それは、この、“無”を恐れている部分だったのだろうか。
 大切な記憶だけ残らない俺の世界は今、ほぼ無に等しい。
 けど、それがツラいと思ったことはない。むしろ、なにも持たないことは楽なのに。
 ……もしかしたら桜木は、俺の知らない世界を知っているのか。
「……記憶のリハビリ、付き合ってよ。そしたら返してやる。このノート」
「え……?」
 ただの、ヒマつぶしの延長だ。
 俺はなにも深く考えずに、そんな発言をした。
 桜木が俺の記憶障害のことを知っているかどうかなんて、どうでもよかった。
「俺にも、覚えておきたいって思う記憶、つくってよ」
「ええ……」
 桜木は、心底嫌そうな顔をして俺を見つめている。
 そんな彼女に、俺は表情ひとつ変えずに約束を押し付け、ノートで軽く頭を叩いた。
「明日も放課後、図書室集合な」
 桜木は小さな声で「はい」と頷いてから、フェイントでノートを奪い取ろうとしたので、俺は天高くノートを掲げる。
 ……こいつ、意外と怖いものなしなんじゃないか。

 廊下の遠くから、「雪が降るから残ってる生徒は早く帰れー」という、教師の野太い声が響いた。
 図書室の窓から見える空は、いつもどおり灰色がかっている。
 いつもと違うのは、明日がほんの少しだけ楽しみだということだけだった。