中学生のときまでさかのぼってもないかもしれない。
 私は今、リュックの肩ベルトを両手で持ちながら、瀬名先輩の言うことをどこまで本気にしていいのか分からないまま帰宅している。