「千鶴、ずいぶん苦労をかけたな」
「だいじょうぶ、良太さんに会えたんだもの」
 面会室での千鶴は思いつめたような表情を見せたが、ならんで歩いている今は、どうにか落ち着きを取りもどしていた。とはいえ、千鶴の横顔はいかにも悲しげに見えた。それどころか、千鶴は全身に悲しみをまとっているようにさえ見えた。かぎられた時間のなかで、良太は精いっぱいに努力して、千鶴の不安と悲しみを和らげようと努めたのだが、心の準備をしないままに会ったので、意をつくせないままに終わった。
 別れるべき場所が近づいた。妻と偽ってまで面会しようとした千鶴がいとおしく、そのまま何もしないで帰すにしのびなかったが、抱きよせることもできない場所だった。良太は体をよせて千鶴の手をにぎり、にぎりかえすその手の感触をたしかめた。
 千鶴と別れなければならない場所に着いた。良太はいたわりと別れの言葉をかけると背を向けて、千鶴の後ろ姿を見送ることなく士官舎にもどった。
 その夜、良太は日記をつけた。
〈午前の訓練終了後、妻が面会に来ているとの知らせあり。千鶴は俺が特攻要員と知り、妻と偽って面会に来た。それにしても、千鶴を俺の妻として面会を許可してくれたのは誰だろう。その人物に感謝したい。
 重い気持ちを抱えて千鶴と向き合っているとき、特攻隊のことを知らせたことを後悔する気持ちになったが、真実を知らせたことで、これからは特攻要員として千鶴と向きあえることになった。千鶴のためにも俺自身にとってもこれで良かったと思う。忠之のお陰と深く感謝す。〉
 良太は思った。特攻要員としての訓練を受けてはいても、かならずしも出撃するわけではないと告げたから、千鶴はその言葉にすがりついているはずだ。俺がほんとうに特攻隊で出撃することになるのか、俺自身にすらまだわからない。いまのところは、千鶴には一縷の希望を持たせておこう。そのような千鶴と向き合いながら、千鶴のために最善を尽くすよう努めなくてはならない。
 外出できる機会があれば、千鶴と忠之には吉祥寺駅で会うことになる。その近くにある忠之の下宿を、あの書斎の代わりに使うようにと忠之が勧めてくれたとのこと。その下宿は農家で、安全な地域にあるらしいが、千鶴や忠之とそこで会える日があるのだろうか。
 千鶴がこの日記を読むのは、俺が戦死してからになるはず。そのつもりで書きつづってきた日記だが、特攻隊のことを知られた以上、今のうちに読まれてもかまわないという気がする。むしろ、俺が生きているうちに読んでもらいたい文章もある。千鶴はいま頃、先に渡した日記を読んでいるのかも知れない。日記に記した言葉が将来においては千鶴を励ますことになるはずだが、今の時点ではむしろ千鶴を悲しませる可能性がある。もしかすると、あの日記はまだ読ませるべきではなかったのかも知れない。
 ペンを手にしたまま思案しているうちに、温習時間は終わろうとしていた。良太はノートを布袋に入れた。

 硫黄島がアメリカに占領されたことにより、空襲のさらなる激化が避けられない事態となった。米軍の沖縄への上陸も予想され、戦況は日本本土の防衛もおぼつかない状況に至った。
 良太には航空隊の雰囲気が変わったように感じられた。良太は予感した、俺たちが出撃する日は遠くないという気がする。
 良太は家族にあてた手紙を頻繁に出していたが、特攻要員であることは隠していた。両親がそのことを知ったなら、何をおいても面会にかけつけるに違いなかった。戦時下の苛酷な交通事情をおして面会にきてもらっても、限られたひとときを共にしたあとで、悲痛な別れを告げ合うことになる。そのような事態はさけたかったし、悲嘆にうち沈む家族の姿を想像しながら出撃の日を待つことは、想像するだにつらかった。
 突然の戦死の報が家族に与える衝撃の大きさを思えば、生還を半ば諦めさせておいた方が良さそうに思えた。良太は家族に手紙を書いて、自分たちの生還がもはや期しがたい戦況にあることを知らせた。その手紙は家族に強い不安を与えるに違いなかったけれども、絶望的な気持に追い込むことはないはずだった。
良太は家族にあてた遺書をしたためた。出撃命令を受けることになったなら、遺品となる品物と一緒に家族のもとに送るつもりだった。