エピローグ 造花の香り

 昭和26年の春、千鶴は南九州の鹿屋を訪れた。列車による長い旅を共にしたのは、良太の妹洋子と忠之だった。
 良太さんが最後に過ごされた土地をたずねて、飛行場や宿舎の跡はもとより、周辺の風物や景観などもこの眼で見たい。千鶴が抱えていた数年来の願望が、ようやくにして叶えられることになった。千鶴が手にしているバッグには、鹿屋で書かれた良太からの手紙が入っていた。
 戦後もすでに5年あまりが経っていたけれども、戦時中の情景を思い描くに充分な景観と風物が残されていた。最初に訪れたのは、特攻隊員たちが宿舎としていた学校の跡だった。
宿舎の跡を前にしたとき、多様な感情が千鶴をおそった。今なお尽きない良太への思い。良太の出撃を知ったときの悲しみと絶望感。良太さんは人生最後の数日間を、このような所で過ごされたのだ。良太さんはこの場所で、残された貴重な時間を使って、この手紙を書いてくださったのだ。便箋に向かっている良太の姿を想い、千鶴は手紙の入っているバッグを抱きしめた。
 3人は小川に沿った道を歩いた。道端では草がのび、あたりにはれんげ草の花が見られた。良太がかつて眼にした景観にちがいなかった。良太が仲間たちと散策したと思われるその道をたどって、三人は飛行場の跡へ向かった。

 千鶴は戦後まもなくから東京都内の病院に勤務し、薬剤師としての経験をかさねた。もとの家があった場所に、忠之の協力を得てバラックを建て、そこでしばらく暮らしていたが、数年後には家を建てることができた。以前の浅井家にくらべてずいぶん狭かったけれども、不満を口にする者はなかった。
 忠之は復学した大学を卒業して電機会社に就職していたが、その年の春、そこを退職して出雲の村に帰った。新制中学校の理科教師が求められていることを知り、技術者として生きるかわりに、若い世代を指導する道をえらんだ。その秋には洋子と結婚することになっていた。
 忠之の退職金は少なかったとはいえ、3人で鹿屋を訪ねるための旅費には充分な金額だった。忠之は千鶴と洋子に誘いかけ、南九州への旅を実現したのだった。
 千鶴はその機会に出雲の森山家を訪れ、良太の七回忌の法事につらなった。
 4月下旬のよく晴れた夜、洋子と修次に案内されて、千鶴は斐伊川の堤防を歩いた。良太がかつて語ったように、出雲の星空は美しかった。良太との約束が思い出されて、その星空が千鶴の眼にはむしろ悲しいものに映った。

 千鶴は滑走路の跡にたたずんで、良太が向かったはずの南の空を眺めた。彼方の丘にかぶさるように、白い雲がつらなっている。たくさんの特攻機がここを飛びたち、あの雲のかなたの沖縄をめざしたのだ。
 千鶴は滑走路の跡に立ちつくして、良太が出撃したときの情景を想った。零戦が轟々たる爆音をのこして滑走路をはなれ、高度をあげながら遠ざかってゆく。雲を背にした機影が小さくなってゆく。
 洋子と忠之に見守られつつ、千鶴は遠い雲を見つめ続けた。良太さんの飛行機が見えなくなるまで、しっかり見送ってあげなければならない。
 白い雲しか見えなくなった。良太さんは遠い世界に行ってしまわれた。良太さんが手紙やノートに書いてくださったように、私は良太さんから離れて生きて行かなければならない。良太さんがそのように願っておいでなのだから。
 千鶴はバッグを開いて封筒を取り出した。良太が出撃直前に書いた手紙だった。
 鹿屋から送られてきたのは、一葉のハガキと三通の手紙であった。最後に書かれた手紙には、〈我が念願とするところは千鶴の幸せな人生なり〉と記された便箋と、二枚の写真が入っていた。その言葉を読んで千鶴は思った。私の幸せはどうしたら得られるというのだろうか、良太さんがそばに居てはくださらないというのに。
 千鶴は封筒から写真を取り出した。良太が出撃直前に眺めたはずの写真であり、身につけてゆく代わりに送り返してきた写真であった。
 写真を見ながら千鶴は思った。先ほどここで良太さんを見送り、良太さんに別れを告げたけれども、私は良太さんから離れた人生を歩むことができるだろうか。
「写真を抱いて出撃した者が多かっただろうに、良太らしいよな、写真を送り返してくるというのも」と忠之が言った。
「写真を持ってゆく必要が無かったんでしょうね。良太さんは、私たちの面影を心の中にしっかり抱いていたはずですもの」