良太は思った。苦悩や悲しみについては記そうとせず、むしろそれを隠そうとしてきたわけだが、偽りの言葉は記さなかったつもりだ。千鶴に遺す手紙はこれでよい。千鶴が受ける悲しみを、多少なりとも和らげるためのものだから。
 それにしても、今になってこんな不安を覚えるとはどうしたことか。自分なりに考えるべきところは考えつくし、覚悟をかためていたはずではないか。
 もしかすると、俺の心の底には、胸中のすべてを伝えたいという気持ちがあって、それがこのような不安をもたらしたのかも知れない。たしかに、俺はこれまで、手紙にしろノートにしろ、自分の悲しみや悩については少しも記さなかった。そのようなことは書き遺さなかったが、ノートや手紙を受け取った者たちは、俺の気持を推しはかり、理解してくれることだろう。俺は心をこめて書けばよいのだ、少しでもそれが役に立つことを願って。
良太は便箋をおさえてペンを握りなおした。
〈これから先の国情がいかようになろうと、千鶴はしっかりと生きてゆけるに違いない。俺に関わるさまざまな記憶は、千鶴の中にいつまでも残るはずだが、そうであろうと、俺に拘ることなく人生を歩んでほしい。千鶴が俺とは関わのない人生を歩もうとしても、それは俺に対して不誠実なことでは決してない。このことを俺はここに明確に伝えておくし、千鶴にもそのように理解してほしい。かく言う俺自身は、千鶴との思い出を抱いてあの世で生きようと思っているが、だからと言って千鶴につきまとったりするつもりは全くない。とはいえ千鶴が助けを求めているとわかれば、どんな場合であろうと助けたいと思う。〉
 これから先の日本で、千鶴はいかにして、いかなる姿で生きてゆくことだろう。俺が知る千鶴は、21歳になろうとしている千鶴でしかない。10年先の千鶴の姿は想像できるけれども、数十年後の千鶴の姿は想像することができない。もしも千鶴に子供が産まれたら、その子はどんな人に成長することだろう。千鶴はどんな母親になるのだろうか。
 良太は3枚の写真をとりだして、便箋のうえにそれを並べた。千鶴と良太が微笑んでいる写真と、良太が家族たちとともに写っている写真、そして浅井家の玄関で写してもらった集合写真であった。写真に写っている者たちのだれもが、良太がなれ親しんだ面影を見せている。
 ここに写っている者たちは、数十年先にはどんな姿を見せることだろう。俺には想像することができない。残された者たちには、俺はいつまでも現在の姿のままに記憶されることになる。いつの日か、俺たちはあの世で再会できるはずだが、どのような再会になるのだろうか。
 良太は写真をふろしきにもどすと、造花をとりだして鼻に当ててみた。匂いらしいものは感じられなかったが、千鶴の匂いがはっきりと思い出された。良太は造花を紙箱に納めてから、ペンを執ってふたたび便箋に向かった。
〈俺のふろしきには写真と造花が入っている。千鶴の面影はしっかり脳裏に焼きついているけれども、出撃前にはじっくり写真を眺めようと思う。この写真は身につけてゆくつもりだったが、今ここで眺めているうちに、そうはしないことにした。千鶴や家族が写っている写真は特攻機にそぐわない。写真は手紙に同封し、信頼できる士官に投函を依頼する。母から贈られたマフラーを首に巻き、千鶴が造ったこの造花をマフラーに挿してゆこうと思う。
 この造花に香はないが、不思議なほどにはっきりと千鶴の匂が思い出される。忠之の下宿でのことがつい先ほどのことのように思い出される。千鶴がとてもいとおしい。千鶴と共に過ごすことができたあの日のことに、深く感謝せずにはいられない。千鶴とともにあった全てのことに、心の底から感謝している。千鶴よ本当にありがとう。
 書斎での千鶴とのことが思い出される。あの書斎があって本当に良かった。浅井家の皆さんがあの場所で再び安穏に暮らせるようにと願っている。
 焼けた山茶花が芽を出していた。あの山茶花もいつかは花をつけることだろう。花の形や色は以前と変わりなくても、もとの山茶花そのものではなく、蘇生して新しい命を生きる山茶花と言うべきだろう。これから先の日本がどのような国になろうと、希望を抱いて生きてもらいたい。千鶴がこれからの人生を強く生きてくれるようにと願っている。〉
 良太は千鶴にあてた手紙をようやく書きおえた。努力して記した小さな文字で、数枚の便箋がうめつくされていた。
 この手紙は千鶴の悲しみをどこまで癒してくれるだろうか。俺がひたすらにそれを願って書いた手紙だ。この手紙は多少なりとも千鶴をなぐさめ、千鶴の悲しみを癒してくれるに違いない。
 その願いがかなえられるよう祈りつつ、良太は手紙を封筒におさめた。

 天候の具合とアメリカ艦隊の動向により、良太たちは基地でしばらく待機させられた。人生を終える日を待つ過酷な時間を、ノートを開いて言葉を記し、いくつかの手紙を書いて過ごすうちに、良太が出撃すべき日がおとずれた。
 その日の午後、基地に残る者たちに見まもられつつ、良太は爆弾を吊した零戦の操縦席に座った。白いマフラーが巻かれたその首元に花が見られた。二本の造花であった。
残る者たちが帽子を振って見送るなかを、爆弾を抱いた特攻機はひときわ大きな爆音をともない、次からつぎへと離陸していった。
 特攻機は数機ずつの編隊をつくると、飛行場の上空にもどっていっせいに翼をふった。最後の別れを告げた特攻隊は、数時間後に人生を終えることになる沖縄へ向かった。
 良太とその仲間たちが操縦する零戦の機影は、遠ざかるにつれて小さな黒い点となり、雲のかなたに姿を消した。