3月4日の日曜日、関東地方は雲におおわれ、3月にしては寒かったが、千鶴には素晴らしい日になろうとしていた。前日とどいた電報が良太の訪問を予告していた。千鶴は乏しい食料を工面して、良太を迎える準備にいそがしかった。
千鶴は頃あいをみて家をでた。上野駅の近くまで歩くと、こちらに向かっている軍服姿が見えた。
千鶴はかけだした。良太さんも私に気がついたみたいだ。良太さんが走っている。これまでは走ったことのない良太さんが、今日はあのようにして走っている。
千鶴は声をあげた。「お帰りなさい、良太さん」
「出迎えありがとう。下駄で走るのは危ないぞ。元気なのはいいけど」
「大丈夫よ。鼻緒が切れてもころんだりしないから」
「いつものみやげ」と言いながら良太が包をさしだした。
「ありがとう、良太さん。おかげで非常食もだいぶたまったわ」
「忠之はどうしてる?」
「岡さんは今日も会社だけど、良太さんに会いたいから昼すぎには帰ってくるって」
千鶴は話しかけるたびに良太の顔を見た。良太の声はいつも通りに明るかったが、顔には疲労の陰が表れていた。
「大変でしょうね、飛行機の訓練」
「最近はよく飛んでるんだ。やっと戦闘機乗りらしくなったよ」
「無理しないでね」と言ってから、千鶴は急いでつけ加えた。「おかしいわね、軍人の良太さんにこんなことを言っては」
「千鶴」と良太が言った。あらためて何かを言いだしそうな口ぶりだった。
「どうしたの?」
「千鶴の机に雛人形が置いてないか」
千鶴の足がとまった。
「どうしてわかったのかしら、雛人形のこと」
「ほんとか。ほんとに人形が飾ってあるのか」
「3年ぶりに飾ってみたんだけど、どういうことかしら、良太さんが知ってるなんて」
良太が興奮ぎみに語った夢の内容を、千鶴は驚愕しつつ聞き、書斎の情景が夢の通りであることを伝えた。
「どうしてこんなことがあるのかしら。私が卒業した小学校へ行ったときにも、良太さんは前もって夢で見たわね」
「やっぱり、俺は夢の中で書斎へ行ったみたいだな」良太が腕をさすりながら言った。
良太が風呂敷包からノートを出して、その裏表紙を上側にしてさしだした。
ノートに描かれた絵を、千鶴は息をとめて見つめた。
「この通りよ、花瓶も雛人形も。ほんとに不思議、いったいどういうことかしら」と千鶴は言った。「私の故郷を見てもらう前には学校の夢を見たでしょ。今度は私の家に来られる前に書斎の夢」
「神様か誰かが教えてくださったのかも知れないな、まだ人間の知らない世界があることを。その絵を描いているとき、なんとなく、誰かに感謝したい気持ちになったんだ」
その誰かが良太さんを護ってくださると嬉しいのだが、と思いながらノートを裏返してみると、表紙には 千鶴へ と記されていた。
「このノート、私にくださるの?」
「そのつもりで書いた日記だけど、約束してくれないかな、おれが生きて還るか、または戦死するまでその日記を見ないこと」
「戦死だなんて、縁起の悪いことを言わないで」
「心配するな、やすやすと戦死などしないから」
「良太さんの日記なのに、どうして私にくださるのかしら」
「日記にはちがいないけど、千鶴にあてた手紙のようなものだと思ってほしいんだ」
まだ読んではいけないと言いながら、良太さんはどうしてこれをくださるのだろう。ふに落ちないところはあったが、千鶴はノートを受けとることにした。
良太とつれだって家に帰ると、待っていた母親がお茶を用意していた。残り少ない貴重なお茶だった。
母親をまじえての歓談をきりあげて、千鶴は良太を書斎にさそった。
「見ろよ、千鶴。雪が降りだしたぞ」2階の廊下で良太が言った。
窓の外に眼をむけると、3月でありながら雪がちらついていた。良太さんがお帰りになる頃にはやんでいて欲しい、と千鶴は願った。
千鶴は頃あいをみて家をでた。上野駅の近くまで歩くと、こちらに向かっている軍服姿が見えた。
千鶴はかけだした。良太さんも私に気がついたみたいだ。良太さんが走っている。これまでは走ったことのない良太さんが、今日はあのようにして走っている。
千鶴は声をあげた。「お帰りなさい、良太さん」
「出迎えありがとう。下駄で走るのは危ないぞ。元気なのはいいけど」
「大丈夫よ。鼻緒が切れてもころんだりしないから」
「いつものみやげ」と言いながら良太が包をさしだした。
「ありがとう、良太さん。おかげで非常食もだいぶたまったわ」
「忠之はどうしてる?」
「岡さんは今日も会社だけど、良太さんに会いたいから昼すぎには帰ってくるって」
千鶴は話しかけるたびに良太の顔を見た。良太の声はいつも通りに明るかったが、顔には疲労の陰が表れていた。
「大変でしょうね、飛行機の訓練」
「最近はよく飛んでるんだ。やっと戦闘機乗りらしくなったよ」
「無理しないでね」と言ってから、千鶴は急いでつけ加えた。「おかしいわね、軍人の良太さんにこんなことを言っては」
「千鶴」と良太が言った。あらためて何かを言いだしそうな口ぶりだった。
「どうしたの?」
「千鶴の机に雛人形が置いてないか」
千鶴の足がとまった。
「どうしてわかったのかしら、雛人形のこと」
「ほんとか。ほんとに人形が飾ってあるのか」
「3年ぶりに飾ってみたんだけど、どういうことかしら、良太さんが知ってるなんて」
良太が興奮ぎみに語った夢の内容を、千鶴は驚愕しつつ聞き、書斎の情景が夢の通りであることを伝えた。
「どうしてこんなことがあるのかしら。私が卒業した小学校へ行ったときにも、良太さんは前もって夢で見たわね」
「やっぱり、俺は夢の中で書斎へ行ったみたいだな」良太が腕をさすりながら言った。
良太が風呂敷包からノートを出して、その裏表紙を上側にしてさしだした。
ノートに描かれた絵を、千鶴は息をとめて見つめた。
「この通りよ、花瓶も雛人形も。ほんとに不思議、いったいどういうことかしら」と千鶴は言った。「私の故郷を見てもらう前には学校の夢を見たでしょ。今度は私の家に来られる前に書斎の夢」
「神様か誰かが教えてくださったのかも知れないな、まだ人間の知らない世界があることを。その絵を描いているとき、なんとなく、誰かに感謝したい気持ちになったんだ」
その誰かが良太さんを護ってくださると嬉しいのだが、と思いながらノートを裏返してみると、表紙には 千鶴へ と記されていた。
「このノート、私にくださるの?」
「そのつもりで書いた日記だけど、約束してくれないかな、おれが生きて還るか、または戦死するまでその日記を見ないこと」
「戦死だなんて、縁起の悪いことを言わないで」
「心配するな、やすやすと戦死などしないから」
「良太さんの日記なのに、どうして私にくださるのかしら」
「日記にはちがいないけど、千鶴にあてた手紙のようなものだと思ってほしいんだ」
まだ読んではいけないと言いながら、良太さんはどうしてこれをくださるのだろう。ふに落ちないところはあったが、千鶴はノートを受けとることにした。
良太とつれだって家に帰ると、待っていた母親がお茶を用意していた。残り少ない貴重なお茶だった。
母親をまじえての歓談をきりあげて、千鶴は良太を書斎にさそった。
「見ろよ、千鶴。雪が降りだしたぞ」2階の廊下で良太が言った。
窓の外に眼をむけると、3月でありながら雪がちらついていた。良太さんがお帰りになる頃にはやんでいて欲しい、と千鶴は願った。