何度忘れても、きみの春はここにある。

「村主さん、私……」
「うん……、どうしようか。どうしようね……」
 村主さんの瞳が、わずかに涙で潤んでいるのを見て、私は胸の中がいっぱいいっぱいになってしまった。
 心臓がはち切れそうなほど、悲しい。
 どうしたらいいのか、分からない。
 私たちはその日、途方に暮れたまま、窓の外から見える景色を眺めていた。

side瀬名類

『ずっと、類に確認したいことがあるんだけど、今度会おうよ』
 岡部から、そんなメッセージが突然届いた。
 俺は今、就職説明会の帰りに、スーツ姿で研究室に立ち寄り、エントリーシートを記入しているところだった。
 岡部と菅原と遊んだ日々は、たぶんお互いに楽だったけど、あまりいい印象はない。
 高校生特有の尖り方をしていただけなのだろうけど、岡部はとくにあのときいろんなことに攻撃的だった。
 菅原からは、すっかり落ち着いてるよ、と聞いていたけれど、それは本当だろうか。
 スマホを見たままぼうっとしていると、同じ研究室の志賀(しが)が話しかけてきた。
「瀬名君、また女の子に誘われてるの」
「志賀じゃないんだから、遊ばねぇよ」
「俺は就活終わるまで真面目人間になるって決めたから、言いがかりやめてくれる?」
 黒髪を方耳にかけて、前髪をかきあげ、黒縁眼鏡の須賀は、俺のことを不満そうな顔で睨みつけている。
 志賀は勝手に俺からスマホを奪い取ると、「さすがイケメンは就活中の地味スタイルでもモテるな」と茶化してくる。
「お前が勝手にミスターコン推薦したこと、一生恨んでやるから楽しみにしとけよ」
「怖っ、なんでそんな顔すんのー。瀬名君が一番嫌がりそうなことしてあげようと思っただけなのにー。ていうか、類のスーツ姿で同じ研究室の後輩が全然集中できてないの気づいてる?」
「知るか」
 今度は俺が志賀を睨みつけ、強めに肘打ちをしてやった。
 こいつは、頭がいいくせにわざとお調子者を演じていて、なかなか癖が強い人間だ。
 なんでこんなに絡んでくるのかは不明だが、こいつが近くにいるおかげで他の人が寄ってこないので虫よけとしてはちょうどいい。
「でも、瀬名君さ、この人ちゃんと話したいことあるっぽいよね。下心なしで」
「……確認したいことって、見当もつかねぇな」
 就活関連で、何か情報交換がしたいとかだろうか。
 そういえば、岡部も同じ文学部と言っていたような気がする。
「この子、高校時代からの友達とか?」
「……まあ、高校のクラスメイト」
「へぇ。瀬名君、ちゃんと友達いたんだね。高校時代のこと聞くとすごく怒るから、ずっと孤独な暗黒期なのかと思ってたよ」
 志賀の発言を無視しながら、俺は再びエントリーシートと向き合う。
 高校時代のことを聞かれても、別に怒っているわけじゃない。
 思い出そうとするとズキッと頭に痛みが走り、何かに飲み込まれそうな間隔に陥るから、ただ怖くて考えたくないだけだ。
 一年生のときに、記者に追いかけられたりしたせいだろうか。
 俺は人一倍、"過去"を聞かれることに敏感になってしまった。
「あ、また岡部ちゃんからメッセージ来てるよ」
「お前、人のスマホ盗み見んのやめろ」
 志賀の言葉に、もう一度スマホを確認すると、そこには『明日の十九時、このカフェで勉強してるから来れたら来て』というひとこととともに、お店のマップが共有されていた。
 岡部のことだから、ただお酒を飲みたいだけかと思っていたが、そういう訳ではなさそうだ。
 志賀の言うとおり、"ちゃんと話したいこと"があるんだろうか。
 俺は少し考えてから、ちょうどカフェの近くで説明会もあることだし、行くことに決めた。

「よ、類。久しぶり」
 新宿駅から少し歩いたところにある地下のカフェで、黒髪ボブ姿の岡部が座って待っていた。
 彼女もリクルートスーツ姿なので、就職活動の帰りだったのだろうか。
 記憶が金髪のイメージで止まっているので、俺は一瞬岡部だと認知できなかった。
 俺は薄い春コートを脱いでハンガーにかけてから、岡部の前の席に座って、アイスコーヒーを注文する。
「久しぶりだな」
 俺がそう言うと、岡部はじっと俺の顔を見つめてから、「相変わらず顔だけはいいね」と恨めしそうに言ってきた。
 俺は呆れた顔でその言葉を無視し、運ばれてきたアイスコーヒーをひと口飲む。
 岡部も、顎先で切りそろえられた髪の毛を耳にかけ、飲み物に口を付ける。
 しばし沈黙が流れてから、岡部はひとり言をつぶやくように「来てくれると思わなかった」とこぼした。
 何も言わずにそんな彼女を黙って見つめていると、岡部は昔を懐かしむように語りだした。
「……放火事件に類が巻き込まれたって聞いて、本当に驚いたけど、まずは無事でよかった。連絡も返ってこなくて、状況が分からなかったから」
「……ごめん、スマホ焼かれて買い換えてた。メッセージアプリも再登録したから」
「あ、大丈夫。たぶん、そうなんだろうなって思ってたから」
 たしかに、菅原の言うとおり、岡部の雰囲気が高校時代のときよりだいぶ丸くなっている。
 昔はもっと周りの空気が張りつめていて、常に自分が一番でいたいというオーラがにじみ出ていたような印象だったから。
「……私ね、類といたら、特別な人間になれる気がしてたの」
「なんだそれ」
 突然、自嘲気味に笑みをこぼした岡部に、俺は眉をひそめる。
 "確認したいこと"がなんだったのか、すぐに聞きたい思いだったが、俺はそのまま岡部の昔話を流し聞くことにした。
「学校の皆が注目してる類と一緒にいたら、自分も強くなれる気がして……。根拠もない自信で周りを威嚇して、近寄りがたい自分は強くて特別なんだって、ずっと勘違いしてた」
「……たしかに、無駄に荒れてたな」
「たぶん、クラスメイトで私のことを好きな子、ひとりもいなかったと思うんだよね。卒業後クラスの集まりにも誘われなかったし。そんで、運悪く同じ大学、同じ学部に行ったクラスメイトがいてさ。その子に素行が悪かったって学部内で噂流されて……、まあ全部事実なんだけど。これが因果応報かーって、思った」
「友達作りに苦戦したってことか」
「学内ではね。サークルでは普通にいい子ちゃん演じてます」
 いつも毅然としていた岡部だったが、まさか友人関係で躓いていたなんて意外だ。
 俺はとくに慰めの言葉も何も言わずに、再びコーヒーを口に運ぶ。
 何も思いやりのある相槌を返していないのに、岡部はまだ話し足りないようで、懺悔するように俯き、言葉を吐き出す。
「もうひとつ因果応報といえばの話で、話がすごく飛ぶんだけど、私最近彼氏と大喧嘩してさ。向こうが社会人でなかなか連絡取れなくて、不安になったことが原因なんだけど」
「本当に飛ぶな」
「ただただ話し合う時間が欲しくて、電話を何回かかけたわけ。そしたら、"普通にメンヘラ無理だから距離置こう"って言われたの」
 岡部は怒りに満ちた声で「どう思う?」と問いかけてきたが、俺は何も言わずに彼女の言葉の続きを待った。
「その四文字で自分の気持ちを片づけられたことがすっごくムカついて……、何か言い返そうとしたんだけど、急に気持ちが冷めていってさ。あ、これ、私がよく友人に笑いながら言ってたことじゃんって」
 岡部はグラスを両手で握りしめながら、自分に呆れたような表情で、ひとつ大きなため息をついた。
 しばし沈黙が続いて、岡部は自分の気持ちを一度落ち着かせるように、飲み物をひと口飲んだ。
 それから、ゆっくり思い出すように、噛み締めるように、言葉を紡ぐ。
「それで、思い出したんだよね。すでに過去に、そんな自分を怒ってくれてた子がいたなって……。今になって、あのときちゃんとその子の言葉を受け止めてたらなって、思ったの」
 岡部が丸くなった理由は、大学生になって、いろんな傷つくことを経験したせいなのだろうか。
 卒業以来会っていない人は、学生の頃の記憶のまま止まっていたけれど、この数年間で俺が想像する以上に、皆いろんなことを経験して、考えて、生き抜いているんだろう。
 俺は岡部が経験したことを想像することしかできないけれど、彼女に対する印象は大きく変わっていた。
「そうか」と、短く相槌を返すと、岡部は今度は心配そうな目で俺のことを見つめてきた。
「この話聞いても……、やっぱり思い出さない?」
「……なに、なんのこと」
「桜木琴音のことだよ」
 サクラギ、コトネ……。
 その名前を聞いた瞬間、ズキンと再び頭の一部が激しく痛んで、俺はこめかみを指で押さえた。
 岡部は「本当に忘れてるんだ」と切なそうに呟いて、そのまま黙ってしまった。
 痛みに耐えながら、俺はそんな彼女を問い詰める。
「何、それ。俺の過去に関係してる人ってこと?」
「そうだよ。たぶん、すごく大切な子だったはずだよ」
「……思い出せねぇ」
 頭が割れるように痛い。しばらく、過去のことは誰にも触れられないで過ごせていたのに。
 よほど、自分の過去に大きく影響している人なんだろうか……。
 必死に名前から記憶を呼び起こそうと試みるが、顔も何も浮かんでこない。
 そんな俺に向かって、岡部はスマホをカバンから取り出して、画面を俺に見せつけた。
「今日、確認したいって思ってたのは、このことなの。……ねぇ、これって、類のアカウントだよね?」
 画面の中には、勿忘草を摘んでいる女子高生のうしろ姿があった。
 思い出せもしないのに、俺はその写真を見た瞬間、なぜか涙をこぼしていた。



side桜木琴音

 瀬名先輩の大学に行ってから一週間後、そのまま夏休みに入り、私は家と市の図書館を往復する日々を送っていた。
 私の様子を心配した村主さんから、たまにおもしろい動画のURLが送られてきたりして、私はそれをひそかな楽しみとして過ごしていた。
 そして今日も、図書館に入り浸りながら、先輩のことをわざと考えないようにするために、本の虫となっている。
 文字を追っているときだけは、何も考えなくて済むから……。
 そういえば、瀬名先輩と放課後遊ぶようになってから、読書時間が極端に減っていた。
 こんなに一気に本を読むことができるのは、いつぶりだろうか。
 なんて、また瀬名先輩のことを思い出してしまった自分の頬を軽くたたいて、私は再び本に集中した。
 周りは勉強している受験生だらけだから、私もさすがに本を読むのは三十分と決めて、あとは参考書を開く時間に当てている。
 目指す目標も立てないまま勉強している私は、どこに流されていくんだろうかと、漠然とした不安が押し寄せる日々だ。
 自分が、興味のある勉強って、いったいなんだろう。
 どの教科もこれといって得意なものはない代わりに、これといって苦手なものもない。
 どこまでもパッとしない自分の能力には辟易する。
 私は一度読んでいた本を閉じて、額を机にくっつけて目を閉じた。
 目を閉じると、すぐに浮かんでくるのは瀬名先輩の姿で。
 考えるだけでじわりと涙が浮かびそうになってしまう。
 ……今、自分にできることは、なんだろう。
 毎日泣いているだけの日々を、もうそろそろ乗り越えたいよ。
 だって、こんなに毎日悲劇のヒロインみたいに泣いていたら、まるで瀬名先輩が悪者みたいじゃないか。
 今は方法が分からないけれど、前に進んでいれば、いつか、私と瀬名先輩の間に何かが起こるかもしれない。
 そんな奇跡を、信じてもいいだろうか。
 ねぇ、瀬名先輩。
 また、あのときみたいに、ぶっきらぼうだけど本当は優しい言葉で、私のことを叱ってよ。
 私、強くなって、もう一度瀬名先輩との関係を築きたい。
 そうなるためには、今、目の前にあることに向き合うしかないんだ。
 そう言い聞かせて、私は参考書を開いた。
 見えないゴール。どんなに走っても、その先に、瀬名先輩はいないかもしれない。
 でも、歩みを止めたままじゃ、きっとどこにも行けない。



 夏休みが明けて、受験ムードもいよいよ本格的なものになってきた。
 ピリついた空気を肌に感じながら、引き続き担任になった小山先生も、いつにもまして授業で真剣な様子だ。
 私は、志望大学をいくつか絞って、放課後は、自分のレベル内でなんとか行けそうな大学の赤本を解く毎日を送っている。
 今日もひととおり授業を終えて、まっすぐ家に帰ろうとすると、小山先生に呼び止められた。
「桜木、ちょっと話そう。お前学部迷ってんだろ」
「あ、はい……」
「隣の教室空いてるから行こう」
 放火事件があって以来、小山先生にはずいぶんと心配をかけてしまっている。
 そのことを申し訳なく思いながらも、私は荷物をまとめて先生のあとをついていった。
 空き教室にある机を動かして、先生は向かい合わせで話せるようにセッティングしてくれた。
 今になってようやく気づいたけれど、小山先生は、本当にいい先生だと思う。
 小山先生が言ってくれることは、本当に全部私の"将来"を思ってのことなのだと、進路に向き合った今しみじみと感じている。
 静かに椅子に腰かけると、小山先生は私の顔を見つめて、ひとつ質問した。
「文系受験で考えてるんだよな? どっちかというと現代文が得意分野なようだし、文学部にある程度絞って、対策したらどうだ」
「はい……、なんとなくそうは思ってます」
「今ひとつピンときてない?」
「ピンときてない、というか……」
 小山先生に鋭く問いかけられた私は、俯いて自分の意見をまとめようと必死に脳みそを回転させた。
 そもそも、自分の進路に今の年齢でピンときている学生がどれだけいるだろうか。
 いちいちこんなところで躓いていたら、きっと前に進めない。
 焦る気持ちと、納得いっていない自分。
 気持ちに折り合いがつかないまま勉強をしていても、成績はなかなか上がらない。
 そんな私を黙って見つめていた小山先生が、またひとつ質問してくれた。
「桜木には、大切な人いるか」
「え……」
「勉強したら、自分の手で守れるものが増えるかもしれない。そんな未来を想像してみたら、答えが出るかもしれないぞ」
 そう言って、小山先生は優しく笑う。
 "大切な人"と言われたときに、真っ先に目に浮かんだのは、やはり瀬名先輩だった。
 勉強したら、守れるものが増えるかもしれない……。
 それは、本当に? こんな私でもそんなことができる?
 思わず自分の両手を広げて見つめ、守りたいものを考えてみる。
 心因性記憶障害を持った瀬名先輩は、大切なものをつくることをずっと諦めてきていた。
 そんな世界を、少しでも変えられるような手助けが、もし私にできたら……。
 それはきっと、私にとって、すごく大きな希望となる。
 できるか分からないけれど、勉強するなら、誰かを守る力に変えたい。
 それは、すごく今の自分にとって腑に落ちる"勉強する意味"となった。
 ふと気持ちが軽くなった私は、「そうか……」と知らず知らずのうちに呟いていた。
「小山先生。ありがとうございます。少しだけ、分かってきました」
「ああ、ならよかった。ずっと黙ってるから不安になったわ」
 小山先生は笑って立ち上がり、「また何かあったらいつでも相談しろよ」と言って教室から去っていった。
 ふと、胸の中に小さな光が差しこんだような気持ちになっている。
 向かっていくべき場所ができた。それだけで、こんなにも力が湧いてくるなんて。
 ……瀬名先輩、私、とにかく進んでみたい。
 もし、瀬名先輩ともう会えなくても、巡り巡って自分の学びが誰かの助けになれるよう。
 その日私は、心理学科のある大学を新たにさらって、勉強に没頭していった。

 次の日の朝。受験モードでいつもしんとしている教室が、珍しく騒然としていた。
 私は不思議に思いながらも、そのザワつきをすり抜けて自分の席についた。しかし、何やら自分に突き刺さる視線を感じ取り、居心地がすごく悪い。
 いったい、何が起こっているんだろうか……。
 もしかして、あの痛いノートが今さらクラスメイトの皆にバレたとか。
 そう思うと、一気に血がサーッと引いていく。
 皆の視線から逃げるようにどんどん背中を丸めて俯いていると、バシッと背中を誰かに叩かれた。
 こんな叩き方をしてくる人物は、村主さんしかいない。
「ちょっと、何猫みたいに丸まってんのよ」
「村主さん……。何やら自分に視線を感じて……」
「え、そんなわけ……あるね」
 周りのひそひそ声と、物珍しそうなものを見るような視線を、今登校したばかりの村主さんも感じ取ったらしい。
 村主さんは「何やったのアンタ」と小声で耳打ちをしてきたが、私はぶんぶんと首を横に振って、「何もしてない」とアピールした。
 よくよく様子を見ると、皆はスマホと私を照らし合わせて、何か噂をしているようだ。
 いったいなんだ……。何が起こっているんだ……。
 聞けずに固まっていると、村主さんがすぐに周りのクラスメイトに聞き出してしまった。
「何見てんの?」
 ひょこっと首を傾けて、近くにいた女子のスマホ画面を眺める村主さん。
 そして、「何これ。琴音のうしろ姿じゃん」と、言ってのけた。
 その言葉に、クラスメイトはさらにザワついて、ひとりの女生徒が確かめるように私に同意を求めてきた。
「ねぇ、やっぱりこれ桜木さんだよね?」
 スマホの画面には、私が勿忘草を摘んでいる写真があった。
 何かSNSにアップされているようで、私は驚きのあまり言葉を失う。
 だって、このとき一緒にいたのは、間違いなく瀬名先輩だけだ。
「これ、昨日から、“泣けるSNS”だって、拡散されてて……、投稿者は顔出ししてなくて不明なんだけど、もしかしたら瀬名先輩なんじゃないかって噂が流れてて……」
 その言葉に、村主さんは私に問い詰めてきた女生徒のスマホを強引に奪い取った。
 そして、スクロールしてその画面を必死に読んでいる。
 しばらく読んでから、村主さんは震えた手で、私にスマホを向けた。
「琴音。このアカウント……、検索してみて」
「え……」
 戸惑いながら、私は自分のスマホを取り出し、言われるがままにそのアカウントを検索する。
 拡散された記事もつられて検索に出てきて、『どこまで実話? 高校生男子の切ない恋の記録が話題』という見出しがついている。
 ドクンドクンと高鳴る胸を片手で押さえつけながら、私はゆっくりそのSNSアカウントを開く。
 するとそこには、瀬名先輩と過ごした日々のすべてが、記録されていた。
「あ……」
 ―――衝動的に、大粒の涙が一粒零れ落ちた。
 私は泣いているところを誰にも見られたくなくて、とっさに教室を飛び出す。
「琴音……!」
 村主さんが心配そうに私の名を一度読んだけれど、ひとりでいたいことを察してくれたのか追いかけてはこなかった。
 私は走った。瀬名先輩と、はじめて会話をした、あの昇降口へ。
 あの日はたしか雪が降っていて、空も地面も真っ白で、世界の輪郭がぼやけて見えていた。
 でも、瀬名先輩に出会ってから、いろんなものが見えるようになったんだよ。
 ずっと自分で自分に呪いをかけていたこと。
 おばあちゃんが本当に言いたかった思い。
 はじめて見た、母親の涙。
 自分のことのように悩んでくれる友人。