つぎの日、良太はいったん下宿に帰り、着替えをしてから浅井家に向かった。頭の傷は髪に隠れて見えないはずだった。
浅井家の玄関に入ると千鶴の妹がむかえた。
「いらっしゃい、森山さん。お姉さんもすぐに行くから、岡さんの部屋で待っていてくださいって」笑顔を見せて千恵が言った。「お姉さんは台所でがんばっているとこなの」
千鶴の母親に挨拶をしてから、2階への階段をのぼってゆくと、忠之と沢田の話し声が聞こえた。沢田は忠之の隣室に入っている学生で、千鶴の従兄であった。
忠之と沢田の議論に仲間入りしていると、部屋の入り口で千恵の声がした。「すみません、ちょっと手伝ってください。3人いっしょにお願いします」
階段をおりてみると、廊下にいくつかの食膳がならんでいた。
良太が膳を持ちあげたとき、千鶴の声が聞こえた。ふりかえると、割烹着姿の千鶴がほほ笑んでいた。良太の無事を喜ぶ千鶴の笑顔と声が、良太を幸せな気分にした。
まもなく千鶴と千恵がみそ汁と酒を運んできて、忠之の部屋での準備が整った。
千恵をふくめた5人が食膳につくと、忠之が「それじゃあ、俺からちょっと。千鶴さんから開会宣言役を頼まれたんでな」と言った。
「今日のこれは千鶴さんのたっての希望で、良太が無事にもどったことを祝うのと、ついでに新年を祝おうということだ。良太が特高に呼び出されてびっくりさせられたり、その良太が特高をやり込めて出てきたというので感心させられたり、というわけで、おれ達の正月は波乱含みに始まったが、我が大日本帝国にとっても、いよいよ総力をあげ、決戦に挑むべき年を迎えたわけだ。お国のためと俺たち国民みんなのために、今年もお互いにがんばろうや。というわけだけど、それにしてもだな」忠之が千鶴に顔を向けた。「今どきこんなに豪勢なことをして、大変だろう、千鶴さん」
「ありがたいことですけど、私たちを助けてくださる方があるのよね。このお酒も岡さんからの戴きものだし。良太さんが無事に帰ってくださったお祝いに、ちょうど良かったわ」
「良太は知っているけど、俺のおふくろの実家が造り酒屋なんだよ。こんな時でも少しは造れるもんだから、ちょっと重かったけど持ってきた」
良太は言った。「今日はありがとうな。今度のことは俺の不注意がもとで起こったことだし、特高に呼びつけられたと言っても、大したことはなかったんだ。こんなことをしてもらって、なんだか申し訳ないという気がするけど、ありがたく御馳走になるよ」
良太の簡単な挨拶が終わると、待っていたとばかりに食事がはじまった。
にぎやかな会話の内に食事がすすみ、そのあい間には、千鶴が暖めた酒をはこんできた。
忠之が平然と飲んでいる横で、良太はすでに気分良く酔っていた。沢田がいつにもまして饒舌になり、非常時における学生のあり方を声高に論じた。
食後のかたづけが終わると、千恵を除いた4人は忠之の部屋に集まり、さきほどからの話題をふたたび取りあげた。
「いまどき、岡や森山のような奴がいるとは信じられんよ。挙国一致でやるしかないときに、政府や軍を批判するとはな」と沢田が言った。
「この国の一切を軍部だけにまかせていいと思うか。戦時だからこそ、広い視野を持った人材の知恵を生かすべきだよ」
「もう遅いんだよ、忠之。軍部が政治を動かすようになる前だったら、お前の主張にも意味があったはずだけど、今となったら、軍にまかせるしかないじゃないか」
「お前らしくないぞ、軍にまかせるしかないなどとは。どんなときでも、最善の道をさがし続けるべきだよ」
「森山が言うように、今は軍にまかせるしかないよ。士官学校や兵学校に入学できる程の秀才たちが、徹底的に鍛え上げられて将校になるんだぜ。戦争を指導しているのは、その中でも優秀なやつだぞ」
「今となっては、軍から政治を取り戻せないからな。ところで良太、オニカンノンが言ったことを覚えてるだろ。士官学校などで鍛え上げられると、視野が狭くなる懼れがあるんだ。そういうことだと、軍人政府に最善の道を選べるかどうか、疑わしいということになる」
「オニカンノンと言うのはね」とりなすような口調で千鶴が言った。「岡さんや森山さんの先生なのよ、高校時代の。もちろんあだ名だけど」
「オニカンノンが話したことは覚えてるけど、いくら議論したところで結論はでないよ。これくらいでやめにしないか」
沢田が言った。「ちょっと聞くけど、真珠湾攻撃やマレー沖海戦の戦果を聞いて、お前らはどんな気がした?」
いきなり問いかけられて、良太は忠之と顔を見合わせた。
浅井家の玄関に入ると千鶴の妹がむかえた。
「いらっしゃい、森山さん。お姉さんもすぐに行くから、岡さんの部屋で待っていてくださいって」笑顔を見せて千恵が言った。「お姉さんは台所でがんばっているとこなの」
千鶴の母親に挨拶をしてから、2階への階段をのぼってゆくと、忠之と沢田の話し声が聞こえた。沢田は忠之の隣室に入っている学生で、千鶴の従兄であった。
忠之と沢田の議論に仲間入りしていると、部屋の入り口で千恵の声がした。「すみません、ちょっと手伝ってください。3人いっしょにお願いします」
階段をおりてみると、廊下にいくつかの食膳がならんでいた。
良太が膳を持ちあげたとき、千鶴の声が聞こえた。ふりかえると、割烹着姿の千鶴がほほ笑んでいた。良太の無事を喜ぶ千鶴の笑顔と声が、良太を幸せな気分にした。
まもなく千鶴と千恵がみそ汁と酒を運んできて、忠之の部屋での準備が整った。
千恵をふくめた5人が食膳につくと、忠之が「それじゃあ、俺からちょっと。千鶴さんから開会宣言役を頼まれたんでな」と言った。
「今日のこれは千鶴さんのたっての希望で、良太が無事にもどったことを祝うのと、ついでに新年を祝おうということだ。良太が特高に呼び出されてびっくりさせられたり、その良太が特高をやり込めて出てきたというので感心させられたり、というわけで、おれ達の正月は波乱含みに始まったが、我が大日本帝国にとっても、いよいよ総力をあげ、決戦に挑むべき年を迎えたわけだ。お国のためと俺たち国民みんなのために、今年もお互いにがんばろうや。というわけだけど、それにしてもだな」忠之が千鶴に顔を向けた。「今どきこんなに豪勢なことをして、大変だろう、千鶴さん」
「ありがたいことですけど、私たちを助けてくださる方があるのよね。このお酒も岡さんからの戴きものだし。良太さんが無事に帰ってくださったお祝いに、ちょうど良かったわ」
「良太は知っているけど、俺のおふくろの実家が造り酒屋なんだよ。こんな時でも少しは造れるもんだから、ちょっと重かったけど持ってきた」
良太は言った。「今日はありがとうな。今度のことは俺の不注意がもとで起こったことだし、特高に呼びつけられたと言っても、大したことはなかったんだ。こんなことをしてもらって、なんだか申し訳ないという気がするけど、ありがたく御馳走になるよ」
良太の簡単な挨拶が終わると、待っていたとばかりに食事がはじまった。
にぎやかな会話の内に食事がすすみ、そのあい間には、千鶴が暖めた酒をはこんできた。
忠之が平然と飲んでいる横で、良太はすでに気分良く酔っていた。沢田がいつにもまして饒舌になり、非常時における学生のあり方を声高に論じた。
食後のかたづけが終わると、千恵を除いた4人は忠之の部屋に集まり、さきほどからの話題をふたたび取りあげた。
「いまどき、岡や森山のような奴がいるとは信じられんよ。挙国一致でやるしかないときに、政府や軍を批判するとはな」と沢田が言った。
「この国の一切を軍部だけにまかせていいと思うか。戦時だからこそ、広い視野を持った人材の知恵を生かすべきだよ」
「もう遅いんだよ、忠之。軍部が政治を動かすようになる前だったら、お前の主張にも意味があったはずだけど、今となったら、軍にまかせるしかないじゃないか」
「お前らしくないぞ、軍にまかせるしかないなどとは。どんなときでも、最善の道をさがし続けるべきだよ」
「森山が言うように、今は軍にまかせるしかないよ。士官学校や兵学校に入学できる程の秀才たちが、徹底的に鍛え上げられて将校になるんだぜ。戦争を指導しているのは、その中でも優秀なやつだぞ」
「今となっては、軍から政治を取り戻せないからな。ところで良太、オニカンノンが言ったことを覚えてるだろ。士官学校などで鍛え上げられると、視野が狭くなる懼れがあるんだ。そういうことだと、軍人政府に最善の道を選べるかどうか、疑わしいということになる」
「オニカンノンと言うのはね」とりなすような口調で千鶴が言った。「岡さんや森山さんの先生なのよ、高校時代の。もちろんあだ名だけど」
「オニカンノンが話したことは覚えてるけど、いくら議論したところで結論はでないよ。これくらいでやめにしないか」
沢田が言った。「ちょっと聞くけど、真珠湾攻撃やマレー沖海戦の戦果を聞いて、お前らはどんな気がした?」
いきなり問いかけられて、良太は忠之と顔を見合わせた。